ミランダカー様(米国のファッションモデル)の威力

ミランダカーなのか「ソレミタコトカー」なのかは知らないが、健康志向の一部の人たちの間でミランダカーは今や神様扱い。

ミランダカー様ご愛用となるとその商品に怒涛のごとく殺到し、品薄にはなるし価格は上がるといった市場捜査の生き神様のごとし。

その中で、最近話題になったのが「グルテンフリー食」がある。
恥ずかしながら私も試してみた。
が、10日で撤退した。

グルテンフリー食」を必要としないのに実践する人は年々増加している。流行の食事療法の実態を調査した統計研究結果が、米ラトガース大学医学大学院の研究者らによって発表された。

「グルテンフリー食」とは、小麦や大麦などに含まれるたんぱく質「グルテン」への過剰反応によって体調不良を起こす「セリアック病」患者のために開発された、グルテンを除去した食品のことを言う。

セリアック病の患者は白人に多く、欧米ではスーパーマーケットやレストランでもグルテンフリー食が提供されているが、日本では患者はほとんどいないか、存在しないとする報告がある。

主食はもちろん、大半の食品にはグルテンが含まれているため、セリアック病患者の多くが偏った食事を強いられ、栄養失調や低体重に陥ることもある。

患者にグルテンフリーは欠かせないが、海外の著名人などが健康食として実施しているとされ、欧米でも患者以外の人にも流行している。
つまり、欧米でも、ミランダカー様信仰が定着しているらしい。

ただし、これまでのところ、健康な人がグルテンフリー食を実施することで何らかの効果が得られるかを示すエビデンス(科学的証拠)は存在しない。

私は、とりあえず普段食している「全粒粉パン」を、米粉パンに変えてみた。

パサパサした食感のパンで極めて不味い。グルテンはフリーなのかもしれないが、食を愉しむフリーが剥奪されたようで早々に撤退した。

それに、全粒粉パンですらパンの味わいをかなり犠牲にして我慢していたので、この際、全粒粉パンからも完全撤退をしてしまった。

それに、セリアック病でもなんでもなく便秘もない。いくらミランダカー様がご愛用でもこれは酷すぎる。人生がパサパサになっては堪らないとばかりに逃げ出した。

最近は、ショートニングやマーガリンなどのトランス脂肪酸を使わないでバターを使っているパンを近くのベーカリーで買っている。
お陰様で、久しぶりにパンを心から愉しんでいる。

ついでに、ミランダカー様に惑わされていないかどうか自分の食の見直しを行った。

今や、ミランダカー様とか、日本では道端アンジェリカ様などが「健康食の神様」と崇められて、滑稽と言うか珍妙な現象が定着しているようだ。
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.29 2016 未分類 comment0 trackback0

老人の執念

昨日は、久しぶりに雨があがりついでに気温も上がった。二ヶ月前から予定していた近隣の高齢者達とのコンペに参加した。

ジム仲間のゴルフ会ですから顔見知ったる面々。とは言え、顔と名前が一致せず、「アーアー、ハーハー」と、まことに心もとないが如何にも老人達のゴルフ会といったムードがまた曖昧でなかなか味わいがあった。

最高齢は87歳。実に矍鑠たるもので内心舌をまく思いがした。
言い訳も元気いっぱい。「蒸し暑いので集中できなかった」とか、「下着が張り付いてスイングの邪魔をしやがった」とか、鼻を広げて憤慨する様はまだまだ先が長いと感心した。

同じ組の1人の老人は時折息も絶え絶えの様子だっだ、後で聞くと、血液ガンを患っていて目下抗がん剤治療を受けている最中とのこと。

グロスが130を超すようならゴルフを止めると力なく宣言していた。
生きる執念をゴルフにかける静かな語り口に「幽」の風を一瞬だが感じた。

夫80歳妻78歳のご夫妻は、ご多聞にもれず、奥様にアウトドライブされっぱなしで、スコアは20ほどの開きがあり奥様の圧勝。
「主人に足を引っ張られた」とは、パーティにおける奥様の弁。
ご主人は気にもせず、よくある話とばかりに周りも気にしない。

