録画のこと 蔵書の処分のこと

録画ということをしない方だ。
昔、2、3回したことはあるが、その後録画をした記憶はない。

大きなコンペの幹事を長年やったことがあります。そのコンペの参加者の1人に、録画テープのメーカーの社長がいて、幹事さん用にと50本のテープを戴いたことがある。

その頃に幾つか、テレビから録画をした記憶はある。
しかし、その録画を見たことはない。

最近は、NHKなどを観ていると、「あっ!録画したい」と思うことがある。

しかし、どうせみることはないと思い止まる。

世の中には、膨大な量の録画をしたテープを保存している人も多いようだ。
収集癖があり、几帳面な人なのだろう。

あるいは、仕事や趣味のために必要なのだろうが、再び見ることはあってもほんの幾つかで、ほとんどはデッドストックになっているようだ。

人によっては、狭い住まいの中で置き場に困っているようだが、内容の素晴らしさが自分にとって価値が褪せていないのであろう、何年経っても処分も整理もできないようだ。

私から見れば、
単なる思いっきりの悪さであり、欲張りであり、定かならざる我が思いにズルズル引きづられているだけであり、今日処分しても何ら痛痒を感ずることもないのにと、余計な御世話を焼きたくなる。

我が息子がそのようなタイプの1人であり、彼のワイフから愚痴を聞いたことがある。
家が片付かないと。

かくいう私も本を捨てられない。

それでも、何度か転居を重ねたのでその度に絶好の機会だと、数千冊は処分してきた。

持って行ってくれた1人は、あまりにも欲張ったために、自宅書斎の床の強化の必要に迫られ、多大の出費を迫られたようです。

現在、保存録画テープはもちろん一本もないが、書籍は3,000冊ほどになっている。
二階の書斎の床が悲鳴をあげているのかもしれないが、今日も一冊、明日も一冊と増えている。

酒やタバコと同じで、これくらいなら良いだろうとの自己診断が、とんでもない結果になってしまうことになるかもしれない。

500冊ほど残して後は処分したい。
しかし、残した500冊の大部分は残しているだけで読み直すことはないだろう。

新しい本で読みたいものは無数にある。

多分、私は、しっかり消化できないで便秘気味の読書家なのだろう。

これからは、一冊読むごとに処分していきたいが、そうするにはあまりにも立派な装丁のものが多い。

内容よりも、見た目の立派さに惑わされているのかもしれない。

人は顔や姿ではないよ、
大事なのは 見た目だよ!
と言う笑い話がある。
これほど、人は見た目に惑わされているようだ。
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.31 2016 未分類 comment0 trackback0

高齢者との会話のテクニック

ほとんど会話にはならないことに遅ればせながら気がついた。

最近、80歳代の人たちと話をする機会が増えるにつれ、「うまく会話ができなかったな〜」と悔やむことが度々である。

通常の相打ちをするとともに、適度にこちらの話を割り込ませたりしながら、話のキャチボールをするのが通常だが、此方の話を割り込ませることができない。

つまり、話を多彩に膨らませ、一汁一菜のお膳を一汁三菜なり一汁五菜にして豊かな食膳にすることがほとんど不可能であることに気がついた。

ひたすら、張り子の虎のように首を振り、首で相槌を打つのみ。それに、穏やかな笑みという演出もしなくてはならない。

要するに、高齢者が話しかけてきたときは、会話をしようなんて思っちゃいない。
自分が喋りたいことを一方的に吐き出したいだげなのだ。

相手が疲れるまで、あるいは、相手が勝手に「こいつと話をしても詰まらない」と断じるまで、根気よく付き合うしかないようだ。

こちらが、控えめに挟んだ話は聞こえていないか、自分の話との整合性を取ることができない。こちらの話を瞬時に処理ができない。

耳が聞こえない、声が大きい、相手の話を聞く気はない。しかし、話をしたくて仕方がない。

その相手としてチョイスされた以上、相手が疲れるまで、キャッチャーに徹するほかはない。
しかも、返球をすることはしないキャッチャー。ひたすら、投げられる球を受けるだけ。

相手の球が尽きてのち、まだ投げたそうなら、話の材料になりそうな球を1つか2つそっと返球として投げ返すのが良さそう。

いずれ、自分もそうなるのだろう。
いや、若い頃から、そのようなタイプの人も多い。
もしかしたら、自分もそうだったのかもしれない。

そのような人が高齢者になるともう天下無敵なのかもしれない。

80歳代に向かって、今から、相手との会話の練習をしなくてならない。

私も仕事柄、自分の話を聴いてもらうことが多かった。
これからは、人の話の聞上手にならなくてならない。

でないと、話しかけた相手が逃げ出しかねない。あるいは、「話しかけらちゃたまらん」と避けられるかもしれない。
.29 2016 未分類 comment0 trackback0

