多頭飼育崩壊・・・もの言えぬ動物にすがる高齢者たち

「多頭飼育崩壊」という言葉の存在を知りませんでした。

生活保護受給者の女性(76歳/千葉県)宅のこと。
この宅を訪れた関係者たちが、その惨状に驚愕しわが目を疑ったそうです。

古い二階建てのアパートの6室はどれも風呂なし。その一つ、4畳半の和室2畳ほどのキッチンが付いた間取り。その部屋に、スーパーの買い物カゴ2つ分ほどの大きさの檻(ゲージ)が天井近くまで上に4~5段積み上げられ、部屋中が目いっぱいの檻で埋め尽くされていた。その数、22個。

中には、26頭もの犬猫が収容されており、いずれも目ヤニや鼻水、よだれで顔はグチャグチャ。どの犬猫も恨めしそうな目をしてヒステリックに泣き喚いており、なかにはぐったりと力なく横たわっている子猫もいたそうです。

檻の中に敷かれた新聞紙で汚物処理が足りるはずもなく、排泄物は部屋中に垂れ流されている。周囲には大量のごみが積もり、埃だらけのカーテンは色あせ引きちぎられ、強烈な糞尿とゴミの臭気が充満し、一種異様な地獄絵図の様相を呈している。強烈なアンモニア臭の刺激が目を襲い、痛みを感じるくらいの惨状。

最近は、高齢者が屋外にいる犬猫を拾ってきては室内に集めて飼育し、自信の健康上の理由から世話が出来なくなって“多頭飼育崩壊”に至るケースが跡を絶たないらしい。
しかも、金銭的に困窮している世帯が非常に多く、避妊・去勢手術費用も捻出できないため、場合によってはネズミ算式に頭数が増え、生ませてすぐに子猫・子犬を殺して対処しているケースも多い。

こういったケースの6割以上が高齢者宅だそうです。
血縁者や地域住民との関係性が希薄で身寄りのない老人が多く、『外にいるのがかわいそうだから』と拾ってくる。

ボランティア団体などが犬猫を引き上げても、また外から集めてくる。
そして、どんなに諭し戒めても、
『死ぬときは一緒』と言って手放したがらないのも共通する特徴の一つらしい。

金もなく、関わってくれる人もいない。
自分を必要としてくれる対象者として、もの言えぬ動物にすがり寂しさを紛らわす高齢者たち。

寂しい老人たちの話は枚挙にいとまがない。
老人であること自体が寂しいうえに、世間とのかかわりが一切ないということの孤独感は想像以上のものなのでしょう。

道すがらすれ違う愛犬家たちを見るにつけ、まともな普通の愛犬家たちであることに安堵するとともに、その境遇が長く続けられることを、他人事ながら祈る思いでみています。

近隣にも、猫を数匹飼っている人もいますし、毎朝、6頭の犬を散歩させている人もいます。
ペットを飼うことが苦手な私はいつも感心したり、複雑な心境で眺めていますが、人それぞれと割り切ってみています。

公園で寛いでいるときに、傍らにきて、パン屑でパンパンのウエストポーチからパン屑をばら撒いて「ハト寄せ」をする老人には怒りを覚えたことがあります。しかし、たくさんのハトが集まると、得意満面、至福の表情をしているのを見ると文句も言えなくなります。
私が、その場を離れれば済むことですから。

動物と人の問題には、深い闇があるようで、私には時として不気味な世界を感じさせられることがあります。
どんな場合であれ、介入が難しいことのように思えます。

ゴミ放置居宅問題、多頭飼育崩壊問題も遠くのことですからの呑気なことを言っているのかもしれません。差し迫って何らかの被害があるということになると別問題になるのかもしれません。

老人が充満(?)する時代に、公共サービスがどこまで出来るのか分かりませんが、人間の心の問題が絡む案件には慎重であってほしい。
とはいえ、さまざまな人の心を満足させることは難しい。
地域の住民が、我がこととして何らかの援助をするといったところがとりあえずの選択なのかもしれません。

「片付け屋」とか「便利屋」が大繁盛らしい。
問題は多いですが、当面は、そのあたりに任せるほかはないでしょう。

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.29 2015 未分類 comment0 trackback0

ペットとは言わせない

毎朝、神社で会う若い女性がいます。
近くに高層マンションが出来て以来ですから、そのマンションの住人だと思われるその女性は、女子大生か女子高校生かにみえる可憐な人です。

私は神社を訪れる時間帯に顔を合わせるのですから、冬の朝などはまだ薄暗く、若い女性には危険なのではないかと気をもんだりもしていました。

2年半近くも毎朝顔を合わせていれば軽く会釈をかわすくらいになるのは自然の成り行き。
全身をハリネズミのようにして他者を寄せ付けない頑なさが取れたのは、最初の出会いから半年ほど過ぎたころだったと記憶しています。

