春は 顔が明るい

 土俵での冬と春の鬩ぎ合いも春優勢の内に冬が土俵際で踏ん張るころになってきました。
去年は日記に寄れば、2月9日に雪掻きに汗をかいたようです。
もう、これから雪が降っても、何かの間違いだと思えますし春の珍事だと笑ってすまされそうです。

春の日差しは素晴らしい。
道行く人の顔を明るくしてくれます。
空気が重くどんよりした街中で、曖昧で無表情な顔とすれ違うとこのまま冬が居座り、再び明るい世の中は望めないような気分にさせられます。

四季の移り変わりを心から讃え、自分は素晴らしい国に生まれたことを感謝したかと思うと、気忙しい面倒くさい国に生まれたことを嘆いたこともあります。

ところがここ数年、言うところの歳のせいでしょうか、四季が愉しくて仕方がありません。

かすかに感じる春の躍動。
負けてしまいそうな夏の力強さ。
シンクロして落ち込みそうになる味わい深い秋。
春の到来をひたすら待ち望む短い冬。

夫々の季節が、心を弾ませ心をかき立て心を静謐にし心を鎮める。
まるで、季節を懐石料理にして舌鼓をうっているようです。
目で味わい舌で愉しむ。
春のわが身、夏のわが身、秋のわが身、冬のわが身とその時の心情は名作の舞台を鑑賞しているような気がします。その舞台で主役を演じるわが身を空想したりする楽しみもあります。

冬がとても楽になったのはあり難い。
暖房機器も発達進化し、衣類は予想以上の大進化をしてくれました。
冬の到来をことさら恐れる時代はすでに過去のモノ。
冬ですら、愉しみに事欠かない時代を生きることができるとは想定外の幸せです。

春の日差しを浴びると、老女の皺も少なくなり老男の禿も一段と輝きを増します。
モノ皆等しく光り輝く街場に身を置くとつい足も軽くなります。

弾んだ気分に乗せられて江戸川べりを散歩しました。
やや薄着で出かけたままでの川べりはまだ寒い。
目に入る景色は枯草と透明ならざる冷たそうな川水の流れと、無機質なビル群ばかり。

一挙に冬に引き戻され身を震わせてしまいました。
目で見る春と、身体に感じる春がシンクロするにはまだまだ時間を要するようです。
風邪をひかないように用心深く春の皿に箸をつけようと思い直しました。

半袖で平然としている若者との彼我の差は気にしないようにして、年寄りの冷や水だけはしないようにしますよ。
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.28 2015 未分類 comment0 trackback0

寝たきりに 朝が命を足しにくる

ラヂオを聴きながら歩いていると、応募された俳句を取り上げて短評をしていました。
その中で、ハッとするような一句があり思わず足を止めてメモしてしまいました。
タイトルの俳句です。

御免こうむりたい寝たきりという状況は必ずしも避けることはできないかもしれません。
寝たきりという事態を避けたいために何かと思いを巡らせて毎日を過ごしていると言っても過言ではありません。

死ぬなら、あっという間に逝ってしまいたい。あるいは、がんを告知してもらって、余命を告げられたらその時間を精いっぱい生きて終わりたいとは、この20年来の私の望みです。

ところが、何が起きるかは全く予想がつきませんので寝たきりという状況にわが身が置かれないとは言い切れない。
予想が可能なあらゆる事態を想定して頭の中でのシミュレーションをすることがありますが、その時のわが身は今の自分のわが身ではありません。
無数の状況が予測されますので、結局のところはシミュレーションすることは能わず思考を中断するしかありません。

ところが、上記の俳句の作者は素晴らしい。
寝たきりにもかかわらず明るさがあります。
思考の組み立てが実にポジティブな方のようです。

自立して動けなくなった、動物としては不本意な生存をせざるを得ない。
その時点で終わったと観念する。
そこから、日に日に死が迫ってくると慄きながら、余命を今日も一日失ってしまったという思いで生きるか。