「たかが風邪」と糖尿病」

今年の風邪は長引くと言われる。私の周りにも3週間も苦しんだ人がいた。

風邪を引いたことがきっかけで糖尿病を発症する人が結構いる。特に、糖尿病予備軍といわれる人は注意が必要。

専門家によると、風邪をひくとそれだけで血糖値は上昇する。
風邪による体内の炎症によって、筋肉や臓器が持っている血中のブドウ糖を取り込んで処理する能力がダウンする。

つまり、インスリンの効きが悪くなり血糖値が上がる。
高血糖の状態に気づかなかったり、糖尿病予備軍の人は風邪がきっかけで一気に糖尿病を発症する可能性が高くなる。

発熱と血糖値。
発熱すると発汗して体温を下げようとする。
37°で約1リットル、38°では約1.5リットルの水分が失われる。
従って、水分補給がしっかりなされないと脱水状態になる。

脱水状態になると血中水分が少なくなり、血液が濃くなる。その分相対的に血糖値が上がる。
脱水状態で尿の量も減るので、通常では余分のブドウ糖は尿の中に排出されるのに、その排出が十分に行われず、血糖値が上がってしまう。

また、咳止めや風邪薬には糖の代謝に異常をもたらし、血糖値を上げる成分(メチルエフェドリンなど)があり、血糖値を上昇させる。

この冬、高血糖気味の人や、糖尿病予備軍といわれている人は、「たかが風邪」と侮らずしっかり対策をとっていただきたい。

風邪は万病のもとであり、
万病は風邪のもとでもある。
.29 2016 未分類 comment0 trackback0

「エージラウンダーだよ」と言う アッケラカン

私も、かれこれ55年に及ぶファーだが、初めて耳にしたのが「エージラウンダー」という奇怪な言葉。

ある日、ジムの湯船でとりとめもなく来し方行く末に想いを巡らせていると、顔なじみの老人が隣に入って来た。

「今年は何回くらいラウンドしたか」と訊いてきたので、ざっと数えて答えた。

その81歳の元気老人は、「僕は今年は85回ほどだった。それでも、エージラウンダーだから良しとしているよ」ときた。

老人の説明によると、エージラウンダーとは、年齢と同じかそれ以上のラウンドをした人のことを言うらしい。

エージシューターに非ず。
エージラウンダーだというのだ。

なんだか落ち着きをなくした私は湯船を出て、ジムのゴルフ友達にその話をしてみたが誰もエージラウンダーなる言葉を知らない。

帰宅後、昔からのゴルフ仲間の何人かに電話をして訊いてみたが誰も大笑いするだけで知っている者はいない。

手先の器用さだけにとどまらず、英語を各方面に転用して駄洒落にも等しい使い方をして、英米人が目を白黒させている事は多い。

とはいえ、エージラウンダーには驚いた。

エージシュートに代わるエージラウンダーというゴルファーの名誉の称号が新しく生まれたのか。

81歳で、年間85回のラウンド自体は、その気力、体力、財力に驚嘆するけれども、どう考えてもゴルフの実力とは結びつかない。

しかし、老人同士の仲間内で、来年もエージラウンダーでいようと、夫々の健康を祈って励ましあうことに異論はない。

いろんなところに、いろんな人生の目標があり、称え合いがあるものだと感心してしまった。
.28 2016 未分類 comment0 trackback0

エージシュートの達人

エージシュート(Age-Shooting)は、ゴルフの1ラウンド(18ホール)ストロークプレイを、自身の年齢以下の打数でホールアウトすること。

最近、高齢者ゴルファーの知り合いが増えるにつれ、エージシュートを目的というか、もっと積極的に狙っている人が思いの外多いのに驚いている。

「今年はあと3打で逃した。来年こそはきっと!」と、鼻息荒く宣言した87歳のご老人がいる。

年に50回前後のラウンドのようだから可能性は高い。
なぜなら、一度ご一緒した事があるが、ドライバーこそ飛距離はささやかなものだが、フェアウェイメタルのショットでは肩が良く回りタイミングも良い。

