お笑い芸人達

先日、あるパーティに出ました。
300人くらいの出席者達で賑やかしい、どちらかと言えば派手なパーティでした。

一角にダークスーツの青年達の一団が居て一種独特の雰囲気を醸していました。近くの人に訊くと、お笑い芸人達ですよと、その人は忌々し気な顔つきで教えてくれました。

近づいて見ると、成る程TVで見掛ける顔が15人ほど、楽し気に談笑していました。

きちんとダークスーツを着込んだ姿はなかなか立派に様になっています。青年と見えたのは彼らが若々しいからでして、実際は40才近い人達のようです。

立ち居振る舞いは洗練されていて、パーティ慣れもしている彼らは、私の目には外資系のビジネスマンのように見えました。さすがに、人の目にさらされる日常ですからパーティの会場でも様になっていました。

中の一人に話しかけてみましたところ、会話も丁寧で的確なものでした。

あまりよくは知りませんが、昔の芸能人のイメージとはだいぶ異にするようです。彼らは、芸人ということで私などが先入観を持っているのとは違って、芸人であることを現代的なビジネスととらえているとみました。

しかし、TVで観る彼らの芸はあまり感心しません。仕込まれたサクラの客の役割としての笑いや、「ぇ~っ」とか「ウソ~っ」などの奇声で場を盛り上げてもらっている半端もんとしか思えないからです。

時には、互いにわざと笑い合うという相互扶助でなんとか、彼らの言う仕事をしているとしか思えないからです。

お笑い芸人達が出ている番組で笑えたことはありません。むしろ腹立たしい気分になることの方が多い。
いろんなご事情がTV業界にはあるのでしょうが、まるで芸の自慰行為のようなことがいつまで続くのでしょう。

中高生の悪ふざけのような幼児性丸出しがお笑い芸であるのなら、それは違うような気がします。

それとも、漫才落語も長いこと続くとネタ切れで、もう人が笑えるような芸はなくなったのかもしれませんね。

私は、「どーもすいません」とか、「山のあなあな・・」とか言う理解不能な芸で笑をとろうとしたり、客に笑を強要するような芸人が人気があると言う摩訶不思議に愛想をつかして、漫才落語から離れました。

一人、桂三枝、いまの桂文枝には興味を持って来ましたが、彼の芸は、いまの芸人達の中では上品に感じます。これからがますます楽しみです。

話は戻りますが、パーティでの芸人達はとてもスマートでした。もともと頭のいい人が、それなりに人気が出ていまの地位を保っているのですからバカにしたものではないのでしょう。

自分達の芸を現代的なビジネスととらえている彼等のプライベートな場での佇まいがエリートビジネスマンのそれに極似しているのは当然かもしれません。
この集団は端倪すべからざるオーラを発散していました。

ただし、TVにおける彼等はいただけない。彼等の方から彼等の芸に愛想をつかして、新しい芸風を作り出してもらいたいものです。

TV局が求めるものに従属し続ける必要はない。TV局の人が実は一番遅れているのではないか。中学生レベルのものを大衆に見せればいいと思っているTV局の人間は自分たちが中学生レベルそのものになってしまっていることに気づかないのではないか。

錚々たるスマートな芸人さん達の奮起を期待したい。
視聴者を心から笑わせてほしい。国民を元気にしてほしいからです。
彼等には素晴らしい使命があると思うからです。

お笑い芸人さんのことで少々ムキになってしまいました。お笑い、ですね!
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.29 2013 未分類 comment0 trackback0

日曜日の朝は笑いから

私の日曜日の朝は、桂文枝の「演芸図鑑」(NHK)で始まります。
三枝時代から好きな落語家・芸人であり、芸道一筋なところも好感度が高い人です。

朝から落語?と言われそうですが、普段落語を聴くこともないし、丁度目が覚めた頃から始まりますので時間的な都合も良いのです。

一番の目的は、朝から笑いたいのです。面白い漫才や落語で声を出して笑うと、その日一日をとても気分良く過ごせます。

今朝の漫才は、高峰和才(リーガル天才・秀才の弟子)でした。一人漫才ですから漫談でしょうね。とても品のいい芸人で、話も面白くて笑えました。

子供の頃から漫才のファンでした。小学生から中学生にかけて本当によく聴いて大笑いしていました。ラヂオの時代ですから、イメージも膨らみ、至福の時でした。

秋田A助B助、中田ダイマル・ラケット、リーガル天才・秀才などの漫才には一人で大笑いしていましたので、親があきれていたくらいでした。

その頃だったと思いますが、映画では、マーチン・ルイスの底抜けコンビの映画には腹を抱えて笑い転げていたのを思い出します。マーチンはディーン・マーチンです。のちに歌手兼俳優として活躍しましたが、ルイスの消息は知りません。

もう一人の落語か漫談か分かりませんが、三遊亭小円歌ですから円歌の弟子でしょうから落語ですね。なんと女性でした。しかも、美人です。三味線を弾きながらの芸でしたが、早口の特殊な芸で、「仲々の美形だわい」と感心しているうちに終わってしまいました。

三人目は、桂宮治。これからが楽しみな落語家のようです。たいして笑えませんでしたが、あれこれ雑用をしながら聴いていましたので話を追えなかったせいでしょう。

文枝のスペシャル対談が続くのですが、今朝は先週に続き石原まき子さんです。例によって、裕次郎の思い出話ですが、文枝の抑制の効いた洒脱な運びのせいか、新鮮な側面が引き出されていました。女優まき子にもはや女優の面影はありません。

若い頃、裕次郎と吉永小百合の映画は観たことがありません。

裕次郎はなんとなく清潔感がないし、小百合は汗をかきながら一生懸命な人という印象で暑苦しい人だと思っていたからです。
裕次郎は、求められ演じようとする役柄と本人のキャラのミスマッチが気持ち悪くて、小百合の場合は汗臭いというイメージでした。美人女優にはしっとりと淑やかな演技がお似合いと思っていましたから小百合は避けておりました。もっとも、このころは輸入映画ばかり観ておりました。

米軍の重火器の迫力を、アメリカ映画から受けていました。フランス映画のエスプリや洒脱に彼我の違いを確認す映画鑑賞でした。両国のこの差が後年留学先としてフランスを選ぶ由縁となりました。

後年、小百合さんは親しい同級生の患者さんでしたので直接本人に会いましたら、まるで違う感じの人でした。でも、映画に出ると暑苦しく感じますので、いまだに彼女の出る映画は観たことはありません。

話が例によって脱線しましたが、今朝は、リーガル天才の弟子の出演で、子供の頃に笑い転げた当時の漫才師達を思い出しましたのでブログすることにしました。

この番組で大笑いした日は何故だか快適に過ごせます。
笑は健康に良いことは東西の健康本に記されていますし、免疫力をあげることは科学的にも立証されています。

今朝は、高峰和才という芸人を知ったことが収穫でした。
勿論、大いに笑わせてもらいました。免疫力もアップしてもらいました。
今日一日を快適に過ごせるはずですが、さていかがなものか。
.26 2013 未分類 comment0 trackback0

私のゴルフ ナウ

ティーアップして打つとドライバーとスプーンの飛距離に差がない。フェアウエイで打つと、3番ウッドと5番ウッドの飛距離に差がない。
3番アイアンと4番アイアンをライナップから除外して久しい。

5番アイアンと6番アイアンと7番アイアンに飛距離の差がない。8番アイアンと9番アイアンに飛距離の差はない。

結論として、ドライバー・5番ウッドに7・9・PW・SWとパターの7本があれば十分です。ハーフセットということです。

これじゃ~少し寂しいので、9番ウッドと56°PWとAWの3本を入れて10本にしていますが、9番ウッド以外はほとんど使えません。したがって、10本で十分なのです。

足は、電車とクラブバスを使います。
友人の車に便乗できるときはそうします。相手によっては、肩身が狭い風を装うのに気を遣います。寝るわけにいかないのが辛いところですが、贅沢は言えません。

スコアは100を切るのが精いっぱいで、100超えはざらです。これが、一時はハンデ6を張った者とは到底思えない不甲斐ないゴルファーになってしまいました。

極寒極暑はプレーしない、できれば雨天のゴルフもしない。霧雨小雨はむしろ気持ちが良いし疲れも軽いので大歓迎。

自宅から遠いコースでプレーの時は前泊する。
早朝にバタバタ駆けつけるのは健康によろしくない。

ミスショットは、自分の場合は大声で笑い飛ばす。
同伴者のミスは、慰めない・妙なお世辞は言わない・本人に代わって言い訳してやらないで、同じく笑い飛ばす。
それを不愉快と思うやつとは一緒にゴルフをしない。

せっかく一日を費やして遊ぶのだから、ストレスを感じたくない。
だから、スコアのことは構わない。あまりひどいゴルフをしない程度の練習はする。
握り、賭けゴルフはしない。これをやると、私は人格が一変し、敵を作ってしまう。勝つためのゴルフにシフトしますのでプレーが汚くなる。
麻薬と同じで、なかなか足を洗い難い。

ざっとこんな感じのゴルフです。

三つのコンペと高校の同級生との親睦ゴルフが年間の計画に入っています。全部出たら、年間20回ですが、半分の10回出ればいいほうです。

所属クラブの月例には最近は出ていません。所属クラブに私が作ったクラブインクラブの月例にも出ていません。

ゴルフクラブは10年くらい前に買ったものを使っています。

紫外線対策は身体の内面と外面の両方ともしっかりやっています。
女性化したようですが、そうも言っていられません。全身の活性酸素対策だと思えば恥ずかしがっている場合ではないようです。

そういえば、ストレスも活性酸素を大量に発生させますから、ストレスを感じないゴルフと紫外線対策は共に重要な身体の酸化・老化防止策なのです。
ミスショットを本気で悔しがらないで、他者の手前、悔しがる振りをするくらいがちょうど良い。

「不良長寿のすすめ」という言葉がありますが、いい加減で済ませられるものは全ていい加減がいいのです。特に、老人の場合は。
.24 2013 未分類 comment0 trackback0

