喪った緑陰

今夏こよなく愛した柳の大木を、先の台風で喪ってしまった。夏の暑い日、天を覆う巨大な日傘のごとく、熱射を遮り心地よい緑陰を与えてくれた柳の木であった。

猛暑に襲われながらも世は節電の最中。外出したくない休日もある。かといって、節電とは関係なく一日中クーラーの冷気の中に身を置く気にはなれない。私は、週刊誌か月刊誌を小脇に公園に出かけるのが好きだ。

住まいから約1000歩に位置する公園は、距離といい規模といい適度なあつらえ向きの公園である。朝は、45分間のウオーキングのあとこの公園に立ち寄り、鉄棒を使って約30分のストレッチを行う。その後、三々五々集まり来る老若男女ならぬ老々男女たちにまじり15分のラジオ体操をする。この体操の後15分くらいのウオーキングを行い一日が始まるという毎日を繰り返している。

15号台風の襲来した当日の朝はいつものとおりの日課をこなした。そのときはもちろん何事もなくいつの光景だった。その日の午後から風雨が強まり、帰宅難民(困難者)を報じるトーンを上げたアナウンサーの興奮した叫びを苦い思いで聴いていた。渋谷の歩車道を覆う大きな並木の一本が倒れたさまをみながら、都内でも相当数の倒木があるだろと思った。この近くでも倒木が起きるだろうと、ふと頭をかすめた。

台風一過の翌日は天気も回復していたので、いつものごとく日課をこなすべく自宅を出て、ウオーキングを始めた。案の定、並木が数本傾いていた。マンションの周囲に植えられてまだ日が浅いと見える若い植木が、地に根を延ばしきれないうちになぎ倒されたようだった。この界隈は、樹齢数百年という巨木が至る所にその威容を誇り、区の保護木に指定されているものも多い。それらはいずれも「何かあったのかい?」と言わんばかりの堂々たる姿である。

保護木は、柵に囲まれ注連縄を施されとても大事にされている。毎朝見上げる私を見下ろし「人間とは小さいものよの~」とでも言いたげな風情である。これら巨木に掌を当てて、そこはかとなく伝わってくる木肌の暖かさを感じ、木の脈を感じて神聖な気持ちにさせてもらっている。なんとなく神性を感じる私は日本人であることを毎朝意識させられている。

さて、いつものとおり件の公園に着いてみると何やら人だかりがしていた。遠目にも黄色いテープが目に入り、その周りに人だかりがしていた。いかにも事件の現場の様相を呈していた。さらに近づいてみると、例の柳の巨木が痛々しく横たわっていた。あの柳の木が倒れたのだと認識するまでしばらく時間がかかった。

近隣の居住者の通報があったのであろう、その日のうちに区の係が駆けつけ周囲を囲い危険を回避すべく処置をしたのであろう。危険も何もないはずだが、脇にあった砂場の鉄柵が圧し曲げられているので、その危険回避であろうが、何と過保護な処置であることかと少しばかり驚いた。

テープをくぐって近づいてみると、地面のところでポッキリと折れていた。さらによく注視してみると、大きな根の半分ほどに病巣が在った。つまり、この巨木はすでに何年も病んでいたということである。この木の西側には民家が迫っているので、東側に枝葉が茂り、重心は東側に偏り不安定なバランスを保っていた。その風姿に風情があり、この巨木の魅力を増していた。しかし、病んでいたとは到底思えないほどの艶っぽい柳葉であったのに。

その翌日の朝、例によって公園に到着してみると、その倒木は跡形もなく片付けられていた。土を捲ったわけでもなく、きれいにぽっきり折れていたので残りの根は埋め込みにしたのであろう地面もきれいに整地されていて、ここにあの巨木があったとは思えないほどの処置が施されていた。

この巨木の木陰のベンチに座った昼下がり、心地よい薫風を受けながら月刊誌を広げて間もなくウトウトした日が懐かしい。気が付くと雑誌は足元に滑り落ち、風の向きに次第で葉先が頬をなでることがある。そのたびに苦笑しながら雑誌を拾い上げ、無償で与えられる緑陰を愉しみ、静謐な豊かなひと時を与えてくれた柳の巨木に感謝と、哀悼の意を十分にささげた。

今朝は、既に存在しない柳の巨木の思い出をそれぞれの頭の中に去来させながら、いつのごとく集まりラジオ体操をし、散じていった。巨木から見ればまことに小さな生き物である我々の営みもまた、健気なものである。生者必滅の条理の中で精いっぱい生きるものの姿は美しくもあり気高くもあり、どことなく滑稽である。

自然保護だの環境保全だのと言って、自然に無用な手を加える人間たちも、自然が許してくれているときが安穏な生活ができているということを再認識しなければなるまい。自然を人間がコントロールするかのごとき思い上がりはやめるべきであろう。

自然保護も環境保全も、自然とともにあり、自然の自然さに思いを致さなければ、手ひどい報復を受けるのであろう。財務省的、国土交通省的知恵ではない知恵が求められていることを思い知った、「柳の巨木倒れる」の事件であった。
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.24 2011 未分類 comment1 trackback0

嗤ってしまうほかはない

民主党政治のことである。
増税のことも、無駄の廃止のことも、政治主導のことも、すべてが公約違反である。就中、増税の事は看過できないことである。

政権担当の4年間は増税は絶対にしない。これは民主党の主要な公約であった。国民の信任がなければ増税はしないは菅政権の約束であった。しかるに、野田政権は平然と増税路線をひた走っている。

政治主導は全面降伏し、以前の状態に戻ってしまった。天下り禁止論議は雲散霧消の体である。むしろ、強化された感がある。いまや、歌舞伎顔の肥満型トーキングマシーンは霞が関の脚本どおりに喋り、振り付けどおりに演技する単なる人形と化してしまった。