全てが曖昧に始まり、全てが曖昧に終わる。
何事もなかったかのごとく淡々と散じる。

淡い霧の中で、何かがゴソゴソと行われたが、
終わってみると深い霧の中に全てがかき消されたような夢の中の出来事のようだった。

地元に戻ってから、近くの中華料理屋で反省会なるものが企画されていたが、いかにもこの年代の人達らしい。

反省反省で人生を送り、本当のところは何も反省しないことの繰り返しこそ人生の極意との確信があるからこその反省。

酒席が苦手な私は失礼して家に戻り、改めてスコアカードを睨み、反省に次ぐ反省に一時を忘れた。
しかし、しばらくすると、反省していたことを忘れてしまった。

この分なら私もまだ当分元気で過ごせそう。
.29 2016 未分類 comment0 trackback0

後期にして高貴。そして、好機にして降旗な高齢者。

さらに、興起にして好奇な高齢者。
世の中には、実に様々な高齢者が居ることに今更ながら感じ入っている。

好機逸すべからず、今こそ感奮興起すべしとばかりに猛進する76歳の奇人変人が居る。

その対象が若い(と言っても35歳だが)女性であるところが後期高齢者らしいボケ振りだが、心底舞い上がった本人には、周りの心配や忠告は馬耳東風のてい。

今、上映されている映画「株式会社後妻業」の辣腕社員とはまるで違うタイプの女性のようだから話はすんなりいくとは思われない。

すんなり行けば行ったで、毒気にあてられ、気力体力はもとより少なからず持っている財産も全てを吸い上げられ、ほぼ乾燥状態にされ粉末となって吹き飛ばされてしまうだろう。

46歳の時、奥方と死別して以来全ての精気を仕事につぎ込み少なからず財を蓄え、豊かな老後を送っているのだが、最後に一花咲かせたいとわずかに残っている精気を向けた相手が件の女性となった。

3年でも5年でも構わない。10年共に暮らせれば望外の幸せと猪突猛進する勢いの激しさを止めるブレーキは今のところ見当たらない。

鼻の穴を最大限に広げた奔馬が、ゲートで猛り狂っているようで、友人一同なだめる術を持たない。

この男が密かに隠し持っていたスイッチがあり、たまたまそれが押されてしまったのだろうが、生来怜悧で計算高い男だから、突然襲った雷雨後の青空のごとく急速に空気は乾燥し、身体の水捌けが良くなりスッキリとして本来に立ち戻るはずだと私は見ている。

マルクス、ベートーベンと古来偉人と言われる人たちも、この道ばかりはその伝記に記すことができない秘めごとは枚挙にいとまがない。

まあ、どちらに転んでも本人が幸せだと感じ、残りの人生を完全に燃焼させてくれるのなら、我々友人としては心から祝福するのは勿論だが、逆の場合を心配する人がいるのも当然。

半ば案じ、半ば嫉妬し、半ば囃し立て、半ばブレーキをかける我々の立場の微妙さにも配慮をしてほしいのが本当のところだ。
.20 2016 未分類 comment0 trackback0