意識がはっきりしていたら、さまざまな思念に翻弄されながら闇の奔流に身を苛まれながら生きるようではありたくない」。

この作者のように、
「今日もまた生きられる」
「今日も生かされている」
「今日も生きていていいのだ」
「また目が覚めた。嬉しいな~!」

このような最期の時でありたいと思いました。

もとより凡夫である私が、この作者のようなレベルの心境に到達できるのかどうかわかりませんがせめて、失っていくものを手放すまいとしてもがき苦しむ最期ではありたくないと、この句に痛く感じ入ってしまいました。

寝たきりに 朝が命を足しにくる
いい句ですね・・・・。
.28 2015 未分類 comment0 trackback0

年齢のサバを読んだ寒中見舞い

年の暮れに「喪中」のハガキを戴いた方に、年明け早々に「寒中見舞い」を差し上げるようにしています。
その中で、「今年は私も72歳になります」と書いたらしい。
さる人に、73才じゃない?と指摘され慌てて残っていたファイルを見てみますと確かにサバを読んでいました。

こういう些細なことからあの忌まわしい「ボケ」が始まるのかと思うと些事では済まされない恐怖を覚えました。
再読して字句の誤りを確認してから投函するわけですから、72歳の文字は見たはず。

「見た」けれども「視て」いないし「鑑て」もいない。さらに「診て」もいなければ「看て」もいない。

明らかに注意不足のミスであり、このような単純ミスは若い頃から数えきれないくらいに犯してきたものです。

ところが、歳をとってから犯すこのようなミスには格別の意味合いがある。
「あの人もそろそろ危なくなってきたな」と思われることが気になって仕方がない。

訂正の「寒中見舞い」を出そうかと何度も思いましたが、なんだか些事にしては大騒ぎしているようで今一つその気になれない。

些細なミスをことさら必死になって弁解する老人がいますが、そのようなこともしたくない。結局その件はシカトすることにして今日に至っています。

「呆けたな」と思われようが、「相変わらずそそっかしいな」と思われようが、「歳をとりたくないのだな」と思われようが構やしない。

指摘してくれた友人には感謝しながら、内心密かに期するところを隠せない一件でした。
.22 2015 未分類 comment0 trackback0

吹かずじまいの春一番

気象予報士たちが示す絵図通りにいかないところが愉快だ。
金切り声の女性予報士の空振りには慣れているので腹も立たないというものです。

「私、失敗しませんから」とうそぶく、嘘くさい女医のドラマよりはよほど面白い。

それにしても、冬と春がせめぎ合う今の季節が一年の内で一番楽しい。
やや、春の勢いの方に分があるいまが夢も希望もあるというものです。

朝のウオーキングの折にそこここの庭に咲く梅の花を目にすると、すでに冬は終わったかと思いたいが、ダウンで身を庇いながら歩くわが身をみるとまだまだ春は遠い。

気持ちは華やぎを感じつつも身には何の変化もない。
これが老いたということなのかもしれません。
身も心も弾まないよりはましかと苦笑しながら、身を弾ませるにはどうすべきかということに思いを巡らせるところにいささか生臭さを感じる。

ほんのり朝焼けの東の空を見ながら颯爽と歩を進めるわが身も、薄暗い早朝からトボトボ歩く寂しげな老人にしか他人の目には映らないのかもしれません。

この自己の目と他者の目の乖離がこれからの課題、「勘違いの壁」として大きく立ちはだかってくるのだと思います。

人生に春は訪れないが季節の春は老若男女に等しく訪れる。
身は衰えを重ねる一方だが、気持ちの春を謳歌するに何ら躊躇いはない。

身の春はなくとも気持ちの春を「如何にとやせん」は、浅野内匠頭ではありませんが悩ましいところ。
気持ちの春をいかに弾ませようとも身の春が同調しない限り大きな怪我をする心配はない。
飛び跳ねすぎて骨折でもして寝たきりにならない限りは、弾ませるだけ弾ませて愉しむにしくはなさそうだ。