否、人形と化してしまったのではない。官僚と財界の人形として振る舞うならば、自分でも総理が務まると確信した確信犯である。民主党の主要な公約は破棄し、平然と国民を裏切っている自覚すらない。

次の選挙で民主党単独の勝利はありえない。総理をやるのは今しかない。財務省を中心とした官僚は全面的に見方をしてくれる。この機を逃してはならないが、野田氏の本音ではないか。

国連本部で開かれた原子力安全に関するハイレベル会合での演説には呆れ返ってしまった。

国内で事前に、細野環境大臣(原発事故の収束及び再発防止担当)によって、原子炉の冷温停止の年内達成のアナウンスを事前にさせておいて、国連において同様のことを言明した。

「事故は着実に収束に向かっている」と強調し、「原子炉の冷温停止状態について、年内をめどに達成すべく全力を挙げている」と言明した。つまり、事故の年内収束は国際公約となってしまった。また、「事故のすべてを迅速かつ正確に国際社会に開示する」とも述べ、「原子力利用を模索する国々の関心に応える」ことも表明した。

1オバマ4内閣総理大臣というほど、日本の総理は変わっている。次に会うのは野田総理とは限らない。どこまで信用できるのやらというのが相手の本音である。トラストミーは鳩山氏が喋れる英語力の限界なのでありその意味するものではなかった負の実績がある。

野田氏は日本語でとおしたようだが、この日本語は日本国内でも意味不明の「霞が関言語」であり、野田発言の報道を読むとどのようにも解釈できるいつもの表現になっている。どのように通訳されその英語がいかように解釈されたかは不明であるが、おそらく相手をいらだたせる内容だったのではないか。さらに、野田氏の愚鈍な印象は怒りさえ感じさせたのではなかろうかと心配である。

官僚の原稿どおりに国際舞台で表明する。それが実行されなくても官僚の言い訳原稿をまた喋る。あとは、両国高官会議で官僚に適当にやってもらう。これまでの慣行がこれである。

原発事故という戦争にすら匹敵する重大事故に遭遇した日本国の総理大臣の演説がこれでは・・つまり、哲学的倫理的レベルについては何も言及せず、隠ぺい体質を見抜いている諸外国の代表の前で曖昧な収束の見通しを言明し、原発ビジネスの継続を表明するに至っては、ますます日本への信頼の低下はその度合いを増したとしか思えない。

米国には、オバマ氏にはもうゆとりはない。尻に火がついている状態であることはオバマ氏の焦燥感あふれる野田氏への詰問に近い交渉態度に出ている。表立っては、両首脳は穏やかに話を交わし、裏の高官会議で厳しく日本を追及するのが従来の実態であったが、今回は、大統領自らが直接強談判であった。

おそらく、ころころ変わる日本の総理大臣なんか単なる政府高官のレベルだとの認識なのかもしれない。

勝財務次官と野田総理の二人羽織の拙い芸を上野鈴本で観るのは我慢もできるが、国際舞台ともなれば到底耐えられない。

1オバマ5総理でも構わない。駄目なものは早急に取り換えなければならない。いや、それよりも一刻も早い解散総選挙が必要である。国会議員には優秀な人材も少なからず存在している。

政治家は日本の頭脳である。「どじょう」云々を批判している場合ではない。経済の国際的危機を目前にし、近隣諸国による領土的危機にある日本は急ぎ英知を結集した政治体制を確立しなければならない。

急ぎ、解散総選挙を要求する
.23 2011 未分類 comment0 trackback0

遺憾、遺憾で国滅ぶ

本日(2011/09/17)の朝日新聞朝刊(オピニオン欄・耕論)で「政治家と言葉」が取り上げられ、渋谷陽一氏と和合亮一氏がそれぞれ論じている。両者ともに説得性の高い内容を論じており、朝日の記事としては久しぶりに読ませてくれる内容であった。

昨今の国会論戦を視聴していて相変わらずなのが「原稿の棒読み」である。質疑応答の両者がともに原稿に目を落とし、語尾の部分だけ頭をあげて聴衆を見る。その原稿は官僚や側近が書き上げたものであり、官僚による原稿は各省が持ち寄ったものをつなぎ合わせたものである。

「肉体性を取り戻そう」「「実感を込めよ」という渋谷氏と和合氏の説に全く同感であり、筆者は「失言を恐れるな」と言いたい。

「遺憾」という言葉がある。政治家が遣う「遺憾」という言葉に疑問を覚えて久しい。若い頃は「なにが遺憾だ!偉そうに!」と反発を感じたものである。「いかん」とはっきり言ったらどうだと、活字に怒り、TVなどでの発言に罵声を浴びせたい心境であった。
 
総理大臣をはじめ各閣僚が発する永田町の定型句である「遺憾に思う」「遺憾の意を相手国に伝えた」について考えてみたい。

辞書によれば、
遺憾・・十分な結果が得られず、心残りがする様子。
遺憾に存じます・・・相手の期待に背いた時の言い方。
万遺憾なきを期されたい・・一つも手落ちがないように注意してほしい
遺憾千万・・(釈明・軽い非難)の意を表明する。
遺憾なく・・「実力が遺憾なく発揮された」・・後になって悔やまれるような点を何一つ
      残すことなくなされる様子。(以上、新明解国語辞典)

遺憾・・思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒。遺憾の意を表する。遺憾に思う
遺憾千万・・物事が思い通りにいかず、この上なく残念に思う。
遺憾無く・・申し分なく。十分に。「実力を遺憾なく発揮する」(以上、広辞苑)