老ゴルファーの向上心

知人に78歳のゴルファー(アマ)がいます。ドライバーは230ヤードから250ヤードは飛ばすと豪語している人です。
まだまだ伸びると、実に楽しそうな幸せな人です。

幸せな人というのは皮肉ではありません。明るく屈託のない人で、コースに出ない日は毎日熱心に練習場に通う元気爺さんです。

自宅のゴルフルームには、大きくて立派なブロのようなバッグが10個以上と、クラブはだいぶ整理はしたが、それでも200本ほどあり、パターは高価な名品を含めて30本も持っているそうです。

何度もお招きいただくのですが機会がなく、お宅にお邪魔して見せてもらったことはありません。飛距離の話も一緒にラウンドしたことはありませんので、真偽のほどはわかりません。多分、大きくそれた話ではなかろうと自慢話を聞いています。雰囲気としては、いかにも上手そうです。

何よりも明るい性格が素晴らしい。少年のような屈託のなさでゴルフの話をするこの人の在り様は何とも言えず好感度が高い。ただし、滅多にはありませんが、捉まって話が始まると長い!これには閉口しますが、後味は悪くないのは人徳なのでしょう。

練習の時は、クラブは20本くらい持って行くそうです。自分の運転で車を転がしていますし、私の苦手な大きなバッグも問題ない。ゴルフの初期のアメリカでは、まだ本数制限のないころですが、100本くらいのクラブを風呂桶のようなものに入れて手押し車に乗せて奴隷に引っ張らせていたそうですから、20本くらいなら可愛いものです。

健康そのもので、ゴルフ場で死ねれば本望が口癖です。ゴルフ場は大迷惑ですが、このような老ゴルファーはたくさんいます。ショットと同時にポックリさんになりたいのですね。私も臨場した経験がありますが、本人は満足気に逝ってしまう反面、同伴者もクラブ側も大変な迷惑です。クラブ側も最近慣れてきましたが、せめて、練習場にしてもらいたい。

健康で、まだまだ上手くなりたいと練習に励む、体力と意欲と財力には頭が下がります。

ゴルフのことし考えない、ゴルフに明け暮れるこの人にとっての人生はゴルフと共に在るのです。

ここまでのめり込めるといいですね。全国的にみるとこのような人はたくさん居ますでしょうね。

辟易としているのは奥さんだけかもしれませんね。でも、元気で勝手に遊んでいる人の奥さんもまた適当に自分の世界を遊んでいる場合が多いようですから、他人が余計な思いを巡らす必要はない。

亭主元気で留守が良い。幾つになっても妻孝行の模範亭主なのかもしれません。

今は亡き私の先輩の老ゴルファーは、週に一回ソープに行くことを奥さんから許可をもらっていました。でも、この話に明るさはない。ほとんどの人が、自慢げに話すこの人のことを内心軽蔑しきっていました。

とにかく、元気で明るい、前向きで幸せな老人です。羨ましい。本当に!
.24 2013 未分類 comment0 trackback0

ゴルフ練習場の光景とサプリメント

たまにでありますが、平日にゴルフ練習場に行けるようになりました。と言うことは、世間から用済みであり、売り込んでも買い手がつかず、人生の先行きも長くないということです。いいようなわるいような。晴れ晴れするような、落ち込むような微妙な問題です。

その練習場で目を見張る光景があります。平日ですから、殆ど高齢者がずらっと並んでいます。出足が遅れて打席が奥の方しか取れない時は、ハゲ頭の後ろ姿を眺めながら自分の席まで歩きます。

50年前にゴルフを始めた時は、殆どの人がハーフセットでした。余談ですが、当時、ボールマーカーは赤色毛糸の切れっ端を使っていました。赤緑色弱という遺伝子を持つ私にはグリーン上での識別が困難ですから、黄色の毛糸を準備してコースに出ていました。

さて、本題です。目を見張るのは、キャディーバッグが大きく立派なのと、14本のフルセットでクラブを揃えていることです。

ゴルフ業界のいいなりとみます。小柄な日本人男性が多い高齢諸兄には、体力的にかなりの負担ではないかと余計な心配をしたくなります。車があるじゃないかと言われればそのとおりですが。

私の友人には、70歳を超えているのにハーフを30台で回る人達がいますが、これ位上手いと文句はないのですが、これとて、6インチ移動ありでやっていますので、いささか疑問ありです。私は、同じ条件で50以上60近く叩きますので、とやかく言い難い立場です。

多くの爺いさんには、不釣合いなバッグと使いこなせないクラブの何本かは不要でないかと思えてなりません。

健康産業業界の言いなりになっているサプリメント愛用者に似ています。
アレがいいと言われればアレ、コレが良いと言われればコレを服まなければ不安な人達です。今日も、ゴルフショップにはクラブ任せの夢見るジジーが、矯めつ眇めつクラブをいじりまわしています。

有名タレントが宣伝すれば一も二もなく信用する。有名ゴルファーのイメージに自分を重ねて夢を見る。全く同じ構造に見えます。純真そのものです。

自分の身体の事情に合わないクラブを振り回して首を捻る摩訶不思議は、自分の身体には不要なサプリメントを摂ったり、そのサプリメントの作用効果よくわからずに、良いというものは何でも取り敢えず服むという摩訶不思議と同じ構図です。

いま服んでいるサプリメントの効果も判然としないのに、他社から美人女優の妖艶な笑みで売り出された同じようなモノがあると、それも摂らないと不安でしょうがない。

毎日、百錠近くのサプリメントを嬉々として摂っている人を知っていますが、経費も相当なものです。「金はあるぞ」というだけの人ですから、金で命を買うつもりなのでしょう。
それで、今現在が元気でしたら、他者の意見に耳を貸すことはありません。

ゴルフバッグも、使いこなせない余分なクラブも、山盛りのサプリメントも、金で手に入る夢であり希望なのでしょうから、余計な心配は不要なのでしょう。

「俺の自由じゃないかほっといてくれ」と言われればそれっきりですが、サプリメントの摂りすぎの知人には折をみてアドバイスしたいと密かに思っています。
今はやりの保険の整理屋みたいなことをサプリメントでやってあげようとお節介なことを考えている次第です。少なくとも半分くらいには整理可能でしょう。
.24 2013 未分類 comment0 trackback0

悲惨なゴルフの練習

完全なフリーの午前中、久しぶりに練習でもしようと思い立ちました。三月末に練習した時と同じく、宅配便のビニールカバーを外し、三本のクラブを取り出しました。

近々、今年二度目のラウンドの予定があるからです。今年の打ち初めが三月末でした。四月のコンペやプライベートなゴルフの誘いを三度断り、五月はいつ息を引き取ってもおかしくない身内が二人いましたので、二度のお誘いを断りました。

やっと晴れてゴルフに行けるようになり、数日後の仲間内のゴルフ会に参加できます。今年二度目のラウンドになります。

50年余のキャリアはありますが、ここ数年は年間に一桁の回数しかラウンドしていませんので、空振りの恐怖を感じます。

自宅から3500歩強、往復7000歩強の位置に200ヤード打ちっ放しの練習場がありますので、朝食の余剰エネルギーの消費に適当な運動量です。

三月末の時は、前の席に妙齢のご婦人がいて、ショットの度に微妙に揺れる"脂"の魔力に忘我の境地に陥り、ショットは乱れに乱れ、何をしに来たのかわからなくなった次第でした。

今日はそのようなことがないように念じながら、そのようなことがあってもいいなと期待もしながら到着しました。

アベノ・ミスのお陰で潤っている人もいるのか、仲々の盛況です。平日の午前中は老人学校のゴルフ部の練習場の如しです。郊外の住宅地に在る練習場ですから、仕事をサボって球を打っている要領のいい奴はいません。

さて、今日の前席は文学青年がそのまま古くなったような老人です。ユックリ練習出来るなと思い、数球打ったところで、なにか様子がおかしいことに気づきました。

素振りを10回位繰り返すのです。それも、スローモーションです。それも一回毎にフィニッシュをしっかりとって数秒動きません。太極拳のようにスローな動作で最後はフィニッシュを決めて動かない。しかも、微妙にヨロヨロするのです。

私は練習をやめて暫く眺めることにしました。こういう練習を練習場で出来る人も大したものだのと感心し、自分もせめて2~3回は素振りをしなくてはと思い、再びクラブを手に打席に入りました。

ところが、その人は、さんざん素振りをしたあとやっと打った球がことごとくダフリにトップで、まともに当たった試しがないのです。加えて、例のヨーガのような動きです。

だんだん怒りがこみ上げて来ました。そんなことは自宅の鏡の前で一人でやれよと、腹が立って来ました。

わたしは、すっかりペースを乱され、席を変わりたいと思いましたが満席でそれも叶いません。イライラがつのってきました。

結局、彼が10球打つか打たないうちに、私は200球を打ってしまいました。久しぶりの練習なのでこれ位にしておかないと筋肉痛であとが大変ですから、釈然としないまま切り上げました。

こんなことなら、前回のご婦人の方が良かった。夢と希望がありました。妄想とロマンがありました。身体と脳が活性化されました。

今日は酷かった。ペースは乱されるは、怒りは心頭に発するは、ストレスがいっぱいの不快極まる練習でした。

そんなことが気になるようではまだまだ修業が足りないと言われそうですが、現実はそうはいきません。

彼我のリズムやペースがあまりにも違いすぎると影響を受けるなと言われても無理な話。目の前で繰り広げられる異様なパフォーマンスは強烈な毒薬を目から脳に注入されるようなものです。

相手は私に背を向けているのでシラッとしています。その前の人の目には入りませんし無関係。被害をまともに受けるのは私だけ。しかも、相手に何ら文句を言える筋合いのものではない。言えるものなら言いたいですよ。

かくして、ウオーキングをして、多少身体を動かした他は、怒りとストレスいっぱいの数時間でしたから、差し引き、身体にはとても良くないことをしたことになります。
思うようにいきませんね!クラブに触れただけというなんとも頼りない練習に終わりました。仲間の迷惑顔が目に浮かびます。
.24 2013 未分類 comment0 trackback0