ゆったりしたキャチボールやテニスのゆったりしたラリーのような会話ができる相手が少なくなった。

最近、何人かの集まりである人に向かってあるキーワードを発した途端に横合いから話を取られ話があらぬ方向に暴走し始めた。

ひとあたり落ち着いたところで最初の話に戻そうとしたがすでに冷めた味噌汁のごとしとなった。なに?その話、という具合に間の悪いことになってしまった。

横合いから話を奪い、まるで違う話にしてしまった本人は何食わぬ顔をしている。

このような無礼千万な所業に内心腹を立てたことは多々ありますが、最近老人が増えたせいか、度々のことになってきたような気がしています。

特に、ご婦人に多くみられる現象だと言えば、それは偏見だと謗られそうですが、私の体験では女性によくある傾向であることは否定できない。

5、6人でテーブルを挟んで話をしていると、誰も黙り込んで暗い表情で人の顔色を伺うか、あらぬ表情をしている。

こういう場合は、気遣いの人が必ず1人はいて、その場を盛り上げようと口を切る。
するとすかさず「それよそれ」と言いながら話を途中で奪ってしまう。

その後は、口を切った人が思いもしない方向に一気に流れてしまい、その後は再びしばしの沈黙の時となる。

釣ってきた魚を刺身にでもしようと差し出したら、急に何人かの人たちに奪われ、焼かれたりフライにされてしまったようなもので、提供した本人の思惑は何処かに吹き飛んでしまうようなものだ。

2人なら、話はゆったり大河のように流れ、話の内容はお互いに頭も腹も満たされるような満足感を得ることが多いが、3人になれば流れは幾つかの滞りがあり、それ以上の人数となると流れは波立ち、時には決壊して周辺に水害をもたらしてしまう。

よく分かり合っている間柄の人たちならこのようなことにはならないが、最近知り合ったばかりの人たちに囲まれての談話には気をつけるようにしています。

話が途絶えればそのままにして、自分が新たな話題を提供するようなことはしないで、沈黙が続くならそのまま放置することにしています。
そこで、散会となればそれはそれでよし。

一旦話題に火がつき燃え上がってきたら、その火勢のまま行くところまで付き合っています。

忸怩たる結末に到達して慚愧に耐えない談話会になったと後悔することも織り込み済みにしています。

これもある意味で、after you にも似た精神なのかもしれません。
.19 2016 未分類 comment0 trackback0

紳士用トイレの前で逡巡するほど謙虚なはずはない。

意識しまくっている善行であり、さらに言えば、「お先にどうぞ」くらいで善行を積んでるなんて滑稽きわまりないよ!。

先のプログを読んだ辛口の友人からいつものように辛辣な批評を頂いてしまった。

紳士用トイレの前で、「俺は紳士なのだろうか?この紳士用とサインされたトイレを使う資格があるのだろうか?」と、襲い来る生理的脅迫を前に逡巡する程の謙虚さは持ち合わせていない。

善行も、友人が言う通り、呼吸をするがごとく無意識のうちにごく自然に行われなければならない。

それを、いちいち自分で感動してれば世話はない。そのうち、感動疲れをして止めてしまうなんてことになりかねない。

そもそも、after you 程度のことが善行なのか、という指摘も至極ごもっとも。

先程も、路上で傘をさしながらスマホに夢中の高校生らしき人の行く手を阻んだ自分は 、after you ができていない。
これが理由で路上で乱闘という修羅場を演じるかもしれない。

英国紳士の真似事はどこに行った?、細やかな善行の精神はどこに行った?、ということになりかねない。

ことに臨んで、after you の精神を発揮する前に、不埒で強引で厚かましい所作を及んだ「おば様やお爺様」に、自然な気持ちの良い after you が言えるのか?。