神社に犬を連れて散歩する人たちの一人です。
いつも、ミニダックスフントを小脇にしっかりと抱きかかえて来て、神社本殿の前で犬を下におろし、そこらをほんの僅かの時間歩かせて、再び小脇にしっかり抱きかかえて帰っていきます。

「可愛いワンちゃんですね」
と、声をかけますと、はんなりとした京娘のような可愛い笑顔で応えてくれました。
「ええ、とても!」
「どうしてもっと歩かせないのですか?」
「とっても人見知りをする子ですから、私以外の人間にはすぐ吠えるものですから」

私が、こうして話しかけながらちょっと近づいただけでキャンキャン吠えかかります。
「なるほど。お世話が大変ですね」と、驚きの眼差しを向けましたところ、
「夫にもそうなんです。私以外の人間には敵意をむけるんです」

人妻とはとても思えないその女性の予想外の強い語調にたじろいでいますと、
「私には子供が出来ないんです」
「ですから、この子は私の赤ちゃんであり、私のかわいい子供なんです」
「この子をペットと言われるのがイヤなんです」
「この子は、ペットなんかじゃなくて、私の子供なんです」

見かけによらない彼女の迫力に圧倒された思いの私は、つぎの言葉を呑み込んでしまいました。呆然とした様の私に気を遣ってくれたのか、申し訳なさそうな表情で、
「不妊治療を受けているのですがいっこうに妊娠の気配がないんです」

「そうですか」
と、応じるのがやっとで、初めての会話ではこれ以上は継続する雰囲気ではありません。
彼女と犬、そして私の間には再び堅牢な厚い壁が出来た思いがしました。

私がラヂオ体操を始めて間もなく、いつものように短時間の間歩かせたミニダックスフントをひしと小脇に抱えて帰っていく彼女の後姿は、いままでの光景とは違ったものにみえました。

その後、毎日同じ姿の彼女ですから、まだ望みがかなえられていないのでしょう。
あれから、会話を交わすことはなく、親しげに軽く頭を下げて挨拶をするだけです。

神社には、入れ替わり立ち代わり多くの愛犬家たちが散歩をしています。
いままで、格別思い入れて眺めたことはありませんでしたが、犬と人の間には様々な気持ちの持ちようがあることにあらためて感じ入って、その姿を見るようになったのは、彼女との初めての会話以来のことです。

そうやって見てみますと、神社で出会う高齢者と犬、中年婦人と犬の関係は、私と犬の関係の基準をはるかに超えた濃密な関わり方があるような気がします。

夫婦百景、愛犬家百景。
窺い知れない深い世界が存在していると思うと、目を合わせた愛犬家たちに声を掛けるのがためらわれます。

私の理解を越えた犬と人の関係に立ち入る気持ちにはなれなくなりました。
ただただ、距離をおいて笑いかけるのが精いっぱいです。
この距離感を保っていれば安全ですが、うっかり声を掛けて相手を怒らせたり、傷つけたりせずに済みます。

欲しくて欲しくてたまらないのに、子供ができない愛犬家にかける言葉は特に持ち合わせません。
今朝も、遠くから会釈を交わしただけです。
私が勝手に、心の中でかける声があるのみです。
.29 2015 未分類 comment0 trackback0

プログラミング不要で安価な人型産業用ロボット

これは、来るロボット時代のことを言っているのではない。
派遣先の製造現場での勤勉な中高年労働者のことを言っている。
中高年のブラック派遣の現場での雇用側の認識である。

現在の中高年は、気働き、気遣いをしながら必死で現役時代を過ごしてきている。
リタイア後諸般の事情で再就職を求める者も多い。
特別の技能・技術を持つ者でなければ、安価な対価しか保証されない単純労働の現場を紹介されるのが関の山でしょう。

そこでも、中高年労働者はほうっておいても何とか工夫し、自分が崩壊しないように頑張ってしまう。企業組織内で鍛えられた「自分の身は自分で守る」というスキルを発揮する。

勤勉な中高年労働者は、監視役を置かなくても勝手に頑張ってくれる道具として位置づけられている。
劣悪な環境の倉庫内での段ボールの解体。
ベルトコンベアを流れるイチゴのヘタ取り。
このような労働でも、何とか意味や価値を見出して頑張る。

いま、中高年の「うつ病」が増えている。
「アルツハイマー病」も同じく急増中。

ロボットは文句ひとつ言わずに24時間労働が可能だ。
危険区域や非衛生区域でも黙々と働く。
故障はするが病気はしない。
社会保障費も格安で済む。

このような労働力と人間が仕事を奪い合う時代が来たら、人間の方が不利だ。

コンピューターが登場して以来、人間の希望や安定した生活を奪っている。
便利、便利と浮かれている間に、一般労働者はこの世の片隅に追いやられ、下手をすれば、ロボットの方が高価だから安価で済む人間ロボットを使用しようとする労働の場しか与えられなくなるのかもしれない。