遺憾・・思っているようにならなくて心残りであること。残念な、そのさま。
   「このような結果になり、まことに遺憾に存じます」
「遺憾の意を表する」・・残念であるという気持ちを表す。[自分の行動を釈明して詫びる場合にも、相手の行動に対して非難の気持ちを表す場合にも用いる]
「遺憾なきを期する」(以上、大辞林)

つまり、「遺憾に思う」や「遺憾の意を相手国に表明した」では「貴国のこのたびの行為は、我が国の領土・領空・領海にたいする重大な侵犯である。よって、断固抗議するとともにしかるべき対抗処置をとる」という強い決意表明にはなっていない。

その大臣の意思表明がきっかけとなって、憲法論議が触発されることをそれるが故の弱気な言表なのなか、相手国から印象的にマークされることを恐れるが故なのか、官僚から「遺憾である」という以上の表現を避けるように抑制されているのか定かではない。

憲法問題の紛糾の当事者になりたくない、「言葉狩り」にあって、せっかく獲得した大臣の座を追われたくない。外務省や経産省そして防衛省の官僚の方針を侵犯してはならない、などの思惑が先行しているようだ。つまり、一歩引いた無責任な言表である。責任回避である。

所管大臣のかくのごとき弱気にして曖昧な言表がここ数十年続いている間に、竹島も尖閣も北方四島の問題が極めて深刻な状況に陥ってしまった。

日米安保において、竹島と北方四島は除外されているし、尖閣は日本が実効支配していない限り対象にならないことは、アメリカから明確に表明されている。

官僚に「国土防衛」の責任はないはずである。官僚に「政治的結果」の責任はないはずである。現行憲法下ではそれらはひとえに政治家の双肩にかかっているはずである。
政治家が諸外国に「官僚答弁」をすることの滑稽さに国民の方があきれ返っている。諸外国が日本の政治家を軽蔑し、嘲笑して当然である。

「遺憾に思う」では「遺憾という言葉で表明したかった意志」を「遺憾なく発揮している」とは言えないのではないだろうか。

古色蒼然とした古諺と化してしまった「遺憾に思う」などと言表し、苦渋を滲ませた顔の表情を作ることで、総理も外務大臣も防衛大臣も、もはや務まらない危機に臨場していることを自覚してもらいたい。そのような臭い芸では間に合わない事態になっている。

大臣の任命は適材適所であると野田総理は表明した。所管事項に無知で、官僚が自在に操りやすい大臣を任命したということは、「官僚にとって適材適所の大臣」であるということだ。このような学芸会で済まされない事態が急迫している昨今である。

しかるべき「言葉」を発し、適切な行動がとれるプロの政治家たちによる強い日本の再生が急務であると、心から叫びたい。






 
.17 2011 未分類 comment0 trackback0

名街頭演説家の限界

 街頭演説の名手、国会演説の名手に非ず、が立証された。野田総理の所信表明演説のことである。ほぼ100%が官僚の作文ではないかと思われる内容だった。

そもそも、街頭演説の内容を聞く人は少ない。筆者の乗降する駅頭でも、あの中田宏氏が毎朝、立ち演説を行っていた。朝は、「いってらっしゃいませ」「お気をつけて」、夕方は、「お疲れ様でした」と、お節介な車掌のような声をかけることが主たる目的としか思えなかった。なかには喜ぶ人もいるからだ。一票に直結する確率も高かったであろう。

街頭演説は、対人赤面恐怖症を治し声を鍛える。無関心な人々に向かって訴え続け、時には心無い罵倒にも耐える強靭な精神を鍛えることができる。話す内容ではない。雨の日も風の日も継続することが力となる。顔を覚えてもらい、それこそ「正心誠意(勝海舟)」を選挙民に印象付けることが目的である。

先に行われた代表選の演説は、対立政党の議員がいるわけではない。国民の心を動かす必要はない。完全に身内の中での人気投票みたいなものである。

それには、「あいだみつを」の詩はまことに適当であった。「解散は致しません」はさらに民主党議員の心を揺さぶった。小心翼々たる新人議員と選挙に弱い議員たちは、現在の地位と収入の安定以外に考えていることはないのだから。

前原氏らの他の候補者があまりにもひどかったといういわば敵失にも救われたが、財務省を筆頭とするオール霞が関と財界がバックについているということが、本人に自信をつけさしたし、泡沫議員たちにとっては信頼に足るリーダーだと映った。

あの、政治主導を掲げ公務員改革を唱道した民主党議員たちが、である。

「ノーサイドにしましょう、もう」とは笑止千万。ラグビーではないのだ、政治は。小学性の教室の大掃除でもなければ、紅白の運動会が終わった後ではないのだ、政治は。政治理念や政策を闘わせ切磋琢磨するのが政治である。「もう、敵も味方もありません。みんなで一丸となって仲良くやりましょう」とは言いも言ったり。ミーハー蓮舫ちゃんあたりが感涙にむせんで慟哭するだろうが、バカなことを言っちゃいけない。

「全員野球」とはさらに愚かな表現である。みんな並んでゴールのテープを切りましょうといった悪しき平等主義者が声を出しているようだ。いうまでもなく、全員の中から選ばれた9人が野球をやるのであって、選ばれるために艱難辛苦を乗り越え、血を吐く努力をするものだ。練習や親善試合ではないのである。何を考えているのだろう、このような言説を吐く人は。

マスコミの言葉狩りにあった鉢呂氏を切り捨てたし手法は、メール事件で故永田氏を切り捨てたのと同じである。国民より、「わが身が大事」の正体が見えてくる。

適材適所の内閣の布陣?冗談も休み休みにしてもらいたい。素人ばかりの「不適材不適所」のひな形のような組閣しかできなかった。グループ均衡内閣を、適材適所とは強心臓でなければ無知蒙昧としか言いようがない。