偉くなると顔が大きくなる

私がかつて年寄りから聞いた話があります。「成功した男は歳をとると顔が大きくなる。毛沢東のように」と。このような考え方が広く定着していたのでしょう。

明治以来、階級差と貧富の差がはっきりしていた時代は、金満家や権力者と一般人の間には体系的な明確な違いがあったということです。あのような、でっぷりと太り恰幅の良い体になれるように頑張ろうなんて憧れていたのでしょうね。確かに、あの毛沢東が人民服を着て民衆の前に立った姿は立派なものでした。

当時、毛沢東に強い関心を持っていた私は彼についていささか勉強していましたので、彼の日常が殆どベッドの中であり、風呂にもはいらず不潔極まりない不健康状態であることを知っていました。
脂肪とむくみに由来する毛沢東の大きな顔が例にあげられたことに戸惑いながらも、そんなものかな?と仕方なく同意したことを思い出します。

平均寿命が短い時代は、成功して飽食と不摂生に由来する肥満者も痩せ細った普通人も、死因が曖昧なママ適当な病名で死んでいました。

それでも、権力者や経済的成功者は医者を奴隷のごとく酷使できましたので、入念な医療を受けることはできていましたが、医療の方が進んでいない。
ある日ポックリ死んだり、老衰で死んだりしていました。

医者にかかれるひとも限られていましたので、かかれた人達についた病名をもとに贅沢病などといわれたのが糖尿病や痛風でした。
成功して贅沢三昧の生活をして医者にもかかれる権力者や経済的エリートをサンプルとした風説がまかり通っていたのです。

偉い人、金持ちはでっぷりと太り、押し出しのいい貫禄のある姿になっていました。恰幅がいいということは、肯定的にとらえられていましたし、むしろ羨望の的でした。

恰幅のいい身体になりダブルの背広をきて、新橋や赤坂の料亭をはしごして、銀座のクラブに出入りすることが、男の本懐だった一部の男たちの時代は見事に崩壊し、発展途上のこの国に無知なお大尽が居たことがあるという過去の恥ずかしい事例と化してしまいました。

社会通念も進歩するのでしょうね。
.22 2013 未分類 comment0 trackback0

男子厨房に入る

「栄養・運動・休養」は健康維持の三要素です。
そのうちの食事と男性について問題があります。
特に、団塊の世代とそれ以前の男性たちが俎上に上がります。

最近は、イクメンと言われる若い男性の姿によく出会います。カンガルーのように子供を吊るして歩く男性に内心舌打ちをする私は古い考えを全身で背負っていますので、今の時代は私の方が舌打ちされる立場かもしれません。

一方、台所に立つ男たちが増えてきたことも事実です。共稼ぎ夫婦が多いということも理由でしょう。しかし、料理を作る男が多くなったのではなく、後片付けの手伝いというのがほとんどのようです。勿論、料理を作る男も増えてきています。

では、団塊の世代とそれ以前の男たちが俎上に上がるのはなぜか。
幼少では母親に、青にして外食で単品中心、壮にして妻に、老にしてますます妻に食事は任せっぱなしで、全く自立できていないということです。

私の知り合いの老夫婦の話です。
ある時、奥さんが友人たちとの食事会で遅く帰宅すると、旦那曰く「おい、生き物を飼って居ることを忘れないでくれ」と言われたそうです。

勿論、生き物とは老いた自分の事ですね。そう言われたと話す奥さんは、旦那のことを仕方ない人だとも思っているようですが、満更でもない風でした。

「男だから、女だから」と、性別で二分する風潮はいまなお根強く残っています。「食事の担当は女の仕事」というジェンダーの産物である社会通念はなかなか改善されていません。

中学校の家庭科の時間で男女が共に学ぶ時代になって20数年が経過しましたがし、「将来一人暮らしを余儀無くされた時に困らない」ように、男子にも料理を作ることを学ばせようという流れになってはいます。

しかし、いつでも一人でやっていけるぞという男性は育っていません。
食生活で男性が自立できていないということです。

今の自分自身が「何をどれほど食べれば良いのかを承知し、自分で考え調整できなければ、自分の健康は守れません。

楽だからと言って、女性から提供される食事を黙って食べるということは、自分の体を女性に預け切っているということであり、自らは思考停止状態にあるということです。

医者が旦那の病状に必要な栄養指導をする場合も、男にいってもしかたがないと、奥さんを指導することもよろしくない。男をバカ扱いしているということになります。

食事は女房任せ、病は医者任せで薬に頼り、着るものも履く物も女房が決めるでは、まるで子供と同じです。奥方に「飼われている生き物」のごとしです。

古来、厨房は男性の戦場でした。古代中国では厨房出身の宰相が手腕を発揮した史実もあります。宇宙と自然をよく征する者としてです。

現代は知識は有力な武器です。それにもまして、生きる上のすべての基本である身体はさらに有力な武器です。
他者に全てを託すのではなく、自からの身体をしり、何を身体に摂る必要があるのかを良く識ることは、自立した精神と生活の上で欠かすことはできません。

と、このように息巻いて、今日も自分の食べ物は自分で作っている私ですが、これも元気なうちです。でも、この元気なうちを出来るだけ長く保つためにも「食の自立」に拘っています。
.22 2013 未分類 comment0 trackback0

閑話休題  橋下発言  愚民政策

橋下発言が喧しい。
「発言の真意が伝わっていない」
「発言の一部が切り取られて誤解されている」
あーそうですかと垂れ流すだけのマスメディア。

「では、真意というのは何かを聞かせてほしい」とか、
「いったい何を言いたかったのかを教えてほしい」とはならない。

さらにその発言の本人から、「私は、言いたいことを的確に伝えることができない」、「政治家として、どのように表現するべきかがよくわかっていない」などの発言もない。

橋下発言は基本的に間違ってはいない。
ならば、批判に応じて的確な資料を提示して発言の信憑性を表明すればいい。
文系の発言や行動もエビデンスが求められる時代になっている。
理系の精密な実験結果に相当するリサーチが背景にあるか否かが問われる時代になっている。文系も理系もでっち上げはよろしくないが。

思い付きや、選挙がらみなどで適当に言い放つことなどできない。
国際的微妙な問題であれば尚更のことだ。

国内で言われている、あるいは国内で慎重にリサーチされたことは真実として正確に英語に翻訳して海外にも発信すべきであろう。
「本当はこうなのに、わかってくれない」などと泣き言を言いながら相手のペースに巻き込まれてしまい、ますます真実は歪められ国益を損なう方向に行ってしまう。

外務省の賢人たちも、わが身の保身が第一国益第二のようだから、どんどん押しまくられてしまっているようだ。

愚民政策とはよく言ったものだ。
マスコミがまず第一に愚昧機関化してしまっている。
次に、政治家が愚民化してしまった。
国民がまともでいられるはずはない。

では、愚民化政策の実行者は誰なのか。
霞が関の住民の皆さんなのか。

もしそうだとすれば、政治家と国民とマスコミのすべてを愚民化することに成功していると言わざるを得ない。

政治家を躍らせ、マスコミに鉦や太鼓をたたかせ、国民を煙に巻きている現代は霞が関帝国が完成の段階に入ってきたといえる。霞が関という肥大化した組織が強大な権力とエネルギーで自己運動をしている。

官僚個々は単なる組織の分子として思考し行動しているだけではないのか。その誰もが、この組織はどこに向かって何をしようとしているのかわからなくなっているのではないか。

今流れているニュースでは、北朝鮮から拉致被害者を連れて帰りたいのなら「それ相当の誠意を示せ」と言われているようだ。

攫われた国民を返してもらう方が誠意を示さなくてはならないとはいったい何ごとなのだろう。これが、国と国との外交交渉なのだろうか。
愚民の一人として私はとても理解できない。

政権政党が、あるいはその時の内閣の人気取りが叶うなら屈辱的外交を平然と行うのだろうか。これが実現したら、今の政権は国民から圧倒的な支持を受けられるのだろうか。
国民は提灯行列でもして拍手喝采するのだろうか。

東洋の片隅の国では、政治家も国民もマスコミも、何かが欠落していると国際社会から「いまだ発展途上国」と冷笑されるのではないか。
金儲け以外はなんの矜持もなく、誇りもない劣等国同士の「お子ちゃま国家」だと、相手にされなくなるのではないか。

私も、飼いならされた愚民ではあるが心配でたまらない。
.20 2013 未分類 comment0 trackback0

フードファディズム

1980年にマーティン・ガードナーの『奇妙な論理』を翻訳した市場泰男が、「食物のあぶく流行」という形で紹介しています。「ファディズム (faddism)」は流行かぶれ、一時的流行、「のめり込み」という意味です。

日本に「フードファディズム」を紹介した最初の人は、食品安全委員会リスクコミュニケーション専門調査会専門委員・群馬大学教授(教育学部)の高橋久仁子さんで、1998年頃です。1991年、高橋さんはその年に出版された Nutrition and Behavior を読みフードファディズムという概念を認識し、この本を翻訳し『栄養と行動』として出版しました。

その『栄養と行動』によれば、食事や栄養の影響を検証する唯一の方法は、科学研究による立証であるため、研究にも再現性や客観性が求められ、また結果の偏りを最小にする被験者が多い研究や、偏見的な見方を排除するための二重盲検法のような方法をとっているかということも重要であるとしています。こんなことは当たり前のことですね。

1990年代より、医学領域において普及し始めた「根拠に基づいた医療」(EBM, evidence-based medicine) はこのような客観性を目的としています。こうした動きを受けて栄養学の領域でも、EBMが提唱されています。

ハーバード大学公衆衛生学部の栄養学部の教授が企業や団体の影響を受けずに科学的立場からつくった「健康な食事ピラミッド(healthy eating pyramid)」は、健康に悪い影響を与える精白された穀物、赤肉・バター、砂糖がたくさん入った飲食品を控えるということを分かりやすく図示しています。これも偏っていない完全なものとは言えません。

「本当に健康に影響するのか」の根拠が曖昧なまま、特定の食べ物・栄養の影響を熱狂的に信じるフードファディズムの一因には、健康食品などの企業・業界や自称健康食品専門家が、自分たちに都合のいい情報や研究データだけを流す傾向があることが考えられています。また御用学者と呼ばれる特定の業界のお抱え学者もいます。一般化されない非科学的な偏った説を流布し不安を煽るということも平然と行われています。

食品業界によるロビー活動を告発したマリオン・ネスルによれば、健康への貢献に対して優れた食品とそうでない食品があるが、食品会社は良い食べもの、悪い食べものはない、自社の商品は悪くないと思わせようとしているということもあります。悪くないと!