100ヤード以内からの寄せは、冷静沈着でパターも上手。

時折、斜面や強いラフでてこずったりバンカーからの脱出に苦労しておられるようだった。

まだまだ負けん気が強く、我々年少者(?)に対抗する精神の立ち上がりを抑えられないようで、ミスをする事が多い。

一方、最近の「書斎のゴルフ」という雑誌には、熊本在住の植杉乾蔵氏92歳のエージシュートの事が記載されている。

年間150ラウンドを32年間。
つまり、60歳でリタイアして以来、年間150ラウンドという驚異的回数を継続している、超超老人の存在を報じている。

71歳のときに県体協のゴルフ大会で初めてのエージシュートを達成。
この時が、氏のエージシュート挑戦のスタートライン。

その後、7年かけて78歳で通算100回目のエージシュートを達成し、その3年後の81歳で200回目に達した。

84歳以降は、毎年100回。
つまり、年間150ラウンドのうち3分の2がエージシュート、86歳を過ぎてからは、年間130〜150回のペースで達成しているとの事。
最近では、ラウンドの8から9割がエージシュートを出している由。

ラウンドできる気候の日を選びながらだから、ラウンドするときは3連ちゃん4連チャンは当たり前という怪物ぶり。

このような人もこの世には存在しているのだから、生涯に一度でもいいから経験したいという凡人は言葉を失う。

狭い日本だが、世間は広く様々な人が居る。
これからは、エージシュートを出したいという事は心の奥深くでそっと呟くだけにしよう。
.28 2016 未分類 comment0 trackback0

最近の若い者は いい歳をして 挨拶もできない

タイトルのように言われないように、気をつけて生活をしている自分のことが可笑しくなった。

ジムに行っても、誘われたコンペに行っても、80歳前後の老人が多く、先月のコンペの最高齢者は86歳だった。

私は、このような場では、兎に角、挨拶をよくすることを心がけている。
この人は年上か年下かは定かに判別し難いので、どうあれ、ことさら丁重ではないが気持ちの良い挨拶をすることにしている。

ジムなどでは、ジロッと人の顔を見るにもかからず、能面をさらに無表情にしたような無愛想な顔をする人がいる。

こんな人にも懲りずに何度か挨拶をするうちに、顔の表面の層が崩落し、その下からなんとも言えない好人物の表情が出てくることが度々である。

そこからが難しい。
私は、挨拶をしているのであって交際したいと思っているわけではない。

人間関係は整理の段階にあるのであって、これから友人をつくり人間関係のストレスを増やす気はさらさら無い。

誰にも気さくに気持ちよく挨拶をする足もとに小さなウオーターハザードを設け、そのハザードを越える気は無い。

心がけているのは、「最近の若い者は挨拶もまともにできない!」と、年寄りの私より更に年寄り達から批判されたくないということだけなのだから。

この分で行くと、幾つになっても年上の人たちの層は厚く頭上を覆い、死ぬまで、挨拶をし続けなければならないだろう。

そういえば、私が最高齢の場がひとつある。
所属する会のコンペでは、3ヶ月の差で私が最高齢で、参加のたびに挨拶をさせられる。

この挨拶が苦痛で時折参加を見送ることがある。最高齢者らしい挨拶も度重なると完全にマンネリに陥る。

それに、このコンペにも「挨拶もまともにできない無礼な若い者がいる」からだ。
苦痛と不愉快がコンペ参加の足止めをすることは確かだ。
.18 2016 未分類 comment0 trackback0

友 去りぬ

彼が30歳私が27歳の頃、暑い盛りの軽井沢で最初に出会い、その翌日のコンペで偶然同じ組になってプレーして以来の長い付き合いだった。

彼はその時すでにオフィシャルバンデ7の堂々たるシングルの腕前。
ゴルフは中学生の頃から父君の手ほどきで始め、高校生の頃にはすでにバンデは7になっていたそうだ。

職業柄、7くらいのハンデが適当でありなにかと好都合だと言い、5以下のプレーヤーになろうとはしなかった。

しかし、少なくとも私の知る限り75以上を叩くことはなく、実力はハンデ3〜5が本当のところだったと思う。
もちろん、バックティーからのプレーなので文句のつけようはない。

趣味はゴルフのほか、西洋史、特にアイルランド、スコットランド、イングランドなどイギリス史に造詣が深く、ケルトについて語る彼の輝く瞳は忘れられない。

また、ゴルフ好きの彼が素通りするはずのないゴルフ史にも精通しており、スコットランドのゴルフ史と日本のゴルフ史を話題に時間を忘れたことは彼との貴重な思い出となっている。