電車内でみる、スマホや携帯などの端末におぼれてしまった若者たちを見るにつけ、いつかは端末だけで自由に操られるロボット人間が多数養成されているような気がします。

すでに、史上希にみる過酷な時代は始まっているのでしょう。
端末をとおして、意図する者の思うがままに動く人間たちの養成が始まっていると思えば、昨今の状況は恐ろしいことなのだが、養成され洗脳された人間には何ら違和感のない普通のことなのかもしれない。

日本の指導者たちは、再び「富国強兵政策」に舵を切ったようだ。
その目指す先は、中国共産党支配の国家のような気がする。

国家のための奴隷という構図が明らかになってきたようにも見える。
これが、人間の歴史的真実だと言われればそうかもしれない。

しかし、人間が人間らしくという世界観で変化しようとしてきたこともまた確かだ。
再び、資本という権力に敗退して、金のために隷属するという暗黒に逆戻りしようとしているのかもしれない。
.27 2015 未分類 comment0 trackback0

ロボットに怒り心頭の友

都内の友人でシルバーパスを便利に使っている人がいます。その彼が、いつも使う都営地下鉄のA駅で不愉快極まる思いをするという。

パスを提示しても無反応。ウンでもなければスンでもない。
新宿駅や神保町駅では、「どうぞ」
「ありがとうがざいます」と、きちんと反応してくれるのにA駅の駅員は、鎌首はもたげているのに知らん顔らしい。

このシルバーパスには批判的な意見も多く、賛否両論だとのこと。
そうなると、友人としては多少卑屈にもなるのか、「乗せてやる」と言わんばかりの無礼な態度にことのほか悲憤慷慨している。

私は彼に、「時代を先取りしているんだよその駅員は」と言いました。さらに、
「その駅員をロボットだと思えばいいんだよ」とも。
「いつでもロボットに仕事を譲る」つもりなんだよと。

スーパーに行くと、ロボットが買い物をして、ロボットが捌くレジを通って行く。この間、人間の会話は一切なし。
「ありがとうございました」、「またどうぞ」という定例句が口早に発せられるが、このレジロボットは買い物ロボットの目はおろか顔も見ない。

ロボット客がロボットレジで金を払い、ロボットのように珈琲を運び席に座る。
座るや否やパソコンを開き、ロボットのような表情でキーボードを叩く。

さほど遠くない将来、いま人間が行っている仕事のかなりの部分がロボットに奪われてしまう時代が来ると憂うる予測もあるが、すでに人間がロボット化している。

行列ができる繁盛店にはロボットが長蛇の列をなし、ロボット料理人が決められたレシピに従って料理を作る。
ロボット給仕人が料理を運び、ロボットのような客が食べる。食べた客はロボットレジを通過して帰って行く。

何かの情報紙にロボットに取って代わられる職業を特集していました。

パソコンを眺めながら患者をみない医者を含めて多くの分野の仕事が、ロボットに代わるだろうと予測していた。

雇用者側のコストパフォーマンスと被雇用者側のコストパフォーマンスが前景化すると、きめ細かな気遣いやサービスは消滅する。

「おもてなし」ということが声高に言われている。
これは、オリンピックで来日する外国人向けの特別のことらしい。
オリンピック限定の短期間の出血大サービスなのだろう。

満員電車の中でみる人間の顔から生き生きした表情が消えて久しい。能面が並んでいるようだ。

若い人たちも、仕事の場では己を消し、自らをロボット化させることで毎日をかろうじて乗り切っているのかもしれない。

ロボット男とロボット女では、恋も愛もないだろう。子供もできるはずもない。
交わす会話もインプットされた言葉を適宜発するのみでは、気持ちの通う会話は成り立たない。

それでいて、「絆」の回復、「人間らしさ」の回復が叫ばれている。ということは、大声で叫ばなければ消滅する一方だということらしい。

そう言えば、パソコンや携帯と「強い絆」で結ばれている人が増えた。

スマホとガラ携にゲーム器と三種の神器宜しく操る人もいる。
今度はアップルウオッチが加わって四種の神器となりそうだ。
それらを自在に操る様は、ロボットの曲芸を見るようだ。
「人と話をする暇はないのだ」とばかりのパフォーマンスには笑ってしまう。

息苦しい将来が到来する人間社会はどうなってしまうのか。
.27 2015 未分類 comment0 trackback0

「やり残したことがある。それは恋愛だ」

新郷由紀氏の「老人たちの裏社会」という本を読むと、あまりにも悲惨で読んでいて気分が悪くなるほどの事例が列挙されています。
その中で、表題が小見出しになっている一節があります。