企業や業界はあらゆる商品を満遍なく扱っているわけではないので、自社の利益を増やすためにおのずと一方的に偏ったデータや情報だけを流す傾向があります。間接的にとは言え、自社の製品さえ摂れば健康になれるといった印象を生む文言を巧妙にちりばめたコマーシャルやデータを作成する傾向があり、それがマスコミや他の媒体を経由して人々のもとに届けられています。

でも、私は楽観的に以下のように考えています。

科学的十分な検証が行われていない食品がマスメディアで取り上げられ、その食品がスーパーから消えてしまうような現象はこれからもなくならないでしょう。問題は、トマトとか蒟蒻とかなどで経験済みですが、単独の食品で、痩せるとか内臓脂肪が取れるなどの説が流されることです。これは損害賠償ものの暴論です。

そういう無謀な話でなければ、日本人は熱しやすく冷めやすい。一時的にスーパーに殺到してもどうせ長続きはしません。さらに、利潤を上げることが何よりも優先する企業とマスメディアが結託すれば一般大衆は巧妙に仕組まれた罠を見抜けるはずはありません。権威がありそうな人や、高名な人の言説を頭から信用する人はなくなりません。

理科離れの影響が深刻なまでに浸透した現代の日本では、自己判断だの自己責任だのと言ってもかなわぬ話です。判断の根拠を持っていない人が圧倒的に多いのです。関連企業はやりたい放題です。笑いが止まらないといったところでしょう。

トマトがいいという話、リンゴがいいという話、牛乳がいいという話、ヨーグルトがいいという話など枚挙にいとまがありませんが、せめて同時に参考にしてほしいのが、トマトの害、リンゴの害、牛乳やヨーグルトの害に触れている本を読んでみてほしいものです。

自宅の塀の色を黄色に塗り替えたいと欲すれば黄色のペンキを買ってきて塗れば目的が果たせます。いまの健康情報にはこのレベルのもが多くあります。また、消費者もこの程度の認識で簡単に誘導されているとしか思えない現象が見られます。

ちょっと考えれば眉唾物だとしか思えない話に乗るのは論外です。そうでないのなら、一時的な「食のイベント」とか、「食の気分転換」くらいの気持ちで遊べばいいのです。
ただし、すぐに飽きていただきたい。はまってしまわないようにしていただきたい。

この種の与太話には、熱しやすく冷めやすい、付和雷同型の日本人気質は、深刻な被害を受ける前に撤退できるので、むしろ救いになるのかもしれません。みのもんたが何か面白い話をしたり顔で吹聴したら、スーパーに殺到してみんなで遊べばいいのです。「もんたもんた」と大騒ぎすればいいのです。ただし、短期間だけにしていただきたいのです。
.19 2013 未分類 comment0 trackback0

お茶会 その2  組織の自己運動

今でこそ、母校の茶道部の茶会を心から愉しみ、年に一回の開催を心待ちにしていますが、20年前くらいまでは内心では不満でした。

毎年、四月になると、新部長と数人の学生が、創設者の私のところに挨拶にきてくれます。
この部長が毎年女性になってしまったのが20年前くらいからです。

創設時は男子学生ばかりで始めました。私が、武家の嗜み、男の嗜みを目的に男ばかりの茶道部を創設したからです。

部員は、柔剣道部、空手や少林寺拳法、ボート部やサッカー部、ラグビー部の無骨な者たちを集めました。

表千家学生茶道連盟にも、男子だけの茶道部であることで登録し、その主旨を偉そうに述べたて、花嫁修行でもなく、行儀作法の修行でもない、「武家の嗜み」としての茶道であることを、ことさら強調して始めました。

ところが、私が卒業して現場を離れた数年後から様子が変わってきました。
徐々に女子部員の漸増がみられ、気にはなっていましたが、私も多忙に振り回されておりましたので放置しておりました。

折から、医科系大学の女子学生の増加という時代になり、我が大学でも附属教育機関だった看護師、検査技師、歯科衛生士の学校が大学に昇格する事態になり、女子学生の数は極端に増えました。

大学の、たかがクラブとは言え、一つの組織であり、組織としての生命体です。

自然の自己運動があるように、人体の自己運動というものがあります。誕生から死までの自己運動をしながら、我々は生きて死んでいきます。

組織にも自己運動があります。誕生の意図は意図として、その後の生存と継続のためには、組織の自己運動が必要であります。この自己運動をしながら組織は生きて成長したり、或いは早くに消滅したりします。

ある時から、私は茶道部という組織の自己運動に任せ、創設の意図云々ということを言わなくなりました。
細胞のアポトーシスのように、或いは組織の癌により生命が終わりとなるならそれでもよしとしました。

部員が減少し消滅の危機に何度も陥ったようですが、その時の部長以下の部員たちの生命力と活かす目的が事態を乗り切り、息を吹き返すということを繰り返してきたようです。

「武家の嗜み」だの「男の茶道」などという私の創設の意図は、いまやどうでも良いのです。
茶道部という組織生命体が、時代と共に生きて、時代が要請することに応じられるなら、存続の意味はあり、存続のノウハウは自ずと湧き出てくるのでしょう。

かくして、現在の茶道部は女子学生中心です。花嫁修行でもなく、行儀作法の修業でもなく、新たな意味があるようです。勿論、委縮気味ですが男子学生もいます。

虚業が氾濫し、奢侈と虚飾がまかり通り、落ち着きをなくした現代を生きる若者たちが、自分を取り戻し、自分を見つめる、自分の心の声を聴く貴重な時間として、茶道を捉えているようです。

その人なりの、その人だけの茶道があるようです。その人の心が求める茶道を夫々が追求し、各自が自由に茶道を語っているようです。

量子力学的茶道。分子生物学的茶道。
茶道部という細胞の中で、各自がブラウン運動をしているように見えます。

このブラウン運動からどのような新しい茶道観が生まれてくるのか愉しみです。

来年も爽やかなお嬢さんたちに会えることを楽しみにし、来年は若い人の、どのような茶道観を拝聴出来るのかを楽しみにしている次第です。
.19 2013 未分類 comment0 trackback0

五月晴れのお茶会 No1

五月晴れの今日、神宮外苑絵画館のお茶室で開かれたお茶会に出てきました。
母校の大学の茶道部が開催する茶会です。
50年前に私が創設した表千家流の茶道部です。
毎年、この時季に都内各大学の茶道部の皆さんをご招待して開かれます。
普段は、お茶席とは縁がない生活をしておりますが、このお茶会だけは、毎年開催が待ち遠しいのです。

地味で清楚な女子学生がたくさんおいでになります。
このような若い女性たちに囲まれることは、いまではこのような「場」でなければ叶わない貴重な機会となっています。
初々しい、清純な若い女性たちがこの世に確かに存在して居ることに安心し、大袈裟に表現すれば、日本の堅実な面を確認出来る素晴らしい機会なのです。

お薄席とお濃茶席でお正客を務めました。

東大をはじめ、早慶、御茶ノ水、津田などの大学の茶道部からのお客様と同席しました。
殆どが女子学生ですが、黒髪と清潔なヘアスタイルと黒っぽいスーツ姿ばかりでした。
年の頃は、二十歳前後のお嬢さんたちですから、孫の世代と言えます。
髪を染めた人も、流行りのヘアスタイルの人も、ミニスカートの人も、爪を飾り立てたチンドン屋のようなお嬢さんはひとりもいません。
お茶席は穏やかな雰囲気に満ちています。本当に落ち着けます。

若い人達と普通の自然な会話が交わせる、いまや不思議な世界にトリップさせてもらったようです。

平素は、軽口と親父ギャグで顰蹙をかうことが多いのですが、この日ばかりは、先輩らしく、父親や祖父の世代らしく振る舞います。

地味な硬い話を、若い人達とごく自然に交わせます。

今年も、青葉若葉の樹林に佇み、胸いっぱいに綺麗な空気を吸い込んだような、爽やかな心地よいひと時を過ごすことができました。

茶道部OBである、母校の後輩たちもたくさん参加してくれます。
現職の教授もいますし、名誉教授もいます。それぞれ、医学会、歯科医学会の重鎮たちです。名古屋や、四国からも毎年このお茶会を楽しみに出てくる人もいます。

「先輩、この歳にになって、あの時無理やり茶道部に引っ張り込まれたことを感謝しています」と言ってくれる人もいます。

何やかやと、年に一回の交流ができました。来年のお茶会に元気な身体で出席出来るように、明日から、益々健康な心身を保てるように創意工夫を凝らして生活しなければなりません。
これが、結構大変なのであります!
.19 2013 未分類 comment0 trackback0

巣鴨とげ抜き地蔵通り商店街

先日、不祝儀で、駒込の寺に行きました。巣鴨とげ抜き地蔵通り商店街のすぐ近くです。
久しぶりだったので、帰りに界隈に踏み入れてみました。
婆さんの原宿とは言い得て妙です。
元気な婆さんと脇をトボトボとペットのように歩く爺さんが大勢居ました。

耳が遠いせいもあろうが、話し声も大きい。怒鳴りあっているようでもあり、唾を飛ばしながら、噛み合わんばかりの話し方で、元気いっぱいの老老男女というより、老老女女で溢れかえっていました。その彼女たちの賑やかさと言ったら、お祭りさながらです。