この内閣が長く続けば日本はさらに沈没の危機が迫り、短命ならばもっと危機は深刻さを増す。どうにもならない蟻地獄に落ちたようだ。

前総務大臣の片山氏が、「野田さんは、官僚の書いた答弁書を読んでばかりいた」とバラした。昨日の首相所信演説も官僚の作文なのであろう。当たり障りのない、だれが総理になっても同じ話ができる内容だった。

具体的なことには踏み込まないこと。大まかなことさえ言ってくれれば、あとは官僚がやりたいようにやれる。その使命を果たしただけの演説であった。

はやく、国民が安心できる総理が出現しないものか。総理選出の母集団を考えると期待はできない。

国民の意識レベルの低さに言及しなければ嘘になる。選挙制度にひと工夫が要る。さらに、日本の中流層ともいうべき大企業労働者の政治活動が活発にならなければ日本の政治は変わらない。この層にある人々の政治意識にかかっているバリアーを除去し、彼ら彼女らが政治に興味と感心を抱くようになり投票行動に出るようになる必要がある。

利権の獲得こそが政治力とばかりにそればかりに専心した、いわゆるベテラン政治家といわれる老害政治家の排除が肝要であろう。

若い政治家たちを縛っている呪縛から解放すれば、日本の政治家にもなかなかの人材が存在していることが前景化するであろう。

可能な限り有害なファクターを除染することである。そうすれば、現状では「バカなのだ(野田)」が「すばらしいのだ(野田)」に大変身するかもしれないではないか。
.14 2011 未分類 comment0 trackback0

鉢呂氏記者会見場での暴言記者

脱原発の大臣ではない枝野氏を迎えた記者クラブは、柔らかい質問に終始した。鉢呂前大臣の辞任会見で鬼の首でも取ったようにヤクザ言葉で答を迫っていた記者も、この日は無言だった。筆者は件の記者に名刺交換を求めたが応じてもらえなかった。社名と氏名を聞いたが答えてくれない。彼はそそくさと逃げた。それも大臣官房の広報室に逃げ込んだのである。官僚ならば“身内”だから助けてくれるとでも思ったのだろうか。

「選挙で国民から選ばれた鉢呂大臣をあなたはヤクザ言葉で罵倒したんですよ。どうして自分の名前を名乗らないのです?コソコソ逃げるのですか?」。筆者はその記者に尋ねた。彼は終始無言だ。大臣官房広報室で保護してもらえないと分かると彼はエレベータに向かった。記者室に戻ると配席表で名前が割れるからだ。
筆者がエレベータに一緒に乗り込むと、エレベータから降りて違うエレベータに乗り換えた。筆者も乗り換えた。同じ質問を続けた。自分の名前も名乗れない人間が政治家の進退を左右するようなことになったら、政治はガタガタになるからだ。
卑劣な記者は最後まで無言のまま闇の中に消えた。(以上、田中龍作氏のブログより転載)

これは、鉢呂前経産大臣の辞任記者会見の場で、「・・をちゃんと説明しろよ」という、信じがたい言葉遣いで質問した記者である。自由報道協会の田中氏が「記者としての品格を持って質問しなさい。君の言葉遣いはなんだ」と叱責した場面があった。

記者のほとんどは、自分の所属と氏名は小さな低い声で発し、質問はがなり立てるような大声で鉢呂氏を追い込んでいた。卑怯というべきか姑息というべきか。しかも、同じ質問を各社(聞き取れない)が繰り返し発した。鉢呂氏の感情が激して更なる失言を誘導しようとする意志がありありだった。
自分たちが射止めた獲物をなぶり殺しにする快感に陶酔してかのごとくであった。ここは鉢呂氏はよく耐えた。耐えに耐えたといってよい。この点からいえば、惜しい大臣が、気の緩みからマスコミの餌食と化した悲惨な局面であった。

「もう許してやれよ」と甘いことを言う気はないが、筆者もこれは「言葉狩り」という側面が大きいと思う。その言葉狩りで一大臣を辞任に追い込むという収穫は上げたのだから、さらに畳み込むような質問には辟易としたし、マスコミに対して憤りさえ感じたものだ。

件の暴言記者は、鉢呂会見が終了したらそそくさと姿を消したそうだが、後の枝野大臣の就任記者会見が終わった後も、そそくさと姿を消したらしいことが田中氏のブログが証明している。

新聞各社の記者諸兄姉のすべてが紳士淑女であれとまでは高望みはしないが、せめて普通言葉使いで質問をして欲しいものだ。どうあれ、一国の大臣が相手である。マスコミ諸氏の大いなる勘違いが是正されなければ、日本の報道界の信用は無くなるであろう。

「強きに阿り、弱きを叩く」が、日本のマスコミなのだろうか。批判や不正の追求はおおいにやるべきであるが、キャラクター・アサッシネーション(人物破壊)が常道だとするなら、日本の政治家は育たない。いや、政治家になって欲しいような優秀な人材は背を向けてしまう。

次から次に、舌なめずりしながら政治家の人物破壊がマスコミによってなされるならばマスコミの将来はない。マスコミが日本という国の政治をますます貧しいものにしてしまっている事の重大さに気づいてほしい。

日本の政治を痩せた貧相なものにするのが日本のマスコミの使命だ、とは思いたくない。
.14 2011 未分類 comment0 trackback0

鉢呂氏の辞任記者会見

 「反原発、反TPPの鉢呂の首をとれ」と、マスコミに財界と経産省から密かに密命が出ていた。以来、虎視眈々と発言の片言隻句を追いかけてきた。特に、オフレコの会見での取材の場合、大臣も自分担当の記者を味方と思いやすいし、思いたい。あるいは、大臣就任後間もない期間は友好関係を築きたいが故についサービス精神を発揮しやすい。