そこそことはいえ、五体満足で迎える春は残り少ない。
身体の自由が利かなくなってからの春は今感じる春より愉しいのかもしれない。
病床から眺める窓外の春の風情はそれ以上に格別なのかもしれない。
死期が迫っているときの春は最高なのかもしれない。

どうあれ、いまの自分の春を精いっぱい満喫することが、今年の春への礼儀というものでしょう。
.22 2015 未分類 comment0 trackback0

北風の中を歩く

今日は午前中から些事にうつつを抜かして身体を傷めつけたような気がします。

恵比寿駅から代官山まで歩き一件用を済ませ、代官山から渋谷経由で表参道に行き一件用を済ませ、表参道から紀尾井町のホテルまで歩き一件用を済ませ、紀尾井町から神保町の三省堂まで歩き本を一冊購入し、銀座まで歩き一件用を済ませ、銀座からは電車で帰宅しました。

北風が頬を凍らせ、完全防寒の衣類を着用とは言え老体に北風は容赦がない。
途中何度も空のタクシーに手を上げたくなりましたが、乗ってもすぐ降りるような距離だからと自制してしまいました。

今日は歩くぞ、と決めていたわけではありません。
このような状況だと何故かやたらと北風と争ってみたくなるへそ曲がりの性格の所為なのです。

もういい加減いい歳なのだからこのような空元気は止めようと心に誓ったはずなのに、またまたかくの如き愚行をしてしまいました。時折このような発作的な愚行をしてしまうのです。

タクシーかバスに乗りたいことを我慢したストレス、北風の猛攻撃に抗ったストレスと疲労は私の全身に活性酸素をたくさん発生させたでしょう。
歩きすぎによる疲労がさらに活性酸素の発生を倍加させたことでしょう。

平素、適度な運動を心がけて「何事も歩いて済ませる」をモットーにしているのは確かですが、今日は頑張りすぎてしまいました。
活性酸素対策と糖化対策を留意した食生活を心がけている普段の努力が何にもならないくらいの馬鹿げた行為です。

無駄に張り切って「老化を促進」させてしまいました。

案の定体はすっかり冷え切って、帰路の電車の中でさえも寒さを覚えました。
当たり前です。頑張った分だけ身体は消耗し、全身の細胞はダメージを受けたのですから寒さからもなかなか回復しません。

頑張るというのは前向きなことに発揮すべきことであり、その結果がプラスになる場合にすべきことなのに、まったく逆のことに頑張るという愚行中の愚行を頑張ってしまったことになります。

身体を温め疲労を回復する手段を講じて早く寝るしかありません。
無駄に頑張る、むやみと張り切る、もう少しだからと無理を承知で敢行する愚行癖がなくならないと平素の努力が水の泡。

反省!反省!です。
.15 2015 未分類 comment0 trackback0

バレンタインデー 67歳男がチョコを万引き

 チョコレート・メーカー大手が仕掛けた戦略がいつの間にか2月の既定の行事になり風物詩にまでなってしまいました。

その中、「今まで一度もチョコをもらったことがなく、欲しかった」と容疑を認めている67歳の男が伊丹市内で窃盗容疑現行犯で逮捕されたそうです。
なんとも遣る瀬無い話です。

単なる窃盗ではなく、このバカ騒ぎに大いなる批判と皮肉が真意であるかもしれませんが、万引きとなると、本人の思惑とはかけ離れた愚行となってしまいます。

チョコを買って、店員の女の子か近くにいる女の子に、
「いま自分で買ったチョコだけど、僕にプレゼントだと言って渡してくれませんか?」と、ちょっとした芝居をしてもらえば断られることはほとんどあるまいに。
一幕のユーモアあふれる寸劇としてむしろ歓迎されるかもしれない。67歳であれば、これくらいのことは笑って応じてもらえると思うが。