「人生の終盤を迎え、タイムリミットを自覚した高齢男性が決まって口にするのは『やり残していることがあった。それは恋愛だ』というものです」と言うのは、NPO法人「ヒューマニティ」の理事長・小早川明子氏です。

社会的背景や、日本人の結婚観の未成熟などを論じていたら長くなってしまいますので割愛します。
されど、なんとなく結婚してしまった、性衝動に身を任せてしまった結果、結婚せざるを得ない状況に追い込まれた、面倒くさいので見合いで手間をかけずに結婚した、誰とでもよかったなど様々な結婚が普通だった時代を生きて来た今の高齢者たち。

この高齢者たちの心に、通奏低音のように微かに音を奏でていたのが「自分は本当の恋愛をしたことがない」、「今の妻を愛したことはない」、「身を焦がすような本当の恋愛をしてみたかった」などの、恋と愛に対する病的なまでの憧れだったのです。

どんなに激しく燃えても、3月3年と経過するうちに、熱は冷め、波は収まり、風は止むことは常識として知っているにも拘らず、憧れて止まない。中には、何十年もその情熱を持ち続けている稀有な人たちがいることも確かです。珍しい人たちです。最高にクリエイティブであるか、最高の演技者であるのかはわからない。

しかし、「結婚して子供ももうけたけれど、本物の恋愛は未経験」と言い放つ老人呆れるほど多いと言います。

「会社を辞めてやることも見つからない。心にぽっかり空いた空隙を埋めるのにもってこいなのが『恋愛だ』と言うのです。若い世代には次と言うことがあるのですが、老人では『次はないかもしれない』という焦燥感から、目の前に現れた対象者に異常なほど思い入れ、“人生最後の恋”とばかりに執着する。その過程の中で、本人の願望が独り歩きをし、現実と妄想の混乱の中で自己都合だけの『物語』を書きあげていく。

さながら、「劇団ひとり」よろしく、自分一人の妄想から書き上げたシナリオをもとに空想の舞台で演じていた劇は無残に否定される。
それはそうです。抑えきれない欲望が前面に出てきたとたん、相手の女性は一目散に逃げ去る。

すると、小説や映画で見る恋愛劇のはじめの段階でしかないのに、いきなり行動を起こすのでは、相手は気持ち悪がってひたすら逃走する。男女の付き合いをするなんて気はさらさらないのだから。

そこからが問題なのです。
老人は、勝手に思い込み、勘違いをつづけた挙句に『裏切られた』と逆恨みして、抑えきれぬ情動と激情のままに非常識とも思わずに過激な行動に走る。
つまり、ストーカーになってしまうのです。

資産家連続殺人は、その心理をついた悪女の所業。
老人は簡単に獲物になるそうです。
長生きをされたのでは、コストパフォーマンスが悪いので殺してしまい、次の獲物を物色し仕留めていくのだそうです。

人によっては、実質年齢より20歳ほど若いと言われます。
それで、老人らしくおとなしくしていろと言われても、収まり切れない人も多い。
少年法と同じレベルの老壮年対策が「法」として立ち上がるかもしれない。

若者の見本となり、若者が尊敬して教えを仰ごうとする老人が見当たらない。
なぜなら、若者に対抗して若くあろうとする老人・老女がますます増える傾向にあるからです。落ち着かない若者と、落ち着かない老人が溢れる日本なのですから。

今の日本では、60歳代や70歳代は生々しくて、とてもじゃないが危なっかしい。
昔のような穏やかな「隠居さん」になれるのは80歳代に入ってからかもしれません。


.16 2015 未分類 comment0 trackback0

「愛想笑い」や「社交辞令が通じない」 老人ストーカーたちの悲しき勘違い

・本人に興味を持って(持ったふりをして)話を聞かない
・笑って(笑いかけて)接しない
・楽しそうに(楽しいふりを)しない
・下手に褒めたり励ましたりしない
・体に触れない(握手もしてはいけない

これは、若い女性がシニアストーカー予備軍にやってはいけない行為だと言われています。

何事も自分に都合よくしか感じないし、自分にとって心地よいことしか感じない高齢者に対する若い女性の心得とされているようです。

たとえ、仕事上のインタビューであっても、老人は自分への好意としか受け止めない。
話を面白そうに聞いてはならない。話の内容に興味があるのに、老人は自分に関心があるのだと思いたがる。

ところが、話の内容に興味があるのだということを伝えても、「俺の話術が素晴らしくて面白がったのだ。俺には女性を喜ばす才能がある。俺には魅力があるのだと」と、勝手に自己本位に解釈する。

褒めたり、励ましたりすると、「俺に関心があるのだ。褒めらりたり、励まされたりすることは普段はない。この女性は、これからの俺の人生には絶対に必要な人だ」と、固く思い込む。