50歳代までは、彼が所属する霞が関カンツリー倶楽部で年に4〜5回プレーをしていたが、60歳代には、たまに電話で話をするくらいでプレーをすることはなくなっていた。

今年の夏、あるパーティであった際、病気がちであることを告げられたが、来年の春には共通の友人と3人で久しぶりにプレーをしようと、あまり実現性のなさそうな約束をした。

予感通り、つい先日、帰らぬ人となってしまった。
「がん」だった。

ゴルフの歴史を語り合い、ゴルフの精神、プレーの心理、マナーとエチケットなどゴルフに関するあらゆることを語り合った人は彼をおいていない。

大切な友人に逝かれてしまった。
再び、ゴルフに血道をあげている私は、彼の分もプレーをしてなどと愚かなことを考えるより、彼とのゴルフの時間を思い出しながら、ゴルフができる悦びを噛み締めるべきだろう。
.17 2016 未分類 comment0 trackback0

ゴルフの言い訳 アレコレ

基本と古典があると、夏坂健氏は言う。
このセオリーを知らないと、仲間から軽蔑されるから要注意と。

ゴルフの言い訳御三家というものがある。
1 多忙ゆえの練習不足
2 体の不調。とくに風邪気味、神経痛、二日酔い
3 新しいクラブの筆下ろし
・ これらが古典と云われる言い訳。

400年も前から使い古されているが、いまだに絶大な説得力を失わないパワーを秘めている。
これらをベースにして
子供の発熱、女房の陣痛、寝不足、四十肩、五十肩などを散りばめる。

手形の決済が迫っている、借金取りに追いかけ回されている。
女房が離婚届を突きつけている。
などは、ゴルフをしている場合ではなくなるのでやめたほうが良い。

調子が良ければ、「広々とした自然の中を歩いたら、悩みもどこかに吹き飛んだよ」、平然とうそぶいていれば良い。

言い訳の名人は、用意周到、絶妙のタイミングで言い訳の粉をまいてしまう。
「おはよう。今日は3ヶ月ぶりのゴルフで、しかもクラブを取り替えたものだから、ご迷惑をおかけします」
「寝不足に練習不足、どうなるか自分でも見当がつきません」
などと、立て板に水の早業で名人が演じている傍から、
シオシオと、「私も同じく」では、説得力に欠ける。

先に言い訳した人より数倍の大声で喋り、先の人の印象を薄めてしまうくらいの迫力が必要。ともあれ、乗り遅れないことが肝心。

ゴルフの言い訳は、ざっと200の言葉からなっている。
聖人君子、人格高潔なご仁といえども、ことゴルフになると夢中で言い訳をするところが面白い。

夏坂健氏によると、
文豪キプリングは、ミスヒットのたびに左肩を押さえて、
「ムム、古傷が痛んだわい」と、つぶやいた。
シャーロック・ホームズの作者、コナン・ドイルは、「また、グリップが滑ったぞ。どうも、オイルを塗りすぎたようだ」と、自戒の言い訳を繰り返した。
勿論、調子のいい日には古傷も痛まず、オイルの話も出ない。

さて、私は、どんな言い訳をしているのか。
ミスショットのときの瞬間芸で適当なことを口走っているので定型句は無い。
ミスショットの頻度が高いので、繰り出す言葉が底をつき、天を仰いだり、両腕を広げたり、舌打ちしたり、精一杯ジェスチャーで補っているようです。

健康的にゴルフをやるには、言い訳はストレスリリースに最高の妙薬。

同伴プレーヤーの言い訳には、せいぜい寛大になり互いの健康を大事にすることは悪いことではない。
.09 2016 未分類 comment0 trackback0

微笑ましきかな民間交流

気に入りのパンを買うために隣駅のパンショップに出かけた。
そのひと駅の間の、微笑ましき民間国際交流の光景が心地良かった。

正面に座す2人の女性。
1人はインド人の若い女性。もう1人は、典型的な日本人の中年女性。

インド人の女性の左手は隣の日本人女性の右太腿の上にそっと置かれていて、その手を日本人女性の右手が優しく覆っている。
時折、優しくさすることもしていた。

インド人の女性は、左手の日本人女性の顔をじっと見つめ、その顔をを優しい笑顔で見返す。
その笑顔は、恵比寿様の様な慈愛に満ちたもので、誰もが心を許してしまいそうな感じ。