ところが、世の中には、自然に「お先にどうぞ」と言いたくなるような人達も沢山居る。

傍若無人な輩には強面の爺さんとなり、ごく自然に「お先にどうぞ」と言いたくなるような大多数の人たちには迷わず譲る。

これが自然というものだろう。

争って先を急ぐ必要もない毎日なのだから、概ね「譲る」ことが多い。

これでその都度心に涼風を感ずることもなくなり、細やかな善行が呼吸のごとくなる日も近いだろう。

しかし、人によっては、何度も礼を言われる。
その時は、心のうちに爽やかな風も「暴風」のごとく吹きまくる。

そうすると、脳内に快感ホルモンが満ち溢れ、心も身体も軽くなり、思考は前向きになり、我慢していた物を買いたくなってしまい金がかかる。

自分で自分に褒美をくれるようなことでは、ホンモノの善行ではないことは確かでしょうね。
.19 2016 未分類 comment0 trackback0

一日一善と after you

「1日1膳」を書いていたら、「一日一善」のことに気分が横ズレしてしまいました。

あるとき、同年輩の友人から、「毎日、一日一善を心がけて生きてるんだよ」と言われたことがあります。

何を今更とも思ったし、こんなことをヌケヌケと口にする生真面目さというか、少年にも等しい純粋さに思わず友人の顔をまじまじと見たことがあります。

次に思ったのは、こういうことを意識して毎日を生きるのも悪くないことだということです。

何かちょっとした善行をした瞬間、心を吹き抜ける爽やかな風が誠に心地よい。行った自分が快感を覚えるのだから悪くないはずはない。

思い返してみると、ことさら意識はしなくても、折に触れて無意識のうちに他者に善行を施したり、悪意あると思われる行為を繰り返してきた。

この悪意ありと思われる行為を意識してやめて、意識して行う善行を無意識のうちに行えるようになればそれは素晴らしいことだと思うようになった。

傍若無人で放埓な行為などをする者に対して阻止するすることを何度もしてきたが、そのこと自体を悪意ある行為だと第三者からから判定されたことも再三でした。

善行を心がけると、世の中の迷惑行為を阻止する行為を、悪意ありと誤解されたくないがゆえに、目を逸らし関わらなくなることもあるでしょう。「さわらぬ神に祟りなし」の生き方にも忸怩たるものがありますが、まずは、意識して善行を行い、これが無意識の行為なるようにしてみたい。

ただし、この阻止行為は反射的に行われるので完全に目を瞑ることはできないかもしれません。

このようなわけで、イギリスの幼児教育で常識的に行われている、「after you 」を心がけるようにしました。

「お先にどうぞ」
これが、イギリス紳士を養成する基本的教育の要諦だと言われています。

なにも、イギリス紳士のようになりたい通っているわけではありません。ホテルやカフェで「紳士」とサインされているトイレを使うときにも気恥ずかしさを感じるくらいですから、イギリス紳士のごとくなれる私ではありません。

とりあえず、「お先にどうぞ」を実践してみることにしました。
無論、この行為は多くの人がごく自然に行っていますし、私も無意識に行ってきましたが、そうではないことも頻繁に行っていました。

機嫌が良く、気持ちにゆとりがあると自然できることなのですが、急いでいたりするとつい他者わら押しのけてきたことも事実です。

この「after you お先にどうぞ」を心がけることにしました。
多額な寄付をしかるべきところにするほどの大型の快感は無論ありませんが、一日一善程度の善行は簡単にできます。
「1膳」どころか、「五膳も六膳」も簡単にできます。

おかげさまで、1日に何度か我が心のうちに、爽やかな風が吹き抜ける快感を覚える頻度が増しました。
.18 2016 未分類 comment0 trackback0

1日1膳

5年前、減量を思い立ったとき、まず取り組んだことは、炭水化物を減らすことだった。

大好物だった麺類、白米ご飯、トーストパンなどの炭水化物系の食べ物を排除した。
無論、野菜などからの摂取は避けられないし、完全排除は考えなかったので、1日1膳相当の炭水化物は許容した。

糖尿病を患っているわけでもないので、完全排除は人生がつまらなくなるので、目標体重に達するまではという条件で1日1膳相当ということにした。

酒は体質的に受け付けないので、付き合い酒で生活を乱すことはほとんどないので、ほぼ計画通りに実行できた。

今にして思えば、卵かけ御飯が好き、ラーメンが好き、うどんが好き、パスタが好き、バタートーストが好きなどの食性は、脳がそれらの糖質に対する依存症になっていたのだろう。

この5年間、この糖質依存症からの離脱にある程度は苦しんだが、麺類もパン類も御飯系も食べなくても済む程度のことだったので、私の場合は依存症になっていたのかどうかはいささか怪しい。