ストリートに溢れるエネルギーは、原宿や表参道に負けてはいない。購買意欲も旺盛で、食欲も旺盛。表情も明るいし、立ち居振る舞いも若々しい。
3~4人連れが多いが、道いっぱいに広がり、「私らのストリートだも~ん」とばかりに天真爛漫!東京というのは懐が深い都市です。いろんな世代が生きていることを謳歌する街があります。

所作のテンポが似ている者が集まる処だから、見ていて危なげがない。
これが、若者が集まる処だと、ぶつかったり突き飛ばされかねないところですが、互いに譲り合いいたわり合っている風に見えます。阿吽の呼吸は見事です。

驚いたことがあります。
商店に並べられている衣類というか、ファッションが若いことです。
田舎の洋品店でよく目にする、ヒョウ柄やトラ柄とか、わけの分からない花柄のモノがあるには有りますが、総じて若々しいファッション用品がぶ陳列されていました。

今、シルバー産業は上手くいっていないそうです。「年寄りの冷や水」でも書きましたが、主観年齢が若いからです。
老人用に製作された洋服は老人に売れないのです。今の老人はそれほど馬鹿素直ではないのです。そのような服は、自分には年寄り過ぎて似合わないと思っているのです。

服装には、「自己提示」というものがあります。「自分はこういう人間なのです」と、「自分はこういう人間に見られたい」という気持ちの表現です。
服装で、職業的自己主張をする人もいますし、同じ仕事なのにちょっと違った身なりをすることで、彼らと俺は思想が違うのだと主張したりします。

かつて、アメリカ留学を終えて帰国した連中は、皆が皆そろって似合わない汚れたひげ面でした。いろんな理由が言われていましたが、あのひげ面には迷惑したものです。現代は、小太りで腹が出た男たちが、スーツ姿でデイバッグを背負っていたりします。
スーツがよれよれで、腹のあたりでシャツをはみ出させながらというみっともない姿でいい大人がデイバッグスタイルをしています。

これも、アメリカ留学を終えたばかりの学者か、アメリカ駐在を終えて、ニューヨーカーを見習ったデイバッグスタイルで、アメリカにいたことがあるんだぞという「自己提示」を、似合う似合わないを超えて行っているわけです。電車の中で邪魔で仕方がありませんが、本人にとって、アメリカ帰りの証明ですから何が何でもそのスタイルを崩しません。
困ったちゃんたちなのです。

話がそれましたが、「私はこんなに若いのよ」とか「まだまだ現役なのよ」と、高齢者たちは主張したいのです。ジーさんバーさん向けのビジネスは拒絶されています。その一方、アンチエイジングビジネスは伸びています。

服装はもちろん、化粧品、アクセサリーをはじめ、ライフスタイル全般のアンチエイジングビジネスは益々隆盛になるでしょう。サプリメントも売れ行き好調のようです。
元気な年寄りほど、アンチエイジングに向かっています。

年寄りを、年寄りの囲いの中に封じ込めて、そこをめがけてひと儲けしようなんて魂胆は、はなから拒絶されてしまっています。

「とげぬき地蔵通り商店街」を短時間でしたが観察して、現代の年寄りは侮れないし、取り扱いは難しいということを痛感しました。

「お前はどうしてる?」というご質問があれば、このようにお答えします。
年甲斐もなくと言われそうなファッションで、場違いと言われそうなところに出入りしています。昔の延長ですから、自分には違和感は全然(じぇんじぇん)ありません。
文字通り、「極楽とんぼジジー」を生きています。

その代り、歴年齢と主観年齢を近づけるために、サプリメントを使ったり、適度な運動をしたり、食生活にと、70歳になるころから涙ぐましい努力をしていますことを白状します。
.15 2013 未分類 comment0 trackback0

在宅 看取り

故人は数年、昭和医大藤が丘病院に通院しておられました。
6年前に、立ち眩みなどで循環器科を受診、以後定期的に検診を受けていました。昨年の11月に肺に水が溜まっている映像が認められ、諸種検査の結果ガンと診断されました。

家族から相談を受けた私は、次のようなアドバイスをしました。

・若い頃、さんざん入退院をくりかえしたので、もう病院には世話になりたくない、最期は、自宅で静かに死にたい、という、本人の意思を叶えてあげること。
・86歳の身体に外科的、化学的侵襲も放射線治療も行わない。
・がんであることは告知せず、折をみて、現代の医学では治せない病気のようだが、ベストを尽くすと医師から話してもらう。
・痛み対策には万全を期す。
・本人のQOLが保たれるよう家族は協力する。
・自動車の運転はやめさせる。
・その他は、好きなものを食べさせ、好きなところに行かせ、本人がしたいことを可能な限りさせる。
・早めに、訪問医と介護ケアの手配をしておくこと。
・ついでに、葬儀社と菩提寺にも連絡をしておくこと。
・現在の在宅医と大学病院の担当医との連絡が可能なようにルートを作っておく。
などでした。

3月末に、自宅近くの在宅医あてに詳しい報告書を作成していただき、自宅療養を開始されました。3月いっぱいは、本人の運転で通院して、4月は娘さんの運転で2度通院ののち、自宅療養になりました。

在宅医と看護師によるケアが始まると同時に、介護ケアも開始されました。
親切で、識見豊かな人格者の医師と、医師夫人であるベテラン看護師の采配のもと、迅速に全ての手配が整い、本人と家族の意思に沿った見事なケアが実行されました。
在宅医のフィロソフィーとアティテュードが家族の希望とかなりの近似を確認できたので、安心して全面的に任せることができたようです。

この夏は越せないだろうとの見立てでしたが、本人をよく知る私は、5月いっぱいが限度だろうとの観測を告げておきました。

こんなにも、現代のシステムは充実しているのかと、家族は感激しておりました。

多分、恵まれた幸運な事例だと思います。
主として疼痛対応が行なわれ、食事も経口のみ。
段階的に体力が落ちていき、約1ヶ月の自宅療養で、5月11日の早朝、家族も気づかぬうちに息をひきとられました。
穏やかな最期となり、本人の希望に沿うことができたのではないかと、遺された者も得心できたとのことでした。

家族と担当医、在宅医との間に、意思疎通のための仲介役や通訳が必要な場合もありましょう。

本人と家族の考え方が先に問われます。それに対して、医師の側に何ができるか、という順序になります。

医師に任せきりということになれば、医師の側はできるだけ長く生かそうとしますし、延命処置も施します。医療サイドのコントロール下に置かれます。それが医師の仕事であるし、使命なのですから。

今回の場合は、病院の医師にも、在宅の医師にも本人と家族の意思が十分に伝わりましたので、その中で十全なる処置が行われた例となりました。


.14 2013 未分類 comment0 trackback0

物忘れ

同年輩か7人集まり、「ノスタル爺(ジー)の会」を、私の幹事役で開催しました。70歳になった者から入会させる医者と歯科医の会です。私は、ナースや衛生士、それに栄養士も入れようと提案するのですが、さんざんナースに手こずってきた者もいますので実現していません。

家で古女房(なんて事を言ってはいけません。上野千鶴子大先生とそのご一統様に血祭りにあげられますよ!)が威張っているのに、この上、口うるさいナースの顔など見たくもないと言う者がいて、今のところ棚上げです。70歳を過ぎれば、多少うるさくてもたかがしれていますし、入れ歯でガタガタ言っても可愛もんじゃないかと思っていますので、そのうち、とびきり美人の元マドンナと言われたナースを紹介して、皆をソワソワさせてやろうと企んでいます。老いてなお衰えぬ美貌と艶に、ひっくり返るのじゃないかと愉しみです。

回数が重なると思い出話も少なくなります。
この会は、一度聞いた話は「それは前に聞いたよ」ということにしていますので、二度も三度も同じ話をくどくどと聞かされることはありません。
ですから、毎回、最近仕入れた新しい知識を披露してもらうことにしています。その知識は、硬派なものでも軟派なものでも両方OKです。
知的興味を持ち続けることは、脳の若さの維持に不可欠です。
「ノスタル爺会」の前日は、学会の前日みたいに緊張するよと、発表当番の者は申しています。
あとは自分の病気の話と子供や孫の話、不健康情報にグルメ情報の交換くらいで時間いっぱいになります。
各自の趣味は、囲碁将棋派、ゴルフ派、テニス派、温泉旅行派派、俳句と旅派など様々ですから、時折集まって馬鹿話と非馬鹿話に興じています。酒飲みをスタンダードとしていますので、下戸の私も盃一杯の酒とビールをコップに半分くらいは付き合います。私には宴席を楽しく明るくするのに酒は不要なのです。

今日は物忘れが酒の肴になりました。
専門的にはいろいろお説がありますが、記憶しようと意識しないものは忘れるのは当たり前です。
覚える価値と必要のあるものは忘れないものです。
それでも忘れるのは若い頃でも同じです。お互いに、此れには泣かされたはずです。それが今も起きているだけでしょう。

それに、覚えようとしても若い頃のように力が入っていない。
歳をとると、覚えたいが、別にそんなにしゃかりきになることもないではないかと、半歩引いているところがある。それじやあ忘れることが多くなっても仕方がない。
それで、最近記憶力が衰えたなどとボヤくのも的外れでしょう。
記憶の天才でもない限り、凡人が記憶に留めたいと思えば、学生時代にどんな努力をしたかを思い出すといいです。そんな努力もしないて、あ~そうか、と納得し覚えておこうと思っただけ。メモをとるでもなけれは、天井に貼ったりトイレに貼ったりの涙ぐましい努力もなしで、物忘れを嘆いている人は、自分のことをわかっていないのではないか。

最大限努力しても忘れてしまっていた若い頃を思い出せば、当時と今にさほどの差はないし、覚えておきたいと思えば記憶に留められる人は、ごく恵まれた少数の人だけです。

どんどん忘れましょう。不要なゴミのような記憶ならますます忘れましょう。
デッドストックのような記憶も早く捨ててしまいましょう。
脳内ゴミ屋敷よりは余程いいですよ。