真面目な性格なのだろうか。このニュースを知ったときはなんだか残念な気がしてしまいました。いくらでも楽しめるのに、遊び方を知らないこの御仁が可哀想に思えました。

さて、私自身の2月14日は義理チョコが6個きました。
仕事先のスタッフ6人からのモノですから文字通りの義理チョコです。おじいちゃんにも渡さないと年寄りはやきもちや気だからというのが真相でしょう。

日本がバブル景気を迎える少し前の昭和50年代前半にこのバレンタインデーなるものが定着し、50年代後半にはホワイトデーなるものまでが定着したと言われています。

他愛のないモノとは言え、行く先々からチョコをもらい、関係する仕事先からももらい、自分の身の回りからもチョコをもらい、その処理に困ったほどだったのを思い出します。

思春期や青春期にはそのような現象はありませんでしたから、そのような行事に違和感を感じながら過ごしているうちに、世間での盛り上がりとは逆に自分に関してはいつの間にかすっかり下火になってしまいました。

お返しは面倒で内心閉口していましたのでこの時期が来ても平静でいられることをむしろ喜んでいました。
商魂たくましき輩の企みとは言え、これだけ世の中に定着してくるとそれなりの悲喜劇が生じているのかもしれません。
67歳男の万引きなど笑ってお終いの事件ですが、自分で賄ったチョコを抱えて帰宅するお父さんや、愚かな見栄を張る若者などは無数にいることでしょう。

秋の「カボチャ祭り」など笑止千万な行事を見るにつけ、苦々しさを感じることはこれから増えこそすれ減ることはありますまい。
葬式の行列のような親子の姿を見ると笑ってしまいますが、次には寂しく情けない感情に襲われて意気消沈してしまいます。

世間のばか騒ぎから次第に遠ざかり、やっと静かな生活が取り戻せたと思っている老人がいる一方、相変わらず「貰ったことがないチョコ」に心を乱されている老人がいることが気になります。

何が気になるのかといえば、歳をとることができないまま年齢を重ねている老人が増えているということです。
「ご隠居さんが居なくなった」とはよく言われることですが、年寄りに年寄りらしい落ち着きがないこと確かなようです。

歳をとりたくない年寄り。若ぶる年寄り。彷徨える年寄り。
これらはある意味で大きな社会問題となるでしょう。
.15 2015 未分類 comment0 trackback0

革靴は履きにくい

年寄りに洒落っ気は危険かもしれません。
普段はほとんどウオーキングシューズを履いている私は、たまに革靴を履くとなんとなく歩き難く感じます。

革靴は新品を二足と履きなれた靴が数足あります。
あらたまった席に出るときや、しかるべき人に合うときには革靴を履きますがなんとも歩きにくい。
その上、ウオーキングシューズと違ってコツコツと音がするのが頭に響いて不快です。

従って、止むを得ず履かなくてはならない時は私の不細工な足に合って醜く変形した靴を選んで履いています。底が皮のものもありますしゴムのものもあります。どちらも、道路と足に馴染んでいますので多少は不快感を減じてくれます。

私に革靴は新品といえども注文仕立てのものではありません。4EEEEサイズの既製品です。
ですから、初めて履くときはかなり窮屈で、苦労をして醜く変形するまで我慢をしなくては快適な履き心地にはなりません。

ところが、日曜日に近しい者の葬儀に出なくてはならなくなりましたので急に思い立って新品の靴を履く気になりました。それが大失敗でした。
何年振りかで新品をおろしたこともあり、使用初期の苦痛を忘れていました。履きなれた靴と同じメーカーの靴でもあり、ついうっかりしてしまいました。

私に足は生来甲高で不恰好。加えて左の足が右より多少甲高なのです。
履いた時に左側に窮屈感がありましたが、何かと気が散じていましたのでそのまま出かけてしまいました。