初入閣の大臣や人のいい性格の大臣が陥りやすい陥穽である。鉢呂氏はこの両方に相当したようである。辞任記者会見を視聴したが、この人が政治家であることが不思議なくらいであった。平凡なそこいらの気のいいオッサンという印象の人物である。

被災後半年という節目の時期に「死のまち」発言は、不穏当であり、言霊の国では避けて当然である。執拗につきまとって離れない記者たちに「放射能つけちゃうぞ」に至っては悪ふざけのレベルであり、この行為自体は筆者にも不可解である。

しかし、福島の子供達が県外で「放射能が来た」などと不当な迫害を受け、差別的取り扱いを受けている現実と重ね合わせれば、立場上不適当な発言だと強弁されてもいた仕方が無い。

言葉が単独で発せられることはすくない。前後の文脈があり、発言者の表情仕草があり、その場の状況がある。それらの全ての条件下において一つの言葉の意味が確定するものであり、その言葉一つが切り取られて、その言葉を遣った真意を追求されても立ち往生する他はない。

ましてや、ある意図を持って「切り取られ」て追求されたのでは堪ったものではない。

鉢呂氏の辞任記者会見をみたところ、その場は記者集団による吊るし上げ会見であり、人民裁判の如しであった。本人がすでに辞任したあとでの会見であるので、切り取った発言をもとに「辞任に追い込む」判決を下す非情な追求ではないので、人民裁判という表現は不適当ではあるが、弱り切っている当人をとことん追い詰める陰湿な質問の繰り返しは容認し難い憤りを覚えた。

しかし、鉢呂氏の追い落としの密命を帯びて番記者たちが、意図的に「発言ミス」を狙っていたとは思い難い。「死のまち」発言がしかるべき要路の人物の耳に入ったのであろう。

その要路の人間が財界の人物か経産省の官僚か、あるいは自民党の議員か同僚たる民主党の人間かは判然としない。それらの人物たちによって「為にされた」感を否めない。
.14 2011 未分類 comment0 trackback0

五人の演説

 京都仏教界の重鎮、立花大亀老師 松下幸之助を面詰 「君のおかげで、こんなに心がなくものばかりのいやな日本になってしまった。君の責任で直してもらわねばならん・・・。」
1957年(昭和50年)秋のことであると、同席していた博報堂社長(当時)の近藤道生さんが『茶の湯がたり、人がたり』(淡交社刊)に書いている。松下氏は温容を崩さぬまま、じっと考え込む様子だったという。国家経営の人材を育成するべく「松下政経塾」を創設するのは、それから4年後のことである。(読売新聞より引用)

この松下政経塾から、前原氏と野田氏という二人の候補者を出した今回の民主党代表選は、いよいよ政経塾出身者の時代が到来したかというある種の感慨に襲われたことは事実である。

財務省推薦で増税路線が明らかな野田氏が早々に自民党との大連立を打ち出したために人気が急落した。慌てた仙石闇将軍気取り氏は前原氏の擁立を急いだ。外国人からの献金問題がまだ決着していない前原氏は、今回は出馬せず次の機会を待つ予定であった。

しかし、野田氏の不人気は深刻であり、これでは小沢一派に政権を奪取されそうな危機感から急遽出馬に踏み切った。もっとも、次を狙うという悠長な時間は民主党にはないという現実も無視できない。

不人気とはいえ、霞が関の中の霞ヶ関である財務省のお墨付きを手にした野田氏は、仮に代表選で敗れても後の組閣で自分を無視することはできないだろうという計算があった。何があっても出馬するとの決意を変えなかった。

かくして、野田氏・前原氏・海江田氏・鹿野氏・馬淵氏の五氏による代表選が決定した。
それぞれの演説について感想を述べてみたい。

前原氏
目力のない胡乱な眼差しで、酷薄非情な印象が顔に漂っていた。テラテラ光った顔と何処か信用がおけない前原氏の表情は一国の総理としては不安が拭えない。全身が揺れ動き、本人の心の中の自信のなさが終始挙措を不安定なものにしていた。まだまだ10年早いよ「おにーさん」、というの率直な感想であった。

馬淵氏
正義の筋肉男、国会では威嚇し脅しあげて不正を働く議員や官僚を締め上げ、家庭ではよきパパであればよい。紳助とイメージがダブって仕方がなかった。将来が楽しみな好漢といったところか。馬淵氏らしい政治理念と信念を貫き永田町に手堅い正義のグループを作りあげて欲しいと感じた。

海江田氏
 顎は上がり呼吸は乱れ内容は空虚。小沢グループの支援を受けて立候補したのは本人の見識であり決断だから一向に構わない。早々に小沢に対する党員資格停止処分の撤回などを打ち出したのは失敗であった。推測するに、演説開始直後から会場に冷笑や拒否反応が広がったのではないだろうか。顎は上がり呼吸が乱れ、時間を消化するのが精一杯の体たらくであった。聞くところによると、準備された演説原稿を練習段階では時間内に消化できたのに、実際の場面では半分もこなせなかったらしい。お手元に配った資料をお読み戴きたいと訴えていたのが印象的であった。総理の玉ではない。

鹿野氏
鹿野氏の演説が始まると、三波春夫と村田英夫を思い出した。臭い芝居をみているようでもあった。日本の政治家の演説とはこのようにやるのだ、とばかりの一つのパターンを得とくと演じているようだった。赤城の山の国定忠治もかくありなんといった風情であった。当選回数からいってもベテランとは言えるだろう。しかし、ベテラン印の背広をきた空虚さが気になった。貧相な総理はもう御免こうむりたい。