かつて、覚えていたのに忘れてしまったことで、今現在必要になったことは、臆面も無くその時に新たに覚えましょう。

何気なく置いたモノを探し回るのは、若い者でも同じですよ。
昨日の夜、何を食べたのかを思い出せなくなってきたら、少し気にしましょう。
日記をつけていない人は、メモ程度で結構ですから、昨日食べたものを全て書き出してみましょう。一昨日に食べたものの記録なら更に良い。
結構、大変ですよ。昨日の分で充分ですから毎日続けてみてください。
.14 2013 未分類 comment0 trackback0

転倒した老人  電車の席取り

今日の午後、総武中央線御茶ノ水で危険なシーンに遭遇しました。
私は、出入口を直視できる位置に着席していました。電車が停車したとき、ドア越しに中央に立っている高齢の男性が見えました。「またか!」と内心不愉快になりました。

案の定、ドアが開くや否や、降車客をかき分けて突進するがごとく車内に入ってきました。電車が停車するときに、どこかの空席を見つけていたのでしょう。わき目も振らずその席へ突進しようとしたのです。

中央部から、うっかり降りそこないそうになった男性が大きなバッグを抱えてドアめがけて、これもまた突進してきました。折あしく、乗り込んできた老人に激しくぶつかり、老人は転倒し、男性はギリギリ降車できました。

転倒した老人は、運よく床に置いてあった高校生のスポーツバッグに頭部が当たり、クッションに支えられた構図になり、頭部の打撲は免れました。肩をしたたかに打ったようでしたから、空席までゆっくり歩かせて座らせました。ひびか骨折の恐れがあるので、早く受診を勧めておきました。

車内の、驚愕と動揺は収まり、いつもの光景に戻りました。老人はうつむいて悄然としておりましたが、己の行動を反省して悔いているのか、怒りを必死でこらえているのか遠くに立ちましたので判然としません。

私の観察したところによりますと、車内に突撃するような乗り方に男女の差はないようです。むしろ、小柄な女性のほうが要領よく人の脇の下をかいくぐって見事にすり抜け座席を確保しています。そして、顔全体から卑しさを発散させながら、本人は奥様然としてすまして着席しています。

このような男女に共通するパターンがあります。ホームを歩いたり、立って待っているときは弱々しげな所作をしています。高齢なのですから、これに嘘はないと思いたいのですが、突進するときの鋭さはまるで別人です。あのシャープなキレのある身体の運びにはびっくりさせられます。なかなかの役者だな、と舌を巻く次第です。

人の認知能力というか、情報処理能力には限界があります。成人が一度に覚えられるものの数は7つくらいです。平均ですよ。何でも目の前にあるものを一度に記憶できるものは7つくらいということです。

これは年をとってもあまり変わらないと言われます。人が情報処理に使えるリソース(資源)は、高齢者でも若い人と同じくらいなのです。
ただ、重要なのは、情報処理のスピードが加齢とともに遅くなっています。

歩いていても、自動車を運転していても、さまざまな情報を処理しながらということになるのですが、若いころは限られたリソースを上手に使って複数の情報を同時に処理しながら早く行動ができます。しかし、高齢者はそれが困難になります。

自動車の場合は、運転そのものにリソースが使われ、周囲の状況や人の流れなどに注意を払えなくなり、事故を起こしやすくなります。
歩行中も同じです。人にぶつかり、小さなくぼみに足をとられ転倒する。骨折する。入院する。足腰が弱る。急速に老化が進行する。寝たきりになる。・・・。

すべてのテンポを遅らせ、情報の処理をしっかりしながら所作や行動をしなければなりません。

電車には安全にゆっくり乗って、空いた席があれば座ればいいし、なければ立てばいいのです。ラッシュアワーに乗車するということは、立つことが前提です。

リュックを背負って大勢で満員電車に乗り込んでくるなら、朝の勤め人に遠慮するくらいにしなければなりません。そんな元気な老人なのに、ぐったり疲れて席に沈み込んでいる若い者に、「年寄りに席を譲れ」と言わんばかりの振る舞いは見苦しい。
もっと早いか、もっと遅いかの電車に乗って、老人集団の楽しいピクニックかお散歩会か知りませんが、愉しめばいいのです。

老人であることを嵩にきて卑しい計算をしたりしないことです。集団を組むと小学生並みかそれ以下になってしまっていることを自覚したいと思います。
.10 2013 未分類 comment0 trackback0

年寄りの冷や水  主観年齢の悲喜劇

「年寄りの冷や水」とは、老人が年甲斐もないことをすることを言います。
さて、この「冷や水」は、文字通り冷たい水のことですが、 隅田川の真ん中から、すくって来た水なのです。江戸時代の水売りが売っていた水のことです。夏になると「隅田川の水は真ん中が綺麗だ」といって、桶の水のまわりに杉の葉を立て、小さな氷片を浮かばせ、「冷や水やア、冷や水やア」と掛け声とともに売り歩いていたのです。                                           この「冷や水」は隅田川の水ですから、それほど清潔とはいえず、若者はともかくも、からだの抵抗力が弱った年寄りは、おなかをこわすことが多かったのです。 ”冷や水を飲んで息子に叱られる”と川柳によまれたように、年寄りが冷たい水を飲むなど、年甲斐もないこととされ、「年寄りの冷や水」という比喩が生まれたと言われています。

年齢には、主観年齢と歴年齢があります。
主観年齢がいろんなドラマというか、事件を生みます。

人は、子供の頃には実年齢より自分は大人だと感じる傾向があるのに対して、大人は逆に実年齢より自分は若いと感じていると言われています。女性に年齢を聞くのは失礼だというのは別次元の話です。

この実年齢と主観年齢に差は、高齢になるほど大きくなります。

そして、暦ではなく、主観で感じる年齢に沿って行動をするために、他者が知っている年齢や、想像する年齢より若い行動をとったり、喋り方をしたり、びっくりするようなファッションに身を固めたり、という行動をすることがあります。

一方で、社会には年齢規範というものがあります。
年齢規範とは、「子供は子供らしく」、「若者は若者らしく」、「年寄りは年寄りらしく」といもので、常識的に年齢にふさわしい行動や判断をする、依るべき基準のことを言います。

「いい歳をして」とか「大人げない」とか「今の若者は本当に爺くさい」とか、年齢規範というものがしっかりと社会に根付いています。

私が、若者向けのファッションショップに入って、周りから浮いてしまっていることに気が付かないか、気がついても知らん顔をして、試着ばかりか買ってしまい、その服を着てストリートに出ていく。ストリートでも、違和感が漂い空気を乱しまくっているのに平気な顔をしている場合のようです。

本人は、主観年齢で生きているのです。70歳を超えているのに、主観的には40歳くらいの気分なのです。多少フイットに難があっても、服の作りが悪いとは思うが、自分の身体が変形しているなんて露ほども思わない。

このまま、帰ればまだしも、足は若者たちが集まるライブハウスに向かう。軋む身体と左右のバランスが狂った身体でリズムをとっていると、我慢の限界を超えた若い女性から「爺さん気持ち悪いから帰って寝てなよ!」と諭されてやっと、「冷や水を飲んだ」と思い知らされる。

主観年齢大いに結構。元気に応じていくら自分は若いと思ってもいいでしょう。
ただ、身の置き場を誤ると惨めな状況になってしまいます。

かといって、すっかり恥じらいを投げ捨ててしまい、お化けのように塗りたくって仮装大会のような女性の群れに入って、気が狂うような目には合わない方がいいでしょう。

統計的には、70歳台の男性は19~20歳、女性は28歳ほど、若く感じているそうですから、今後ますます往生際の悪い男女が増加します。厄介な時代の到来が予想されます。

気持ちは、若く保っていたいものです。
かと言って、冷や水を飲んで身体を壊しても困る。
冷や水に手を出すくらいでないと老け込んでしまう。

人間は、幾つになっても「いかに生きるか」という命題からは逃れられないようです。
それも、もっともっと歳をとればすべてが朧になるのでしょうから、今のうちに大いなる勘違いを愉しんだ方がいいのかもしれません。

私の体重計にはBMI値などと肉体年齢というのが表示されます。どこか胡散臭い値ですが、今日も55歳と出ました。これを信じることにしています。そこから、主観的に5歳ほど若返って、50歳と思って生きています。

それにしても、以前も書きましたが、電車で席を譲られるのです。他者の目は厳しく冷静なものなのでしょうね。冷や水を背中に感じる昨今です。
.09 2013 未分類 comment0 trackback0

ベジタリアン レストラン

野菜を摂る、摂らねばならいということは、いまや強迫観念にまでなっているのが平均的日本人のようです。若い男がコンビニ弁当を手にしても、片方の手にはトマトジュースが握られているくらいです。大したものですよ。

私は、ビーガンレストランには恐れをなしていますが、ベジタリアンレストランに入ってみたいと予々(かねがね)、その機会を待っていました。

主義者の集う処は鬱陶しそう。菜食主義者たちの集う処は、厳しい掟を守る敬虔な信者の集まりのようで、私のような雑食者には侵しがたい神聖さを感じさせるものがあります。

アートシアター系の映画館やかつてのブレヒトなどを演し物とする新劇などを観に行った時と同じ嫌悪感、あるいは屈辱感や劣等感を覚えるのではないかと危惧していました。
あの、したり顔の独特の自信が発する強い臭気を伴うオーラを苦手とする私は、ベジタリアンやビーガンと聞いただけで怖気付いて居ました。

ある時、友人を拝み倒して同行してもらい、ベジタリアンレストランを経験してみました。
爺の処女体験という気持ちの悪いものではありますが。表参道に在る、クレヨンという店です。

訪れた店は地下一階でした。薄暗い階段を(夜でしたから!)地下に至ると秘密結社のようで、中は、ご禁制の神を崇める信徒たちの集会場のようにも見えましたが、入ってみると普通の営業店と何ら変わらず、ただ、野菜一点張りの料理をバイキングシステムで食べるだけの平凡なレストランでした。来客の皆さんは、あの文化村の映画館によく居る、面倒くさそうな客程の嫌みは無く、ごくナチュラルな感じでホッとしました。