握手をすると、「看護師以外の女性に触れられたのは何年ぶりだろう!」と、目を輝かせてうっとりする。握手が単なる儀式だとは思いたがらず、女性の肌に触れたということが強調され、思わぬ方向に思考が発展する。

若い頃から遊び慣れている老人ならまだしも、遊んだことがない老人がその気になったら手が付けられない。多少の小金と有り余る時間が武器の老人につける薬は無そうです。

パソコンが導入された仕事環境を通過してきた老人たちは、パソコンも携帯も使いこなせる。日に、数十通のメールを送り付けたり、留守電に5分おきにメッセージを吹き込むなんてことは平気の平左。

妄想の巨人であり、凄まじき執着のお化けであり、拒絶や迷惑が「伝わらない」「通じない」
赤ん坊だともいえます。

たっぷり時間をかけて恋をして、じっくりと愛を育てた経験がない。
もっとも、文学の世界以外にこんなことが現実にあるのかどうかも疑わしい。
カネがすべての手練手管を「愛」と勘違いするのは若い者でも同じことでしょう。

この世に、「本当の愛」なるものが存在するのか。そして、それが長年持続するモノなのかは知らない。

しかし、今まで得られなかった「愛」という不可解なものを今こそ手に入れたいと無謀な夢を抱いている元気な老人がいることは確かでしょう。

遊び遊ばれた経験がない老人は、老人であるがゆえにある意味で「無垢であり純粋」であるのでしょう。何とか保ってきた理性や判断力が消滅するのは早い。
一日中そのこと(相手の女性のこと)以外に考えることがないくらいの妄執ぶりを発揮してしまう。

年寄りであることだけで、気持ち悪い存在であり、不快でおぞましい存在であると思われているのです。邪魔者と思われていると思って間違いない。

心地よい気分にしてくれるのは、仕事であり、社交であり、世辞であり、良くて労わりなのです。そうでなければ、何らかの企みがあるのだと思っていれば間違いはないのです。

でも、有り余る時間とやるべき仕事がない。小金は少しは自由になる。このような老人が「死ぬまで現役」とハッスルしてあらぬ方向に舵を切る。

これから、ますますこのような老人が増えるでしょう。

なんのことはない、青少年の非行と本質において変わるところがないような気もします。
「高齢者鑑別所」に収監される時代が来るのかもしれません。
保護司の保護監察下におかれ、せっかく手に入れた自由を束縛される老人生活を強いられるのかもしれません。

厄介な時代が迫ってきているような気がします。
.14 2015 未分類 comment0 trackback0

ジェントロジー(老年学)

生まれて間もない乳幼児たちが、自分たちの「幼稚園や小学校時代」はどのようであれば有意義であり、愉しく過ごせるのかを考察するような、不可能ではないかという難しさがある。
従って、ごくわずに分かったことしか考察できず、実態とは大きく乖離した現象しか分析できないのではないかという危惧を払拭できない。

「これまで、高齢者における身体の健康は再三重視されケアも計られてきましたが、『心の健康には触れられてこなかった』。お年寄りは体さえ元気なら、穏やかに朽ちていくものと決めつけられていたのです。
しかし、平均寿命が急速に延び、65歳以上の人口は50年前の7倍、75歳以上では14倍と、歴史的にも類をみない新しい現象を迎えています。
高齢期が大幅に延長されたことで、お手本となる先人も不在のまま、老年期、超老年期の時間の過ごし方が問われる時代になっているのです」
(静岡大学名誉教授:小桜義明)
問われる時代になったことは確かですが、皆目見当がつかないのが実態ではないでしょうか。

老年学の定義を読んでみると、
人間の老化現象を生物学、医学、社会科学、心理学など多面的、総合的に研究する学問。老人を意味するギリシャ語のgeronから派生した、「老齢」の意の接頭辞geront(o)-に「学問・研究」の意の接尾辞-logyが連結した語。日本では研究の歴史が比較的浅いため、老人学・加齢学・老年学など様々な訳語が充てられている。

高齢化に伴う課題は多く、負の側面が強調され不安感をあおる傾向もあるが、ジェロントロジーは、加齢変化を退行のプロセスとしてではなく生涯発達としてとらえ、高齢化を前向きに受け入れることを基本とする。諸能力を活用できる自由で健康な生活を送り、長寿を全うする人生設計を確立し、若年層が多数を占めることを前提にしたかつての社会制度やインフラを超高齢社会に合わせて再構成していくことがジェロントロジーの課題だ。

個人の長寿化と社会の高齢化は、それに応じた新たな価値観の創造と社会システムの構築を要求するが、これに貢献する学問がジェロントロジーである。そのため、ジェロントロジーは、医学、理工学、法学、経済学、社会学、心理学、倫理学、教育学、哲学、芸術など人類文化のあらゆる領域を網羅した集成といっても過言ではない。