野田氏
さて、この代表戦を勝利した野田氏であるが、25年以上船橋駅頭で鍛え上げた演説の力量はかなりのものであった。安定した体躯と計算された眼差しと目配りは説得力を嫌が上にも感じさせた。アイダミツオの詩をちりばめた演説は、投票先を決め兼ねていた女性議員の気持ちを特に揺り動かしたのではないかと思う。また、「この顔ですから人気が出るとは思われない、だから解散はしません」という言葉は、選挙力が弱い新人議員の支持があったのではないか。党内の「次の選挙不安症候群」で不安がいっぱいの浮動票は一斉に野田氏に流れたのではないか。「この顔ですから人気が出るとは思はない。ですから、解散は致しません」が極めて効果的なフレーズであった。議員の地位と収入が第一で国民の生活は第二の新人議員の心をとらえた一発であった。
「ノーサイドにしましょう、もう」と訴えた時の眼差しは、女性議員のハートのど真ん中を射た決め球となったようだ。なによりも、財務省がバックにいるというハロー効果が」絶大であった。政治家主導なんて夢物語だと思っているならまだしも、「それってどういうこと?」レベルの議員たちにとって、「官僚の支持がある」というのは何よりも安心なファクターであり、頼りがいのある代表となるのである。

 かくして、野田氏が内輪もめを制して民主党三人目の総理大臣となった。
.12 2011 未分類 comment0 trackback0

民主党は荒れ果てた

 民主党が政権をとった。その一番の立役者は小沢氏であろう。ところが、内外の小沢排除の圧力に呼応した民主党の人たちとはどのような人たちなのだ。この政治資金規正法による小沢起訴という案件は無理筋であることは郷原氏をはじめ専門家筋から早くからアナウンスされていた。

民主党にも弁護士など法の専門家は何人もいる。にも拘らず、党の中心人物である小沢氏が有罪であるがごとくに立ち回った者たちがいる。小沢氏有罪の立場の解説、無罪の立場の解説の双方の説の中で、「推定無罪」の立場を素人でもとるものである。有罪であるほうが利益を得る人たちを除けばであるが。

田中角栄氏、金丸信氏の側近としてながく仕え、田中氏の裁判には欠かさず傍聴した小沢氏である。まさか、政治資金で失脚するような愚かなことはしないだろうというのが一般的な見方である。戦後の傑出した政治家である田中氏の晩年を思えば同じ轍を踏むとは到底考えられない。

新聞・TVや評論家がそれぞれの立場で小沢氏を論じるのは仕方がない。政局を論じるのがメシの種の人士も大勢いる。しかし、少なくとも民主党は、党内で精査した上で、法の専門家議員を中心として小沢擁護の声を上げるべきものであろう。

朝日新聞は「有罪の証拠が十分でないことと、有罪ではないこととは違う」という論説を書いた。「推定無罪」という法を無視した民主国家にあるまじき暴論である。法治国家のマスコミとしてはあってはならない感情論であり、ご都合主義的貧相な論説である。マスコミの良心の欠片すら存在しない非知性的一流(?)新聞である。

鳩山氏の政治資金の問題にしてもそうだ。このようなことが決して容認されてよいとは思ってはいないが、同程度の政治資金の不透明な部分はほとんどの議員が背負っているはずである。他者のこの種の問題が恣意的に顕在化すると、さながら「奇貨」のごとくその尻馬に乗る。同じ党内で集中豪雨的にバッシングを行いその地位を襲う。

蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる(ひちょうつきてりょうきゅうぞうせられ、こうとししてそうくにらる) という故事成語がある。

この故事に譬えてみようと思ったがどうもそのレベルではない。
もっともっと下位の幼稚なレベルが民主党であるようだ。その実態はどうであれ、その原因がどうであれ、同じ党の功労者の不利を最大限に利用して引きずり落とす。見ていて物悲しくなるような幼稚な内輪もめである。

このようなことに血道をあげて時間を稼ぎ、肝心の政治から身を離し、しかも、いかにも政治に汗を流しているような振りをする狡猾な輩が多い。その挙句、マニュフェストは到底守れないから破棄するでは民主党に投票した国民は堪らない。政治不信をさらに深刻にしてしまった。

しかし、こういうことは言えるのではないか。
小沢氏も人望がないし、リーダーとして欠陥があるのではないだろうか。鳩山氏も、結党の金主として重宝されているが、政治家としての手腕才能は買われていないのではないか。菅氏はもう論外である。市民運動家としての視野しかなく、総理大臣になりたかっただけの愚物であったし、人望も指導力もまるでなかった。

小沢氏に至っては20年間近くバッシングのされっぱなしであり、よくぞ耐えてここまで来たと感心するが、単なる不運とは言えない理由がありそうだ。

代表選による三度の敗北は小沢氏にとって致命的である。勝てないリーダーからは櫛の歯が抜けるように人が去っていくだろう。田中角栄氏の末期に極似してきた。20年にも渡る小沢バッシングによくぞ耐えてきたと内心舌を巻く思いである。心臓の病を抱えての辛苦は譬えようもなかったであろう。

来年の代表選勝利・小沢総理誕生の絵図が描かれているようだが、民主党という風土は、党内の権力亡者たちによって食い散らかされ、最早荒れ果ててしまった。来年、仮に小沢政権が樹立されても政権交代当時の民主党のイメージの再構築の時間はない。

政治家主導による政治改革、日米が対等である独立国家、国民のための政治、これらはいずれも素晴らしい夢を国民に抱かせたが、いかんせん、政治家のレベルが低すぎる。国民の意識が曖昧である。

小沢政権樹立よりは、旗幟を鮮明にした「政党再編成」に尽力してもらいたい。さすれば、議員諸侯も勉強する方向が鮮明になり、政治公約の内容がはっきりし、自ずから、政治主導でなければ政治が動かないという現実が生まれてくるのではないか。