ただ空腹になると手軽に満たせる安易な食べ物に過ぎなかったのかもしれない。

困ったのは、甘い物に目がない方なので、美味しそうな和菓子、魅惑的な洋菓子の誘惑にはほとほと参ったことは確かです。こちらの方の依存症だっのかもしれません。

この辺りは5年間に、多くて月に一回、年に何回かのことですが、自分の目を盗んで菓子のドカ食いをしました。

特に和菓子には目がなくて、つい先日も、和菓子を5個買ってきて、2〜3日以内に食べるつもりでしたが、美味しいお茶を淹れていっきに5個食べてしまいました。

これまでもそうでした、3個買えば3個、6個買えば6個を全部いっきに食べてきました。

お中元で、九州の甥から「ヒヨコ饅頭」の50個入りを送ってもらったときは、なんだかんだと言い訳をしながら2日で50個を平らげてしまいましたし、羊羹二本の時も、カステラ二本の時も2日で完食してしまいました。

年に数回のことだとはいえ、自分の愚かさに愛想が尽きるほどです。
しかし、実に甘美なひと時であったことは確か。

親の目を盗むとか、連れ合いの目を盗むときには相対的な達成感がありますが、自分の目を盗んで掟破りをすることには格別の感慨があります。

物凄い量の言い訳が大瀑布のごとく降りかかり、大津波のごとく襲いかかってきます。

その後に、大後悔の時代に入り、自己嫌悪という辛い闇に囚われ、人間の愚かさと言えば気も楽になりますが、我が愚かさと思うと情けなさは半端ではない。

このようなことで、30キロ近くの減量を果たし今日に至っていますが、最近では、たまのお菓子のドカ食いも計画のうちに定着してしまいました。

掟破りも褒美のうちと開き直ってしまいました。

それにしても、美味しいそして甘美な和菓子洋菓子というのは本当にたくさんありますね〜!

次に、我が目を盗んで何を食べようかと密かに物色しているところです。

ただし、お菓子ドカ食いの後は2キロほど太ります。調整に2日ほどかかります。
この二日間ほどは、炭水化物は完全排除です。
.18 2016 未分類 comment0 trackback0

膝が伸びていない!

自分の歩き方がどこかおかしいと意識に上ったのは、例のインストラクターの生意気な口癖のおかげでした。

私は、雨天用のタウンシューズを持っています。だが、これを使用した日は何故か脚が怠くなるようになっていたのです。

ある日、この靴を履いて歩き方を点検してみました。やはり!と、得心する事実に気づきました。

後ろになった脚の膝が伸びていないのです。

膝が曲がったまま前方に繰り出していたのです。

踵から踏み出し、足指で地を蹴って後ろに運ぶことはできていましたが、後ろに運んだ脚の膝が伸びないまま前方に繰り出していたことに気づきました。

これでは、インストラクターの言う「猿のような歩き方」になっていたのです。
内心がっくりときて、しばらく落ち込んでしまいました。

あれ程歩き方にはいつも細心の注意を払っていたにもかかわらず、なんともはや情けない歩きたを晒していたことになります。

早速、修正して歩いてみると、この雨用短靴でも脚が怠くなることは解消されましたし、ありがたいことに歩幅も少し広くなったような気がします。

歳をとるとはこういうことなのでしょうか?
いつも日常的に気を付けていることの中から、ポロポロと何かがこぼれ落ちていっているのです。

前方では、踵から着地し、足指で地を蹴って膝を伸ばして後ろに伸ばし、再び前方に繰り出す。

この歩き方にすると、若人から常に追い越されることもなくなり、仮に追い越されても、以前ほどの距離の開きは出なくなりました。

でも、歩き方を改善してからしばらくの間は心拍のテンポが追いつかず苦労しました。

つまり、心拍が楽なような歩き方になっていたのかもしれません。

多分、身体の各機能が、何かを楽にするために何かが次第に変化して、全体の機能を落としていっているのかもしれません。

関口知宏さんのことを心配している場合ではない。自分もヨチヨチ歩きになっていたのです。

辛口のインストラクターに感謝しなくてはなりません。

相変わらず、朝のウオーキングを継続し、1日で15,000歩は下らない毎日ですが、雑踏の中でもない限り、歩き方には今まで以上に細心の注意を怠らないようにしようと改めて誓った次第です。
.14 2016 未分類 comment0 trackback0

日本人の歩き方は‥!

