次に叩かれるのは誰だ

 管総理は辞任挨拶においても人格の欠陥ぶりを遺憾なく発揮したようだ。総理大臣就任前から一国の総理としての品格を欠き、器ではないと述べ続けてきたが、最後まで情けない幕切れを演ずる稀代の総理不適格者であった。

わが国では、久しく政治の不調を総理の個人的無能にその原因を求めてきた。「総理大臣が無能だから、外交も経済も内政うまくいかない」とメディアは書き立て総理大臣を攻めたててきた。野党政治家や知識人たちも同一歩調をとってきた。つまり、「首のすげ替え」をすべく騒ぎ立てる以外の手段が刻下の日本にはないようだ。かくして、私たちは一年に一人の割合で総理大臣の首をすげ替えてきた。滅茶苦茶な話だ。

そして今回の民主党代表選に臨んでいる。人材が払底していることはこの顔ぶれを見れば一目瞭然である。政治はもとより人生の経験不足。知性が滲み出ているとは到底言い難い風貌。日本の総理としての品格を感じない。政治家として自立した見識と理念があるとは思えない。どうあれ、総理大臣になっておきたいという動機以外のものは感じない。

そもそも、現在の国会議員たちが、民主主義国家であり法治国家としての国会議員として、それにふさわしい選挙で選出されてきたのかどうかを疑わざるを得ない。

各地方において、かつての政権党であった自民党の国会議員は、地元の顔役の買収、利権誘導、恫喝などの手段を通じて票をかき集めた。いわゆる組織選挙で選出されてきた。野党は野党で組織による集票を核としてきた。これが民主的選挙といえるのだろうか。

ところが、近年組織の縛りを無視して自らの意思で投票する者や、はなから組織されていない選挙民の数が増えてきた。いうところの浮動票というものである。したがって、候補者も票読みが難しくなってきたことは否定できない。

だが依然として、古くからの人間関係の柵とか、特定の業界と利権で結びついた組織票が集票の核となっていることは否めない。つまり、候補者の政治理念や政策構想よりは、江戸時代からの古いしきたりや、明治時代からの土地の風習や、戦前の利権構造からいまだに脱却できていないのではないか。

戦後、民主主義が持ち込まれたとはいっても、多くの地方の高齢者たちは、「そんなもん関係ない」と一蹴されそうなガチガチの古い体質が残っているようである。義理と人情と浪花節の世界が絡まったままの風土がまだまだ息づいている。そのような風土から選挙で当選して永田町に来れば、同じような体質の者が集まっている。派閥を作り、親分子分の世界が待っている。餅代を配られ、利権のおこぼれを頂戴し、次の選挙の指導というとこから永田町の生活は始まる。

一方、明治以来の権力の伝統を堅持する世界がある。政治家を薄汚い連中だと蔑み、国会議員を操って見せ掛けだけの民主主義を演じる一大権力集団がある。総理大臣が短期間に代わることは、その都度振出しに戻る状態を作り出せるのだから、何らかの必要が生じれば、秘密裏に収集したデータをもとにスキャンダルをメディアを通して煽り立てる。あるいは、検察や国税を使って検挙させるなどの手段には事欠かない。

民主党が政権をとっても同じことだ。同じパターンで総理を短期間のうちに失脚させればよい。政権担当能力が育っていない民主党なら赤子の手をひねる以上に容易いことである。

管総理の個人的資質を云々しようがしまいが、官僚側が管総理を干し上げさえすればよい。あとは、例によってマスメディアは政治が動かないのは「総理の無能」、国家の危機に対応できないのは「総理が無能」と大騒ぎをしてくれるし、そうさせればいいだけである。

官僚は特別の背任横領などが顕在化すればここを先途と叩かれるが、それさえなければ、すべては政治家の無能に帰着させるのが、日本のマスコミであり、有識者・学者・評論家たちであり、新聞の論説者たちである。

もうすでに、民主党代表選立候補者の種々のデータが取り沙汰されている。誰がなっても同じということは、同じ筋書きが待っているということである。

我が国では、官僚の利権を守り、マスコミの利権を守り、米国の指示に従順で、財界の要望に忠実でなければ、個人的無能と公人としての資質のなさが徹底的に攻撃されるのが今や定番となってしまっている。

つまり、米国・官僚・財界・マスコミの権益擁護の立場をとり、国民や世界各国の手前、立派に民主主義の手順を踏んでいることが「形として証明」されていればよいだけなのである。

小沢氏も、派閥やグループ内での私的レベルの剛腕は確かかもしれないが、もし、総理にでもなって公人としての剛腕が振るえるかといえば大いに疑問である。今度の総理も、米国と官僚、財界とマスコミと影の総理ともいうべき小沢氏との二重三重の軋轢に耐えかねて国会で泣きじゃくることになりかねない。国会議員と官僚と、日本的民主主義を根本的に改造しなければ何をやっても日本の将来はないのではないか。
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.28 2011 未分類 comment0 trackback0

政治家のレベルが低すぎる

 民主党の代表選、つまり次の日本の総理大臣の候補者の顔ぶれを眺めていると、明るく生きなきゃいけないのに、実に暗澹たる気持ちになるのを禁じ得ない。

民主党だからではない。自民党の場合を想定しても同じことである。長老格であっても、石原氏や石破氏クラスであっても同じ思いになるだろう。みんなの党の渡辺氏や江田氏が出てきても全く同じ。

戦後、アメリカの属国・保護国として、経済的なメリットの追求に狂奔している間に本格的な政治家の教育・養成が貧困になってしまった。一方、戦前よりはむしろ焼け太り的に増強された霞が関官僚群の圧倒的なパワーの前に主客転倒してきた政界環境は、政治家の劣化に如実に表れている。