「民主党は、野良犬が出合い頭に結婚したようなもの」という屋山氏の表現がある。国会の捻じれ、党内の捻じれ、議員個人の捻じれという三重苦を背負っての国内政局にうつつを抜かしている場合ではないことは、周辺各国の出方を見れば明らかである。
.12 2011 未分類 comment0 trackback0

見たくないものを見てしまった

それは昨日(9月10日)のことである。所用で恵比寿を訪れた時、「子供神輿まつり」なる横断幕を目にした。この界隈に神輿を担ぐような元気のよい子供がいるのかと訝しんだが、久しぶりに威勢のよい子供の「わっしょい!わっしょい!」が聞けるかと楽しみに足を進めた。

商店街の辻に、祭りの本部詰所と思しきテントが目に入った。その前を通りながら注目してみると、赤ら顔のご機嫌な爺さんが数名屯していた。奥を見ると納屋に子供神輿と思われる小ぶりの神輿が鎮座していた。時間的には神輿が街に繰り出していてもおかしくない頃だと思いながらさらに歩を進めた。

伴走する隣の通りから哀愁切々たる太鼓の響きが聞こえてきた。急ぎその通りに出て、びっくりするやらがっかりするやらであった。観ていて胃が痛みそうな気分に襲われてしまった。

小ぶりの大太鼓(?)が一つ乗った小型の山車がノロノロと歩いて(!)いた。引張綱には数名の老爺がついていて、ゆっくりひっぱている。そのほかに数人の若いママさんがひっぱっている。その隙間に4人ほどの男女の子供が綱につかまっているだけでのそのそ歩いている。

山車の後ろには、その他のママさんたちが赤ん坊を抱いたり、ウチワや飲料水を持ったりして、これまたノソノソと追随している。

二人の子供が打つ太鼓の音は弱弱しく、哀愁を帯び、今にも消え入りそうな塩梅。祭りの行列というよりは葬式行列のごとしであった。これでは神輿は詰所の納屋で陳列されたままで威勢よく街を練り歩くことはないままなのではないかと不安になった。

うちの子の肩が脱臼したら、筋肉痛を起こしたら、筋を痛めたら、怪我をしたら、頭を打ったら、目が飛び出したらどうしてくれるのですか、などという声が聞こえてきそうであった。塾の時間がありますので何時までにしてくださいとか、ピアノだプールだお食事会だと、いろんな条件を付けてくるママさんたちの対応にさぞかし大変であろうと、老爺さんに同情心が湧いてきた。

いっそ若いままさんたちがハンテン・ダボ・股引き・帯・ハチマキ・足袋で身を固めて黄色い声を張り上げて威勢よくやったらどうだとさえ思った。

子供のご機嫌をとる老爺たち、わが子のことしか目に入らぬママさんたち。しかも勝手気ままな要求のしほうだい。ママさんたちまであやさなければ祭りが成り立たないが故の、老爺さんたちの入れ歯の歯ぎしりが聞こえてきそうだった。

子供がペット化して久しいが、昨日はその典型を目にした気がした。
生気のない目、緩慢にして弱弱しい挙措動作。街の顔役さんや世話役さんの気持ちが痛いほど伝わってきた。

どの老爺たちも、子供がこんなことではいけないと、本人のこともさることながら、日本の将来にまで思いを馳せるはずである。しかし、祭りが終われば元の木阿弥。また来年も再来年も同じことの繰り返し。事態はますます深刻の度を増していくのである。

なまじ祭りの日に遭遇したがゆえに、考えたくもないことを考え、見たくもない光景をみてしまった。ひ弱とか甘やかしすぎというよりは、小さな子供がすでに「惰性で生きている」ような気がした。親の惰性に歩調を合わせ、学校では教師の惰性に調子を合わせ、祭りでは世話役の惰性に気を合わせる。

子供を取り巻くあらゆる世の中の惰性に何の疑問も抱かずに調子よくあわせて生きていく、このようなスキルを幼児のころから身に着けてしまっているようだ。

「政治?関係ないよ」「それもありだしこれもあり」「頑張らないし気張らない」「怒らず怒鳴らず」「小さな幸せ抱きしめて、自分だけの宇宙を大切に」「平和って退屈だな~」といった若者だらけの日本の世の中。

軍事的危機が迫り、領土侵犯の危機が迫ろうとも、どこかの緩い総理が言ったように、「日本の国は、日本の領土は、日本人だけのものではない」という、超の字が何重にもつく摩訶不思議な言説がまかり通る、不思議の国ニッポンに完全になってしまいそうな気配が濃厚になってきたのではあるまいか。
.11 2011 未分類 comment0 trackback0

叩かれ第一号 鉢呂経産大臣

 早くも叩かれ大臣の一号がでた。
どちらかといえば反原発であり、北海道の農業従事者の票で当選した鉢呂しはTPPにも反対の立場ときく。となれば、早く辞めさせたい勢力には事欠かない。本人の辞表提出となっているが、野田総理が辞めさせたことはあきらかである。

一方、PKOにふれ、武器輸出三原則に触れた前原氏のほうは今のところ問題になっていない。日本の政治の実情が露見しているようなものである。庇われているようだ。

鉢呂氏は、2009年の政権交代がなされようとしていたとき、予想された小沢内閣の組閣名簿で、記憶が確かなら文科大臣の下馬評があった議員である。民主党の中ではそれなりに評価されていたのであろう。

なにしろ、軽い!「放射能つけちゃうぞ」などは、思慮浅はかな幼児レベルの所作である。
経産大臣にはとてもなってはいけない素人大臣である。その自信のなさが随所に現れるのは、ほかの大臣も同じであろう。