週に一回、ジムで「ボディーコンディショニング」というレッスンを受けています。

このレッスンの中で、インストラクターが口癖のように「日本人の歩き方は‥」と言うのには閉口もしますし、時には腹立たしくもあります。

要するに、腰を落とし、膝を屈曲したまま、まるで猿のような歩き方をしていると繰り返し口にします。

若い女性のインストラクターなのですが、わかりやすい表現を心がけようとして、このような表現を繰り返しているのだと分かってはいても、時折不愉快になることも事実です。

「スタジオに入ってくるところから観察している。これは貴方がたのことを言っているのですよ」とまでは言わないまでも、かなり直裁な言い方に結構傷ついている人もいるようです。

私は、怒りがこみ上げてくることがあります。
なぜなら、子供の頃から、姿勢と歩き方は親からうるさく仕込まれて育ったからです。

いつも、姿勢と歩き方は意識しているつもりなので、自尊心が傷つけられているとまでは言いませんが、「またか!」と内心穏やかならざる心境に陥ることは否定できません。

ところが、最近、気になることがあるのです。

自分の歩き方が変わってきたのではないか。
歩幅が狭くなったのではないか。
靴によっては、足がだるくなることがある。

このブログでも、再三書いてきましたが、自分より小柄な人にドンドン追い越されて距離を開けられることが増えてきているのです。

同じテンポで歩いているのにも拘らずです。
最近の人たちは脚が長くなったから。
背は自分より低くても脚は長いのだろう。
昭和初期生まれの爺さんじゃ所詮敵わない。
腕も短く脚も短い。
こればっかりはいかに努力しても得られるものではない。

と、諦めていました。
が、インストラクターの度重なる「日本人の歩き方は‥」の口撃に、はたと気づいたことがあります。
.14 2016 未分類 comment0 trackback0

ヨーロッパ ヨチヨチ歩き

関口知宏というタレントがいます。
NHK BS 朝の番組でヨーロッパ鉄道旅という番組に出ています。

とても感じのいい若い人(40歳代)で、英語も堪能のようだし背も高い。表情も感じがよく、世界を股にかける番組には相応しいタレントだと思いながら観ていた。

大人気ドラマ「トト姉ちゃん」のあとの番組なので、雑用をしながら観るともなく見ていたら、びっくりして思わず注視してしまったことがあります。

ヨーロッパの都市の人たちとの会話が終わって立ち上がり歩き始めたときです。

なんと、ヨチヨチ歩きをしていたのです。立ち上がったばかりのことですからたまたまかと思いながらさらに注視してみると、彼の歩きは概ねヨチヨチ歩きなのです。

長身でスマートな日本人男子が、まさかこんな歩き方をするのか!と、余計な気を遣ってしまう羽目になったのです。

彼に、日本を代表してヨーロッパに行ってもらったわけでもないのでなにも騒ぐことはないのですが、父親の関口宏さんや母親の西田佐知子さんは息子の歩き方についてなにも気が付いていないのかと、さらに余計なことまで思い巡らせてしまう始末で、我ながら自分の困った性分の火を消せずに悶々とした次第です。