欧米先進諸国では、第2次世界大戦後から高齢化社会に突入し、早くからジェロントロジーの研究が盛んに進められた。米国では現在、数百の大学や研究機関で教育・研究が行われているという。当初の研究は、老齢化による疾病や衰弱など老年医学の領域からスタートしたものが多いが、高齢社会の進展により個人的・肉体的な加齢にとどまらず、人類社会の問題として俯瞰(ふかん)的にとらえる必要性が高まってきた。国連では21世紀の高齢化社会への対応のための緊急研究領域が2002年のマドリード会議で採択された。

日本でのジェロントロジーへの取り組みは遅く、1959年に個別課題の研究を基本にする日本老年医学会と日本老年社会科学会が設立されたのが端緒である。欧米諸国に比べ日本の高齢化社会の到来は遅く、65歳以上の前期高齢者人口が全人口の1割を超えたのが80年代中頃だったということなどがその背景にある。しかしながら、その後の日本社会の高齢化の進展は急速で、団塊の世代の大半が前期高齢者となる2015年には、4人に1人が65歳以上になる。続いて、高齢者の半数以上が75歳以上の後期高齢者となる人類史上類のない超高齢社会を迎えると予測されている。

このような中で、06年に学際的な老年学への対応を目指す日本応用老年学会が設立された。日本ではジェロントロジーを学部として持つ大学はまだほとんどないが、関連学部内で講座として設けられる例は増加している。東京大学では、生命保険会社など数社からの寄付講座として、06年に「ジェロントロジー寄付研究部門」が置かれ、09年には恒常的な研究・教育活動を行う組織である東京大学高齢社会総合研究機構が設置された。
中国、インドなどの新興諸国においても、加速度的な高齢化が見られるようになり、国際的、長期的視点に立った研究と実効的な対応の必要性が高まっている。
(金谷俊秀  ライター / 2010年)
ということになっています。

この伝でいくと、
幼少年学、小中学生学、高校生学、大学生学、若年労働者学、中年労働者学、壮年労働者学、定年退職者学、初期老人学、中期老人学、後期老人学、死期が迫った超高齢者学など、これから無数に学問と称する分野が出来ていくのかもしれません。

「勝手にやれよ」と言いたくなりますが、むげに否定ばかりもできません。

しかし、落ち着いた成熟した学問的解釈がなされる前に、「ビジネスチャンス」という、「金にしたいだけの人たち」による乱伐伐採にも似た暴挙により、研究の畑が踏み荒らされる危険の方が心配です。
.14 2015 未分類 comment0 trackback0

カフェの方が勉強や作業に集中できる

雰囲気の良いカフェで勉強に仕事、読書すると凄く捗る。周りの話し声や音楽があまり気にならない。

自宅よりカフェで勉強や仕事をしたほうが捗る!?
自宅にいても集中できないとき、喫茶店に行って勉強することです。

喫茶店に行くと、なぜか集中して勉強したり、読書できたりします
仕事は、当たり前ですが会社やオフィスでするものです。
でも、時にはカフェに行った方が仕事がはかどることがあります。

喫茶店は「短期集中」できる場所。
実際やってみると、家と喫茶店では集中力がぜんぜん違うことに気づきます。

集中できない時は、カフェで仕事をしたほうがいい理由
▼適度な雑音が心地よく感じる
意外なことに脳の働きでは、「無音だと集中できない」という性質があるのだそうです。
少しうるさいくらいの方が、むしろ勉強に集中できます。
ノイズは一見、迷惑に感じてしまうかもしれませんが、無音や同僚の話し声よりも、心地よく感じる効果があります。

より集中して仕事がしたい場合は、カフェなどのノイズがある所で仕事をすると有効です
50デシベル(デジベルは音の大きさの単位)程度の静かな環境(例えば図書館など)で作業をするよりも、70デシベルのノイズがある環境(カフェなど)の方がクリエイティブになる(創造性が高まる)というのです。

▼制限時間があり集中力を高まる
カフェにいる限りは、時間無制限というわけにはいきません。
コーヒー1杯分という制限時間があるので、「1時間以内に仕事を終わらせよう」とします。
「何分間」もしくは「何時までに」という制限時間をつけることによって、緊張感が生まれ、人は集中できるようになるのです。1時間以内、2時間以内というようにある程度は時間に制限があるので、「時間無制限!」の自宅よりも、「はやく終わらせないと!」といった具合に、より集中して取り組むことができます。

▼人の目があるとやる気がでる
その理由はズバリ、『見物効果(観客効果)』。
心理学では「他者から見られることで、やる気や仕事の量、スピード、質が変化する現象」のことをこう呼んでいます。
誰かに話しかけられたわけでも、励まされたわけでもないのにやってしまうのは、緊張という適度なストレスのおかげです
仕事を早く片付けたいけれどなんだかやる気が出ない、そんなときはあえて人に見られる環境づくりをしてみるといいかも。