午後になってから次第にお仕置きが始まりました。朝に、自ら仕掛けた時限爆弾が効き始めてきました。
痛いほどではありませんが歩き難く、少し左足の運びに不具合が生じてきました。

翌日月曜日に結果が覿面に出てしまいました。
赤くなってもいないし腫れているわけでもないのに猛烈な痛みで歩行が出来なくなっていました。新靴による圧迫で足の深部の筋肉か腱、もしくは軟骨に圧迫による炎症が起きたのでしょう。

月曜日に大切な用がありありましたがとても歩けないので変更を許してもらい、一日養生をしました。火曜日は仕事があり休みにくい。
しかし、火曜日の朝は前日より症状が悪化してしまい困ってしまいました。

いつもの4倍の歩行時間を確保して出かけました。
普段、歩行が困難な人たちをみて、あのようにならないようにしたい。そのためにウオーキングを欠かさず足腰を鍛えておきたい。このように思っていた自分が突然歩行困難者になってしまったことに忸怩たるものがありました。

心身に異常な疲労を感じたもののなんとか仕事をこなし安堵しましたが、疲労困憊してしまいました。

患部の活性酸素対策と湿布などで今日水曜日はだいぶ回復しました。

若い頃と違って、新しい局面に咄嗟に対応ができません。
このブログで、高齢者が新しいことをするときは一拍おいて状況を慎重に判断して取り掛かることが肝要だと記述したことがあります。

今回は自らの選択で愚行をしたことになります。
どちらかといえば楽観的でノー天気な私でも歩行困難という事態は想像以上のダメージを感じました。

早速新しい靴を伸ばし拡張のために靴屋に持ち込みます。
そして、ホルダーを装着していつでも使用できるように備えておくことにします。

若い頃なら多少の無理はきいたのに!という、よくある繰り言は禁句ですから。
.06 2015 未分類 comment0 trackback0

雪カキと天気予報

二転三転大回転で予測が外れた今日の天気は快晴。
予報どおりなら今朝は雪カキのはずだった。

雪かきスコップは刃部がステンレスのものを持っていますが、重い故か刃部のサイズが小さい。

昨年の雪カキの折、ご近所さんが使っているプラスティック製の物を使ったら、とても軽いし刃部もサイズが大きく、とても合理的。

数日前に然るべく店に買いに行きましたところ大勢の人達が買い求めに来ていました。毎年のことなのに何故こんなにたくさんの人がと怪訝に思い訊ねてみましたら、プラスティック製は刃部が傷みやすいとのこと。

成る程と納得し買うのをやめようかと思いましたが、ちょっと待て、自分は去年の自分に非ず。
今年の自分は去年の自分より老化した自分だと思い至り、軽量なプラスティック製刃部の雪カキショベルを買ってきました。