恵まれた環境に育ち、恵まれた風貌と体格を得て、しかるべく教育も受け、テレビから受ける印象では性格も格別に良さそう。

なのに、あのような歩き方では、「日本人の歩き方は何か変。まるで‥のようだ」と先進国の中で揶揄されている典型的な日本人の歩き方を晒して回っているようなものだ。

この、「日本人の歩き方」については次回に記したい。
.14 2016 未分類 comment0 trackback0

月形龍之介

昔の時代劇の俳優であるかの人を覚えておられ方も多いでしょう。

子供の頃、やたらと映画を観たものですが、この俳優のことは忘れられない。

強面の顔で、どちらかといえば敵役であり、ほとんど主役の市川右太衛門や長谷川一夫に切られてしまう俳優だった。

何故忘れられない俳優なのか。

それは、流麗な剣のさばきがひときわ冴えていたからだ。
剣聖とはこのような人のことだろうなと子供心に感嘆したものです。

動きはどちらかといえば緩慢に見えるのだが、その剣は今にも主役を切り倒すほどの威力を感じさせ、その気迫はいつでも主役を凌駕していたからです。

剣戟映画を見るたびに、月形龍之介の剣さばきが何よりも楽しみだったことを今でも思い出す。

それは、ゴルフの時です。

最近、87歳のゴルファーとラウンドした時、まざまざと月形龍之介の剣さばきが脳裏を駆け巡った。

私より13歳年長のその人は、ゆったりしたクラブのスイングながら、インパクトは実に鋭い。そして、年齢にしては柔らかな身体を捻って美しいフォロースイングを作り上げる。

さすがに飛距離は落ちているが、年齢不相応の弾道で飛んでいく球はあまり曲がらない。

スタートしても間もなく、その静かな迫力に圧倒された私は見るも無残なゴルフをしてしまった。

映画の主役が私なら最後は私の快勝になるのだろうが、現実はそうはならない。

私は、かの老人に一刀両断されて屍をのに晒すことになってしまった。

優雅にして流麗なクルブさばきは、月形龍之介の華麗な剣さばきに似ていた。

そうだ、これからは月形龍之介の剣さばきをイメージしてスイングしようと密かに決意した次第です。
.05 2016 未分類 comment0 trackback0

季節の変わり目

オリンピックが終わり世の中が少しは静かになるかと思いきや、連続発生の台風騒ぎで相変わらず落ち着かない。

台風の被害者には心からお見舞い申し上げますが、私は台風が好きだ。

子供の頃、北九州で毎夏台風と闘ったあの興奮と緊張と恐怖が忘れられない。

暴風雨に備え万全と思われる備えをしても手薄な所がある。そこを親父と2人で懸命に支えて台風が通り過ぎるのを待ったものだ。

男の子としての責任を自覚させられたのは台風との闘いの中でだった。

家中を走り回り、風向きの変わりに合わせて板切れを当てて暴風のエネルギーに対抗した。

なんどもこれは駄目だと諦めかけたが、親父の懸命な顔つきをみると、ここで頑張らなくてはと幼いながらも全身で支えたものだ。

兄貴は旧制の学校の寮生だったので不在。幼い妹は不安げな表情で部屋の片隅でうずくまっている。

そうこうするうちに、お袋の陣中見舞ともいえる「おむすび」が手渡される。

なんだか、いかにも一仕事をしているような充実感が血流とともに全身に行き渡る。

一部が決壊すると家の中が暴風雨で無残になるところをなんとか凌ぎきると、親父から「よくやった。さすが、男の子たい」と褒められるのが嬉しくてたまらなかったことを思い出す。

高台に住んでいることが多かったので遮るものがない環境は恐怖を倍増した。
水の被害がなかったのが幸いだったのかもしれない。

台風一過の外を歩き回った時に見た、川の濁流の底知れぬエネルギーを感じた時は心底恐ろしいと思った。
橋の上からじっと見入って、子供ながらに想定されるあらゆる事態を思い巡らせた。

治山治水は政治の要だ。
今の世の中は、何故か緩んでしまっているような気がする。

9人の死者を出した老人介護施設が川沿いに建てられていた。
事態の想定力が貧すぎる。
こういうのを人災というのだろう。

台風は怖い。
しかし、台風は好きだ。

だからこそ、住み場所を選ぶ時は風と水の被害が出来るだけ少なそうな所を選んでいる。

それでも、自然は思わぬところから襲撃してくる。

地震と台風。
日本は自然災害に満ちている。だからこそ、日本人の自然災害に備える能力は優れている。
とは、言えない。

何故なのだろう?
.05 2016 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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