▼やるべき事が限定されているから
喫茶店で勉強に集中できるのは、今やるべき事が限定されているからです。
やれる事が限定されている場所ならば、他の事に気が散らないのです。
自宅で仕事をしていると、テレビなどの誘惑が多く、うまく仕事に集中できないこともあります。

※私の場合も、自宅でやるとTVの誘惑、家事による拘束、襲いくる睡魔など、一定時間集中することが若い頃より困難になってきました。
何かに集中したいときは、神保町の駅傍のドトールはよく利用します。

さすがに学生の街です。
ノート写しに余念のない学生、PCで何か書き物をしている学生、資格の勉強に集中している専門学校の学生、中には何やら論文らしきものをタイプしている研究者らしき人もいます。

前後左右の人が同じような目的で店に来ているようです。
読書の時も、書き物をするときも、何の気兼ねもなく一時間でも数時間でも、体力と根気があれば閉店まで10時間滞在してもどこからもクレームがつくことはないようです。

場所を借りる対価として好みの味ではない珈琲に金を払っているのですから、経営者に度量というか、やせ我慢をするゆとりがないと客は蜘蛛の子を散らすがごとく去ってしまうでしょう。

親しい友とゆっくり語りたいときや、静かに自分の世界に浸りたいときは、それなりのお店に行きますよ。おいしい珈琲を本当に飲みたいときは、奮発してそれなりのお店に行きます。場所借りですから、普通のカフェは。
.05 2015 未分類 comment0 trackback0

大人はどこで勉強するの?自宅以外で多いのは1位図書館、2位は最近よく見るあの場所!

カフェ好きの私が目にしたデータがありましたので引用します。

大人になってから資格取得や仕事の必要性ゆえに勉強を再開したという人も少なくないでしょう。そんなときに困るのが時間と場所の確保。特に、学生時代のように学校の図書館や教室、予備校の自習室がいつでも使えるわけではない以上、勉強場所の確保は困難を極めます。

■大人はどこで勉強しているのか
今回は大人の勉強場所にフォーカスを当てました。大人たちは、いったいどこで勉強しているのでしょうか。
【20~60代男女602名】あなたが勉強する場所として最もよく使うところはどこですか?
自宅:81.4%
図書館:8.0%
カフェ:6.0%
コワーキングスペース:2.3%
ファーストフード店:1.2%
インターネットカフェ・マンガ喫茶:0.8%
有料自習室:0.3%

自宅で勉強する人が81.4%と圧倒的に多い結果となりました。大きく離れて図書館が8.0%、カフェが6.0%、コワーキングスペースが2.3%と続きます。自宅や図書館など、学生に馴染み深い場所が上位にランクインしていますが、カフェや最近流行りのコワーキングスペースを使っている人も一定数存在していることは興味深い傾向と言えるかもしれません。

■出世している人はどこで勉強しているのか?

大人の勉強の目的は出世や転職を志向しているがゆえのものであることが少なくありません。専門知を身につけることで、仕事の裁量が増え、出世につながる。大人の勉強は直接的な収入増につながることが一つの特徴と言えます。長期的なキャリアプランを描く人にとって、出世している人たちの振る舞いは気になるところかもしれません。
ここでは、勉強場所と出世の関係を調べてみることにしました。自らを「出世している方である」と回答した人は、今回の調査でどのような傾向を示したのでしょうか。

【出世している人】あなたが勉強する場所として最もよく使うところはどこですか?
自宅:77.5%
カフェ:12.4%
コワーキングスペース:3.4%
図書館:3.4%
ファーストフード店:2.2%
インターネットカフェ、マンガ喫茶:1.1%

全体の結果と比較すると、出世している人はカフェで勉強している割合が高いことがわかります。とはいえ、この結果が決して「カフェで勉強すると出世する」という因果関係を示すものではないことは言うまでもありません。

■「カフェで勉強する」条件とは
そもそも、出世というキャリアの導線が存在するのはほとんどの場合大企業に限られます。中小企業の場合、一族経営であるケースが少なくなく、社員数が少なく雇用流動性も高いため「出世」という概念にあまり馴染みがない会社が少なくありません。
一方、大企業は配置転換や昇進など、定期的に会社から評価をうけるケースが多く、それゆえ出世を志向するインセンティブが整っていると言えるでしょう。

■都市は自宅で勉強しにくい!?
そんな大企業が集中する都市部には至るところにカフェが存在します。また、コワーキングスペースのほとんどは三大都市の一部に集中しています。ゆえに、出世という概念が存在する大企業で働く人が多い都市部において、カフェで勉強する人が多いのは当然と言えるかもしれません。