若い女性、家族ずれ、白人の外国人などの客が多かったようです。

有機野菜ならいいというものじゃありません。有機栽培の野菜なら体内で発がん物質になるものを含んで居ますので、安心ではありません。それに、最近の農業事情を勘案すれば完全な有機無農薬栽培というのは難しいだろうと推察されます。
私は、有機野菜だろうと、普通のスーパーの野菜だろうとかまわないと思っています。旬の野菜なら何でも構わない方です。

ある有機野菜の会社から勧誘を何度も受けますが、会員になって取り寄せる気になりません。かつての左翼が、転向転向また転向、の一つの形態がエコ事業だとも言います。あれやこれやで、このようなエコ事業に今一つ飛びつけないものを感じてもいます。

さて、料理ですが、私の悪い癖で、空腹のときに食事をとりますので、まずは何でも構わないから腹に入れるというとこから始めますので、ベジタリアンレストランであることを最初のうちは頭から消えていました。

一段落したところで、料理全体を俯瞰してみますと、なるほど、野菜が手を変え、品を変えてバラエティー豊かに取り揃えられていました。

私の胃腸が発する「カチッという、もうすぐ満タンだよ」という警報音をその時は、目覚まし時計を止めるがごとくストップさせて食べ進みました。いくら食べても胃にもたれる感じが湧いて来ず、可成りな量を胃に収めてしまいました。牛蒡の味噌汁は4杯も飲んでしまいました。うまいのなんのって、最高でした。

やはり野菜ですね。それだけ胃に入れてもなぜか軽い感じで、いやな重苦しさは一切ありません。精神は穏やかで、他者を思いやる気さえしていました。安倍総理でいいや、という気にその時もなったくらいです。

食後しばらくたつと、わずかな空腹感が訪れました。
食後のこの安堵感、充実感、安心感はいったいどこから来るのか。
何回か訪れて、身体が、腹が納得するまで堪能してみたいと密かに肚を決めました。

「ノスタル爺(ジー)の会」というのがありますので、その面々を近いうちに誘ってみようと密かに企んでいます。接待高級ステーキや接待高級懐石漬けの現役時代を送り、高度成長期からバブルにかけて育った典型的な戦後企業貴族の面々がどう反応するか、その感想を聞きたいと思っています。

.07 2013 未分類 comment0 trackback0

男が男装するとき

紋付羽織袴は、見掛けはいい歳の男の端午の節句みたい。
高倉健や鶴田浩二のように着流しできめてみても、イマイチ様にならない。頭髪をそれらしく整えると、あとのつぶしがきかなくなる。

最近増加傾向にある、花火見物のカップルの男の浴衣姿をご存知でしょうか。
男の帯の位置が臍下ではなく、臍の上か、さらに上にある。
これじゃ、女装に近い。
さらに内股ときちゃあ、細身の体とあいまち、後ろ姿は女のふたり連れですよ。

普段着がジーンズなどのゆるいファッションの男が、ビシッとスーツに身を固めたときが男装したといえるのかもしれません。さらに、髭が美しく整えられていればポイントが上がるかもしれないが、見事な髭というのはあるようでない。

年中スーツ姿の男の男装とは何かと言われると中々難しい。
私は、衣服の前に肉体の男装が先の気がします。
拒食症さながらの貧弱な体つきでも、肩パットが上手く入れられ、姿勢さえよければ、いかにも服を着こなしているようで格好が良い。むしろ痩せているほうがシルエットは美しい。

しかし、服を脱げば、あばら骨が露出し腸骨が飛び出ているようではいささか格好が悪い。
男の男装はまず肉体からと言うのは、がっしりとした肉体が纏うものなら、洋装和装を問わずそれなりに様になり、「いつでも脱ぎますよ」という、漲る自信は、男装をさらに確たるものにすると思います。

過剰なマッチョは服の持ち味を消してしまう、貧弱な骨格では服が風になびき寒々しい。
私のような体型では、下腹のあたりに締まりがなく、取り繕い様がない。
余程仕立てを良くしてもらっても高が知れている。

ハリウッドのマッチョアクションスターのように、演技している時は、腹を引っ込め胸を膨らませて、セリフはアテレコというわけにも行きません。
と言うことは、最早、私などは、男装をする季節は過去のもの。単に、男モノを着るだけの男になってしまったのかもしれません。

そこで和服姿ということになりますが、面倒くさいのと、生活スタイルが和服姿には合わないわけですから、どこかでずっこけてしまう。
となると、男装する男と、女装する女の晴れやかな舞台を隅のほうで指を咥えて見物するしかない。

楽でいいやと開き直れば、此れも悪くはない。
さんざんそれなりにやってきたのだから、もう舞台の脇に引っ込むのもいいか。

気合を入れて突っ張らかって、びしっと決めたファッションで、洗練されたスマートな若者の舞台に上がらせてもらっても、自ずと発散する異質性が雰囲気に合わず居たたまれない屈辱を味あわされるとなれば、居心地のいい舞台で楽な呼吸をした方が、脳と身体のためというものです。

若さを追及するのも、若返りを期待するのも、若ぶった行為に及ぶのも、いいころ加減というものがありそうです。

.07 2013 未分類 comment0 trackback0

ネイルとド派手ランジェリーの意味

お花畑のような、宝石箱のような、とみに華やかさを増している女性の爪。昔のクラブなどの玄人筋のレベルをはるかに超えた絢爛さが、普通の女性の爪を彩っています。何故そこまでやるのか、と古くなった硬い頭の御仁には腹立たしくさえ感じるかもしれません。

さらに、ストリートを歩いているだけで目にはいる、あのド派手なランジェリーは一体誰が使用するのかと気にならないと言ったら、嘘の気配が濃厚に漂うくらいに、日常的な光景になってしまいました。42歳のバリバリの事務系キャリア女性に忌憚なく疑問をぶつけたことがあります。

彼女は、職場ではきっちりとしたパンツスーツで決めているそうです。胸の谷間をチラリと見せたり、前屈みになるとバストが見える様な下等(彼女の言)なファッションは採用しない。そんなもので男の気を引いてみたり、男をからかったりはしない。
でも、硬い仕事に硬いファッションでは自分の女が死んでしまう恐れがあり、男を寄せ付けない自分ではないことを発信はしたい。

また、「女装している」自分をしっかり意識したい。
キーボードをタッチする爪の華やかさは、自分の仕事を女装ファッションが精神的にほどよく中和してくれていることを認識できるということらしい。

ネイルサロンは、格好の癒しの場であり、身体と精神の変身の場である。自分は、ランジェリーは特に凝ってはいない。しかし、職業を明らかにする記号的な制服というお仕着せを強いられる看護師や女性ポリスとか、学校教師などの堅気な職業に求められる自制的ファッションの女性たちは、ド派手なランジェリーを身に着けることは、「女装している」自分を密かに愉しみ、それなりに精神のバランスをとっているのではないかとのことでした。

なるほど、女性が女装する。
ユニセックス風なファッションが氾濫する現代に、女性が女装するということがよく分かる気がします。

決めどきの勝負服であったり、自分の女性性を密かに愉しみ、バランスをとるための「女装」ができる女性のほうが男性より、豊かな感性を人生の中で大切にしているのでしょう。
それに比して、男達は平坦なものですね。
男優位の世の中が長く続いたおかげで、大した努力もしなくて済んだし、意識する必要もなく、「これが男だ」という記号を踏襲して来ただけだし、男のファッションなんて無用のものだと意固地になっている輩が多いですね。

聞くところによると、日本の若者のファッションは世界で最高だと外国人の評価があるらしい。体型もよくなったし、お洒落が様になってきたということなのでしょう。特に、ヘアスタイルにおいて突出しているとのこと。都心のしかるべきスポットでのパーティなどでの若い者の挙措振る舞いも実に洗練されたものらしい。

明らかに、男も女も変化しています。
男らしくとか、堅気の女らしくという基準が変化しているのです。
私も、自分の娘の爪をみても腹が立たなくなりましたし、嫁たちの佇まいが気にならなくなりました。むしろ、いい意味での関心は持つようになりました。
こうなると、最近の男と女の関係の変化が気になりますが、別稿にします。
.07 2013 未分類 comment0 trackback0

絆のB面 連帯の迷惑 路上の邪魔者

 阪神大震災の時、神戸市役所は行政の公平性から、仮設住宅をくじ引きで割り当てました。その結果、地域コミュニティーがバラバラになりました。これが原因で、孤独死がたくさん生じました。

次の、中越地震の時は、この教訓から学んだ。被災地が農山村部でしたから、コミュニティーを解体しないでそのまま仮設住宅に移動させました。それ故か、阪神大震災の時よりは孤独死は減りました。

3.11では、前2者の学習からさらに改善されたのですが、被災地が東北であるということが注目されるところです。地縁・血縁が強いところです。いい面もあれば悪い面もあることが如実に顕になったようです。

旧来の村の寄合の権力構造がそのまんま仮設に持ち込まれ、家父長制が特に顕著なところは「女は引っ込んでいろ」型のシステムが働いたようです。各所帯ごとに間仕切りができ、不完全ながらもフプライバシーを守れるようにと持ち込まれた間仕切り用ダンボールが、長(オサ)の「痩せ鶴の一声」で無駄になったところがあります。

可哀想に、女性は着替えに苦労する避難生活を強いられ、日常を不必要に干渉される不自由な生活を強いられてもいるようです。地縁・血縁の強さも、距離感をなくすと異様に窮屈さが強調されるようです。

絆は、「縛りあい」とも言われます。

絆は内外に強烈なパワーを発します。内には、縛りあい、外には集団の圧力です。
街を歩いていても日々この圧力と、その集団の外への鈍感さには泣かされています。

狭い歩道を3人や4人の横一列の連帯と絆の御一行様です。他の歩行者のことなど眼中にないようです。直列の電池が並んでいるようです。列から外れると、絆の電流が途絶えて孤独を感ずるのでしょうか。何が何でも「離れまいぞ」とばかりにしがみついています。