この内閣は、野田総理をはじめとしてほぼ全員が素人で構成されている。官僚におんぶにだっこする気だから、任命もできるし就任を承諾する。何も知らない、できない、にもかかわらず随喜の涙で就任すということは、とにかく「大臣になりたい!」という強い願望にドライブされているということである。

財務を知らない財務大臣。外交を知らない外務大臣。タバコの値上げしか見識がない厚労大臣。防衛を知らないと予防線を張る防衛大臣。死刑執行ができない法務大臣。医者が本業の郵政改革・金融・内閣府特命大臣。そこらのねーちゃんの蓮舫いろんなことの担当大臣。ドサ回りの舞台に立つ国定忠治のような、浪花節だよ人生はの農水大臣。教育のことなんか知るもんかの文科大臣。怪しげな献金まみれと怪しげな風貌の国家公安委員長・拉致問題担当・内閣府特命担当大臣などなど、よくもまあこんな大臣を任命できたものだ。

政治主導を止めにして、官僚さま様に徹すればこその布陣である。
日本の政治は危ない。

「・・・は遺憾である」と「・・・を注意深く注視する」では、国が困り、国民が甚大な被害を受ける。大臣は辞任すればよいが、国民は辞任できないのだから。
お気楽な国になったものだ。永田町が政治ごっこの遊園地化してしまったのだから。
.11 2011 未分類 comment0 trackback0

土壌の改良とドジョウの改良

野田総理が自らを「泥鰌」と表現し、泥鰌のような政治をしたいと言うが、その意味がよくわからない。泥鰌が地味で堅実であるとは聞いたことがない。

アイダミツオの詩に、金魚との違いを表現したものがあるが、金魚が派手で軽い存在とも聞いたことがない。金魚であれ泥鰌であれ、どのようにも例えられるのであるから、アイダミツオの詩の心に共感してあのように、野田氏は野田政治の心を表現したのであろう。

泥鰌は危険を感じると素早く泥の中に姿を隠す。大雨や台風で川や池の水が騒ぐとフラフラと浮き上がってくる。泥の中にいては不安なのであろう。決して、安定と信頼を保証する生き物では無い。

問題は、鳩山政権下で財務副大臣に起用された野田氏は、藤井財務大臣の引もあって異例の抜擢であった。藤井大臣から「しっかり鍛えてやってくれ」とでも頼まれたのであろうか、野田泥鰌副大臣は財務省の泥の中に潜ってしまった。財務省という土壌の中で呼吸し栄養摂取した野田氏が財務省という土壌をふる里のごとく思って仕舞うのは必然である。

「真似した整形塾」、失礼!「松下政経塾」を経て、地盤看板がない野田氏が船橋駅頭での地道な演説を連日行うことでなんとか当選した。その後、党内での役職の経験はあっても、政権政党の財務副大臣というのは大変な出世であった。

これで初めて、当事者として霞が関官僚と向き合うことになった。財務の知識も経験もない野田氏にとって、一から勉強せざるを得ない。と同時に、財務省という最強の官僚組織と対立するか、味方にするかのどちらかを選ぶとすれば、味方になってもらった方がこれからの政治家のキャリアとしては好都合であるという計算になる。

上司の藤井財務大臣自体が、政治主導どころか、出身官庁である元大蔵省、いまの財務省に戻ると心も身体も自然に財務省の人間そのものに本家がえりをしてしまっている。

その上、党の方針がマニュフェストを徐々に破棄し、官僚と協調する方向にシフトし始めている状況をみると、この際、財務省と友好的な政治家となるほうが得策だと徹底したのであろう。

鳩山政権は、霞が関改革と政治主導を強力に推進しようとして果敢に官僚主導に挑んだがあえなく敗退してしまった。

霞が関の土壌の改良が先でなければ、その土壌に植えた花は土壌に適応するしかない。花が土壌を変化させると言うことが全く無いとは言えないが、土壌に順応できた花が生き延びるのが普通である。

120年の歳月をかけて、官僚の世界がどれ程霞が関と言う世界の土壌の改良と強化に心血を注いできたかを思えば、自民党という花を引き抜き、民主党という花を植えた結果は自明であろう。ただ植え替えられた花は立ち枯れ状態になり、いち早く土壌に馴染もうとした花だけが活かされるという理路になる。

政治が二進も三進もいかなくなると感じ取った目端のきく政治家、例えば仙谷氏などは、素早く霞が関の土壌に適応すべくシフトした。こうなると、剛腕で霞が関官僚をねじ伏せようとする「小沢氏」の存在が邪魔となる。ついでに、この小沢追放劇にも積極的に加担する事になる。するとますます霞が関の官僚は上機嫌となり「仙谷愛い奴」となり、民主党内での仙谷氏の存在が重いものとなる。そして、民主党主流派というものが出来上がった。

まだ多少の違いを主張しているが、米国・財界。官僚・マスコミを味方にし、従来の土壌に咲く花は日毎に自民党の花に似てくる。自民党も人材の枯渇は深刻である。ただ、妙に錯覚した議員が蔓延っている。同じ人材不足なら、素人集団で「霞が関にご協力を乞い願う民主党主流派」の方が、従来型日本の政治の土壌から見ればかえって御しやすい。

「ドジョウ」になりきる「野田総理」は、なかでもとびきりの「愛い奴」である。いまとなっては、民主党政権の誕生は霞が関にとっては思いのほかの好結果であったといえるであろう。いつまでもかわいい泥鰌、素直なドジョウであるように脅したりすかしたりしながら手綱を取っていくことであろう。

結局「誰がやっても同じ」という、街場のオバチャンの諦念に基づく評価が真実をついていることが・・寂しくもあり情けなくもある。
.11 2011 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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