また、都市部の住宅面積は全国平均よりも狭いため自宅では満足のいく勉強スペースを確保しにくいこともその理由として考えられます。それゆえ、都市部のビジネスパーソンが勉強場所としてカフェなどの第三空間を選択するのは当然と言えるかもしれません。

(文/しらべぇ編集部・松岡佑季)し

【調査概要】
方法:インターネットリサーチ「Qzoo」
調査期間:2015年3月20日~2015年3月23日
対象:全国20代~60代男性計602名

※ 以上、コピペしました。スタップ細胞はありませんでした。
.05 2015 未分類 comment0 trackback0

一時間以上の学習と作業を断ったカフェ

以下は カフェの店内に掲示されたものです。
「当店での長時間の学習・作業はお断りいたします。
店内の利用に関しまして、下記にご協力頂けます様、お客様のご理解をよろしくお願い申し上げます。現在、長時間に及ぶ勉強・作業によるご利用を戴いておりますが、店内における学習・作業等は、他のお客様のご利用が、出来なくなることが御座いますので、長時間のご利用は、お断り致します。なお。長時間とは1時間以上のことです」(以上、原文のママ)。

高層マンションが完成した後に付随して出来たそのカフェは、広い空間とゆったりしたイスとゆとりのあるレイアウトです。
地価が高い都心のゆとりのないカフェに比べて、郊外型のこのカフェは近隣住民やビジネスマンにとても好評らしくいつも混み合い、私も一度ならず利用できなかったことがあります。

以前から時折立ち寄っていましたが、今年の1月2月は集中して読みたい本と整理したいテーマがありましたので、午前中に行ったり、夕方に行ったりと、ほぼ連日のように利用していました。それでも、一回に2時間をめどにし、時には3時間くらい滞在していました。

2月の末頃、いつものように行ってみますと突然上記のような張り紙を目にしました。
正月休みがあり、受験シーズンということもあって、確かに珈琲いっぱいで長時間集中して勉強をしている中高生が何人もいました、そのほか、パソコンを持ち込んで充電しながら作業をしている近場の会社員や、大学生の姿も多く目にしました。

上記の張り紙には、「ご遠慮ください」ではなく「お断りします」と、店側の断固たる方針が表現されています。このような、断固たる姿勢には共感しますが、この内容は店側の苦悩は分かりますが、現代のカフェに対する客の望むところを誤解しているのではないかと、余計なことですが店のこれからに危惧の念を抱きました。

一杯350円の珈琲を美味しいとは思いません。私は食べないことにしていますので味は分かりませんが、出されているカレーやパスタが特別おいしそうではありません。
人々は、場所を求めて来ているのであって、飲み物は食事が素晴らしいからではありません。そんなものには場所代として払っているだけです。

JR・私鉄・地下鉄の3線が行き交うこの地にカフェはたくさんあります。純喫茶を含めて、どのカフェも空間にゆとりがなく、狭苦しい貧相な店ばかりです。

その中で、比較的新しく、ゆったりしたこの店で集中して勉強をしようとする学生や、デスクを離れて作業をしたい人が大勢集まってきたのだと思います。わたしもその一人で、勉強をしたり作業をするのはこの店でと決めていました。

人は人が大勢集まるところに行きたがるのではないでしょうか。
大勢の人が集まる場所は、それなりの魅力があるからです。そして、大勢集まる場所はそれ故に新たな魅力が生まれ、それがさらに人を引き付けるのではないでしょうか。

座る場所がなくて帰っていく客を逃したくない。被雇用者として多忙は御免だ。
理由はいろいろあるのでしょうが、目算を誤らなければよいがと危惧していましたが、どうやら、危惧したとおりになっているようです。

3月は、週に一回くらいの頻度で行っていましたが、客足は急速に減ってきました。
4月は2度行きましたが、店内は閑散としています。
いつ行っても、自分が好きな席に座れるようになりました。

勉強をする人も、作業をする人もめっきりその数を減らしました。

その上、張り紙される前にいたベテランの中年の女性スタッフも去ってしまい、現在は無表情なアルバイトの女性たち替わっています。

マメに、トイレの清掃をしたり、床のゴミなどにも細心の注意を払っていた人たちでしたのに、残念な現状です。
聞くところによると、張り紙をするにあたって、店内スタッフの間で大論争があったようです。

経営コンサルタントの指導に経営者が疑いもなく従った結果のようです。

現代のカフェは、ファミレスを喫茶店に衣替えしたり、店内に雑誌を置いたりして出来るだけゆったりとした気分で客が過ごせるようにしています。

この店は、どこかで勘違いしたようです。いずれ客が戻ってくることもあるでしょうが、その時には、この張り紙は撤去されていることでしょう。
.05 2015 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

須藤文弘

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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