たまたま、前方からの圧力で一人が離れても、すぐさま小走りで並びに戻り、首を前に倒し90度友のほうに捩じり、そのまま垂直方向に何度も降って、話に相槌をうっている。いじらしいやらあほらしいやらですが、当人たちは必死に絆が切れないように頑張っている模様です。

この現象は、老若男女みな同じです。
強いて言えば、中年の男女に顕著な傾向があるように見えます。ひとえに、若いころからの刷り込みというのか、脳に居着いてしまって、本能化した現象のようです。

「自分とは違う考えの者よりも、自分と同じ考えを持つ者を尊重するようにと若者に教え込むと、その若者は確実に駄目な人間になる。同じ意味で、群れること、頼ること、相手に同調することを上等な価値として教え込むと、若者はたちまち自己を失い、どうしようもない人間が出来上がってしまう」という文章をどこかで読んだ覚えがあります。

このように、家庭や、学校や、地域や、職場で、「絆や連帯、同調と服従」を気づかぬ内も含めて血肉化されると、路上でも、電車内でも、迷惑至極な人の群れの障害からは逃れられない。

今の若者の、そのような現象を見るにつけ、今のジーさんバーさん、オジサンオバさんたちの予備軍は確実に育っているようです。

さらに、権威に弱い御し易い国民ということであれば、もう国家の思う壺。いかようにも誘導することは簡単。

TVコメンテーターすら権威の一つであるという異常さは異常です。
責任はとりたくないが、権威者ぶりたい人たちの言説に振り回される事態はしばらく続くでしょう。

このブログのテーマである健康にしても全く同じです。
言いたい放題、書きたい放題の様相を呈していますから、国民が何をどのように行ったらいいのか皆目見当がつかなくなっているようです。

私も例外ではありません。多少斜めに見る傾向のあるカテゴリーに属しているところがありますが、こと、健康に関しては信じるに足る相手がなかなか見つかりません。

及ばずながら、自分で勉強して、自分の身体で人体実験を重ねながら試行錯誤をしています。うまくいっているような点もあり、そうではないこともあります。
一回口に入れたら箸を置き、30回以上咬んで嚥下する。また箸をとり・・なんてことが長続きするはずがない。こんなことを口走る人は自分ではやっているはずがない。もし、一年以上も続いていたら、その人はどこか変な人としか思えません。
.04 2013 未分類 comment0 trackback0

腹七分 腹八分の曖昧さ 

腹六分が健康にいいと説く医者もいるし、一日一食がいいと説く医者もいる。
どの年齢の相手に言っているのか、どのような健康状態の人に説いているのか判断に苦しみます。
「しっかり勉強しなさい」とか、「がんばりなさい」としか言わない教育熱心風の親や教師のような言いようのようです。

偏差値をあまり信用はしていませんが、偏差値でいえば、全員が全科目の偏差値が3のクラスの授業計画のようです。これでは、4や5の生徒には物足りず、かえって実力ダウンの授業になります。1や2の生徒には理解不十分の切り捨てにもなってしまう授業計画になります。

思い返せば、私たちの受験の頃は、英国数理の8科目か9科目の試験科目がありました。自分が得意な学科と不得意な学科がはっきりしていますから、時間というリソースをうまく配分しながらなんとか合格点にまで高めるべく遣り繰りしたものです。

人体も似ています。タンパクの代謝、糖の代謝、脂肪の代謝のすべてが満点に近く順調とは限りません。酵素を働かせる補酵素としてのビタミンの働きもすべてが理想的にはいきません。うっかりしていると、低たんぱく症になったり、脂肪や糖質が不足の症状になったりします。それぞれの偏差値にバラツキがあります。

あらゆる栄養素を含む食品を「まんべんなく」食べて、しかも腹七分では、ヒトによっては栄養失調になりかねません。あるいは、あるビタミンが足りなくて代謝がうまくいかず、それが肝臓なり、腎臓なり、骨の状態を悪くすることになります。

それでも、医者や栄養士たちは、何かを言わなくてはならず、TVに出る教育問題を問われる教育者や教育評論家のような言説になるのです。厚労省もまたしかりです。

科学的根拠が明確でないことを言明させられることはとてもつらいし、難しいことです。

エビデンスということが厳しく問われます。エビデンスを明確にできるものはできますし、明確にできないものはできません。明確にできないからと言って無視できない現象も多々あります。エビデンスを無理やり、意図的に作り上げることも行われていますが、何をかいわんやです。

人の能力や、人体の代謝の問題はとても難しい問題です。

専門家というのは哀しいものです。言えないことを、あたかも明白であるかのごとく言わなくてはならないと思っているのです。宿命的思い上がりです。

薬の治療効果のエビデンスも疑ってかからなくてはならないことがたくさんあります。一応多数決で通過した法案のようなもので、不備だらけと言ってよいでしょう。民主主義的多数決の欠陥はすでに露呈していますね。

ヒト毎の個体差が大きいうえに、健康や病気も、健康のための栄養学も、治療のための栄養学も、病気予防のための栄養摂取法も、まだまだ手さぐりというのが実態でしょう。

検査診断の機器の発達や治療のための各種機器の発達が医学の科学的証明にはなりません。
医学は、分子生物学などとの連携によって、マクロからミクロの精度を求められるようになってきています。

この診断方法で、この検査でこの病名が確定診断されたから、「切る(手術)・焼く(放射線など)・毒(薬や抗がん剤など)」のどれかにしましょうかでは、人間という自然の破壊にしかならないことも多いのです。
これでは、人は幸せになれません。

国中医者だらけになっても足りないくらいですが、現実的ではありません。人体へのアプローチのパラダイムの転換が求められます。

人体は、60兆の細胞(若い時)で構成され、物理化学的な代謝で生きています。そこに、食事を通して栄養が供給されて生命が営まれています。
人は、生まれてから成長過程はもとより、成人になっても、老人になっても、可能な限りそのために必要な知識を持つことが大切です。

医療費で国家の財政がひっ迫するようではいけません。少し時間はかかりますが、その時代に普遍的な食生活の知識を国民みんなに持ってもらうことが肝要だと思います。健康に生きるということに必要な知識をもってもらい実践してもらうことが、国や医療者や教育者の仕事であると思います。
.03 2013 未分類 comment0 trackback0

「食」の掟破り

 私は自分の身体に合った、自分の身体に必要と思われる食事を自分で作っています。
朝は、定番のものを摂っていますし、夕食は、食材は豊富ですが調理は簡単です。昼は、小さな物入れに、煎り大豆と丹波黒しぼり豆(甘い)とアーモンドを入れています。折に触れ、豆を食べるのが昼食です。

朝から夜まで、自分の身体にいいと思われるものばかりを食べています。毎日、毎日、人間性だの道徳性だのを説く聖人(似非ですよ)のような生活をしている褒美とは言いませんが、月に一回か二回は非真面目、非道徳的「食」をすることにしています。そうすることで、心身のうち、心の帳尻を合わせています。

例えれば、大学時代に書斎を出て、私鉄駅前の安バーかスナックに通い詰めて頃。あるいは、中年の頃、家庭を顧みずに銀座のクラブに通い詰めたころに似ています。

前者では、当時の安物の国産化粧品と香水の、つまり脂粉の香りというものを嗅がされたり、両切りピースの強力な紫煙を吹きかけられながら、嘘と虚栄に塗り固められた身の上話、それも擦り切れたレコードに記録されたような話に引き込まれていた頃のようなものです。話に辻褄の合わないことに気がついても、ま~、こんなことがあってもいいではないかと寛大になっていた若い、いい加減な頃を思い出します。それにしても、酔わされましたね~、新派風の作り話に!

後者では、洗練された衣装に身を包み、高級化粧品と外国の高価な香水を鼻先でかがされながら、詐話師もかくやと思わせる練達のセリフ回しで思わず我を忘れるほどの高度なテクニックを駆使した粉飾だらけの身の上話に、鼻の下を長くしていた頃に似ています。イミテーションとはいえ、豪華絢爛な装飾品と、大胆に胸元がカットされたドレスに冷静な判断力を奪い取られて、全身が揺らぎまくっていた頃を思い出します。

「食」の掟破りは、私ももう歳ですから、どうせ騙されるなら「高級」を錯覚させてくれるほうを選んでおります。と申しますのは、使われる食材に対するストレスの度合いが高い方は避けるようにしているからです。

どうせ、出自不明の食材なら、その出自を告げてくれる店のほうが安心度が高いからです。かと言って、TV的メジャー店ではありませんが、高級クラブと同じ程度にしか信用はしません。それと、こちらの方は、不必要な、無駄と思われるほどの厚化粧で複雑怪奇な手の入れように辟易する点は納得できませんが、どこかで妥協しないと食べられません。

普段の自分の料理が、すっぴんに口紅程度のものですから、時にはどぎついギトギトの厚化粧ながら、暗がりで見れば人生を狂わせたくなるような妖艶なエロスが匂い立つような、「美しい!」と溜息をつくような料理を胃に送り込みたいからです。

かくして今日も上手に騙され、そのテクニックの上手さに感心し、芸術的な域にまで高められた美意識に圧倒されました。やはり、食べてもらってナンボのプロの腕にはかないません。現実離れをしたファンタジーに酔わせてくれるシナリオと演出には脱帽ですね。

明日からは再び自分で自分に良いと信じる食材を薄化粧で、さながらNHK朝ドラの主人公の素人女優のような幼稚で稚拙な手料理を黙々と摂りつづけます。
静岡県の田舎で、土地の山の幸・海の幸を、素朴に料理をするイメージで作っています。

胃に送り込んでしまえば、あとは、分子生物学のレベル、DNAのレベルのミクロの世界ですから、自分が願うとおりに消化吸収され、分解や合成が行われているのかは定かではありません。そこがまた、ロマンなのです。自作自演のドラマですよ。
.02 2013 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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