さて道具の準備は万端。あとは足腰の備えだけだとばかりに張り切って迎えた今日の朝。

なんのことはない、いつものウォーキングとストレッチをする朝となりました。

昨日夕方のニュースにおける女性予報士の金切り声が耳に残る中、いささか憮然たるものがありました。

もとより正確無比な予報が出来るはずもなく、こちらも期待はしませんが、予報をショーアップし過ぎじゃありませんか?とは言いたい。

良い方に外れる分には文句も少ないから悪い予想は大袈裟にやれとの内部的コンセンサスがあるのか。

耳目を集める一大イベントは局をあげての大騒ぎとなる。
外れる予報に寛大な視聴者は文句は言わない。

それにしても、重いショベルを掻き抱くようにして雨中家路を急いでいた老婦人が痛々しい。

ニンマリしたのは工具販売店とタイヤ販売店のみ。
恐怖ビシネスは思わぬところで功を奏しているようだ。

とは言え、災害は忘れた頃と予報を侮っ時にやってくる。
予報士の金切り声も、危機管理の絶叫マシーンとして割り切って受けとっておいたほうが良いのかもしれない。

それにしても歳をとると雪カキをあまくみることはできない。

恐らく来るであろう大量積雪に備えて、除雪道具として肝心な自らの身体を鍛えることを怠れない。
.06 2015 未分類 comment0 trackback0

一病息災とPC平和ボケ

無病息災とならび一病息災という言葉がよく知られています。
持病の一つぐらいある人の方がかえってからだを大切にして健康でいられるということです。

1995年にWindows95を使い始めました。当初はただただ面白く物珍しい。パソコンが誰にも気軽に使えるようになり、私も夢中になりました。

未熟なハードに不確実なOS。
健全とは言い難いソフトに加え、我先にと売り出す生煮えソフトとフリーのジャンクソフトが氾濫。

飢えた餓鬼さながらに、後先を考えずに貪り食うようにインストールしまくりました。

その結果は急性の食あたりを発症し、パソコンは機能不全。
下剤で下すがごとく全てを排出してリセット。

プレインストールソフトを含めて全てを再インストール。
その後も愚行はおさまらす何度も同じ事態に立ち至り、徹夜を何度も重ねたものです。

でも、その褒美としてパソコンの不具合に対する対処の仕方が多少は分かってきたような気がしました。
不具合何するものぞとばかりに大胆に使いこなしてきたものです。

ところが、ハードが進化し、ジャンクフードの識別さながらにジャンクソフトの見極めもつくようになり、いつの間にかパソコンのトラブルとはほぼ無縁になりました。

ゲートウェイから始まりいろんなメーカーを転々として、ここ数年はDELLを使っていますがトラブルはほぼ皆無。

そうなると、パソコンは不具合を起こさないことが当たり前になってしまいました。

そうなると、久しぶりに発生したちょっとした不調に対応できなくなってしまいました。

今回は、ブログが開かないというトラブルでした。原因がわからない。
何度トライしてもピクともしません。

ほんの数日前まで何の問題もなく使っていたIDとPWがまるで通用しない。
あらためて確認しようとしましたがその記録メモがない。

PWの更新か再発行の手続きをしましたが「秘密の質問」とやらにまるで答えられない。
まさにお手上げ状態。

サポートにメールでアプローチしたが、何しろガードが固い。なかなか忘れたものを教えてくれない。

何度か遣り取りするうちに、何度ももう破棄してやめてしまい他のもので新にブログを始めようかと迷う始末でした。

執拗に遣り取りをしているうちに多少は記憶がよみがえりましたが、どうしても完全ではない。

親切なヒントとともにIDとPWをガイドしてくれましたが、ほんのすこし前まで使っていたものとは違う。

それでも、そのIDとPWでなんとか開くことができました。

問題は、久しぶりのトラブル。
起きるはずはないとたかをくくっていた私が、狼狽えて闇雲に対処したのが誤りが第一。

IDとPWの記録の保管が杜撰だったことが第二の過ち。

パソコンも適度な不具合なら多少は起こしてくれた方が、平素の危機管理意識が継続して良いことだと思いました。

身体もそのようです。
健康を誇り過信していると、いざという時に周章狼狽してどんな事態に立ち至るかわかりません。

平和ボケ、安全ボケは無論のこと、健康ボケ健康過信は厳に注意したいものです。

記録すべきは記録して、その記録したものをいつでも引き出せるように記憶し記録しておくことはとても大切なことだと再認識しました。

ましてや記憶に問題のある年齢に達しているわけですから状況は深刻です。

喉元を過ぎればなんとやらにならないうちにやるべきことがたくさんあります。
老人もなかなか忙しい!
.06 2015 未分類 comment0 trackback0

お詫び

PCの不具合で遺憾ながら更新ができませんでした。
いつもお立ち寄りいただいている皆様には失礼いたしました。
今日、やっと開くことが出来ました。

つたない文章ではなはだ恐縮ですが、再び継続させていただきます。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

本日は雪の予報で心配です。
明日の朝の雪かきのことをもうと今から腰が痛み始める始末です。

どうかお気を付けくださいますよう。
.05 2015 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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