さて、これは、異国で心細い外国人を優しく庇護し世話をする心やさしき日本人なのか。
近頃、巷にはやる気持ちの悪い「おもてなし」なる余計なお世話にも似たお節介なのか。

それとも、相手の弱みに付け込んだ同性愛者の誘惑か、あるいはその維持続行の為の所作なのか。

秘めやかな魂胆を奥深く隠し、「おもてなし」でデコレーションした心理的囲い込みの二段階目に入った行為なのか。

宗教的レベルまで追い込み逃れられなくする高度に脳を操作する高等テクニックなのか。

恐ろしいのは、素晴らしき恵比寿顔の裏に潜む悪の企みである。その様な悪人を何人もみてきた経験則が芳しくない予感を呼び覚ます。

一駅間の観察はあっという間に終わる。
写真的に見たとおりの、不安なインド人の女性を庇護する、心やさしき日本人女性という構図であってほしいと心から願いながら電車を離れパンショップに向かいました。
.04 2016 未分類 comment0 trackback0

言い訳の洗礼 「モモヒキが〜〜!」

20代の半ばから後半にかけて、医局の先輩達がゴルフ仲間だったことがある。その中でも、とりわけ頻繁にプレーしていた人がいた。

その人は、軽井沢が好きな人で、顔の広さを効かせて旧軽でプレーすることあったが、なぜか忘れてしまったが、新設間もない軽井沢センブンツーかプリンスホテルのゴルフ場が多かった。

若い頃のことですから、晩秋から冬にかけても、雪さえ降らなければ、当時の交通事情から長い道のりを、日帰りのドライブで敢行していました。

冬になると、当時は綿などの厚めのモモヒキを着用する時代でした。
当時流行した細めのズボンに厚手のモモヒキではモコモコして、股間の解剖学的突起物の収まりも悪く、何度もずり上げたりずらしたり揺すったりと、それはそれは忙しいものでした。

さて、件の先輩は、ティーショットが終わるやいなや「モモヒキが〜!」と絶叫し、第二打が終わると「モモヒキが〜!」とブツブツ言い、バンカーに入ると「モモヒキ」、スリーパットをすると「モモヒキが〜!」の連発でした。

ひとホールで3〜4回の「モモヒキ」を18ホールズ繰り返して飽きないのですから、ワンラウンドで100回近くの「モモヒキ言い訳」を聞かされる私は、最後には怒りすら覚えたものです。

あろうことか、さほど気にならなかった自分のモモヒキが次第に障害物と感じられるようになり、私も何回か口にしてしまったほどでした。

ひと冬、この人の「モモヒキが〜!」攻撃にさらされた結果、この人とのゴルフは止めようと決心し、以後なんだかんだと、それこそ「言い訳」をしてお誘いを断り続けて今日に至っています。

「脱いでしまえ」とは、先輩に向かって言うわけにもいかず、「モモヒキが〜〜」という、悍ましき言い訳が、その先輩とのゴルフをやめる「言い訳」になったことを懐かしく想い出します。
.04 2016 未分類 comment0 trackback0

言い訳という悩ましい病

長いゴルフ暦の中で、年に数回のお誘いに応じるだけで積極的なプレーを止めていた時期が10年以上あった。

その間は、釣りとカメラに没頭していた。
だが、これの趣味はとても素晴らしいことは確かだが、視力や眼疾の点で不安が付きまとい、仕事に支障があってはならないと、次第に消極的になってしまった。

遊びあっての人生の私には、何か次なるものを探さなくてはならないと模索していた。ここに、長年慣れ親しんできたゴルフがすんなり入り込むのは自然ことだった。

ゴルフから遠ざかった理由の1つに、言い訳を聞くのも言うのも嫌になってしまったことがあります。

飽きもせず、パターン化した言い訳を繰り返す人に愛想が尽きてしまい、時には自分が気をつけているにも拘らずつい言い訳じみたことを口にしてハッとすることもあり、自己嫌悪に陥ったことも多々あります。

ゴルフの頻度があがった最近、再びこの「言い訳」に悩ましい日々と相成ったわけですが、この「言い訳地獄」に対処する心構えもゴルフの醍醐味の1つと気持ちを切り替えることにしました。

気をつけているとはいえ、古典的言い訳が自分の口から出ないかといえば必ずしも皆無ではない。

自分の口から吐き出す言い訳を極力抑えて、耳に入る「言い訳」は丸呑みして、消化しないで排出する術を身につけなくては、ゴルフは不愉快の極みの不健康なものになってしまう。
.04 2016 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

須藤文弘

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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