世界における外交はアメリカ任せ。アメリカのご意見を伺い、アメリカの指示に従っていればよかった。国内の政治はほとんど官僚任せ。地元の選挙民が議員に陳情すると、その議員が官僚に陳情するという構図がまかり通ってきた。

総選挙となれば、時の政権は、「国営シンクタンク」ともいうべき官僚に政権公約を作成させていた。日本の官僚の実力はアメリカをも凌ぎ、世界でもトップランクであるという定評を得ていることは確かである。しかも、世界に類のないフリーハンドであり、責任はない。次官通達・局長通達などで法を超えた「指導・恫喝」をかなり自由に行え、権力の悦びを味わってきた。

この官僚側から見れば、刻下の議員のレベルは下等も下等で、このような議員の風下に立つ気は毛頭ない。このような議員たちに国家の舵取りを任せるわけにはいかないという使命感を新たにしている。江戸期から明治・大正・昭和・平成と積み重ねてきた歴史的権力体制に劣化した政治家の手を突っ込ませるわけにはいかないと決意を新たにしている。

政治家も政治家である。政治主導と言ってはみたものの、今日からの仕事に差し障ることが分かった。とりあえず今まで通りで、ということになる。霞が関改革を想像しただけでも茫然自失。どこから、どのように手を付けたものか全く見えてこない。仕事は次々に発生する。どう処理したらいいのかパニック状態になる。

官僚主導といって霞が関に乗り込んできたのだから「お手並み拝見」とばかりに官僚はサボタージュする。大臣をはじめ副大臣も政務管も机に座って放心状態となってしまう。官僚たちの「忍び笑い」が増幅されて耳を襲う。精神が病んでしまうほどであったろう。

政治家が主導し、官僚がそれに従う。確かにこのような構図が法律的にも正しい。国内政治においても、政治の軸が定まり責任の所在もはっきりしてくるであろう。一方、諸外国から見ても、日本には政治の主体が存在せず、どこの誰と交渉をすればよいのかわからないという、主権国家を装う日本にとっては不名誉な事態も解決するであろう。

日本の外務省と交渉していたら、財務省や経産省から「その交渉の結果を認めるわけにはいかない」と連絡が入れば、相手国は戸惑う前に日本という国家を軽蔑するであろう。たとえ、総理大臣と交渉しても、帰国後平然と否定されてしまうような国では国際的には信用を得ることはありえない。アメリカの同盟国であり、アメリカの保護国であり、とりあえず金持ち国であるから何とか相手にしてもらっているようなものである。

G7に始まった国際会議でも、日本の総理は一人孤独にしていることが多い。語学の得手不得手が故に起きる事態だとの解説が多かったが、そうではなかろう。酒や女の話ならできるが、日本の総理と政治経済の話をしても実りがないことを見透かされて相手にされていないというのが実情であろう。誰も相手にするはずがない。一人ポツンとしてろ、となる。

困った公約も多々あるが、アメリカと対等の国家になる、官僚システムを改善し政治主導を確立し、公務員改革を断行する。無駄な支出を抑制し健全財政を目指すなどの民主党の公約には期待した。だからこそ政権交代がなった。

その実現には時間もかかり、霞が関には革命的衝撃となるのだから相当な叡智とスキルが求められる。何よりもまず必要なのは「優秀な政治家」である。この点において、党派を問わずその資格・力量が疑わしいのが悲しいかな日本の現状である。

かといって、官僚出身の政治家ならその実現が可能かといえば、それではかえって官僚の権力が増大してしまう危険がある。非官僚出身議員では能力において追いつかない。悲観的にならざるを得ないのが実態である。

日本の政治家が、官僚に依存しないで政治ができるのか。財界に依存しないで政治ができるのか。マスコミに媚びないで政治ができるのか。すべては、国民が国家を託す政治家を選出できるか否かにかかっており、その後の監視を辛抱強くできるか否かにかかっている。

公約を掲げればよいのではない。刻下の民主党のような無残な惨状を満天下にさらすだけである。今から必要なことは、もっと高いレベルの政治家を育成できるのか、選出できるのかにかかっているのである。政治家のレベルが問題なのである。
.21 2011 未分類 comment0 trackback0

正体見たり 政治主導

 民主党の政治主導とは、官僚主導の体制に対する政治主導かと理解していたが、何のことはない、選挙で選ばれた国民の代表である国会議員が国民の意思を完全に無視をして、勝手気ままに行動することであった。支離滅裂な政治をするという事であったようだ。

菅政権が始まって間もなく施行された参議院選挙では、消費税増税を打ち出した。4年間は増税しない公約であった筈のものを、何の釈明も説明もなく無視した暴挙に及んで、民主党を支持した国民を驚かせた。

その民主党はあろうことか、公約の全面的見直しを行うことになり、実質的に2009年の総選挙で掲げた公約を破棄するという前代未聞の愚挙を明らかにした。

あげくに、菅総理退陣後の代表候補と目される野田財務大臣は野党との大連立構想を打ち上げている。公約を放棄して、野党自民党との齟齬をなくし全くフラットな関係で連立を推進するということらしい。自民党と同じになるということである。

藤井財務大臣は国民に対しいて大言壮語のあげく健康を理由に辞任、次の菅財務大臣は財務に関して無知蒙昧ぶりを晒し「官僚はバカばっかり」といった官僚、特に財務官僚にすっかり頭を押さえられ膝を屈した 。

財務副大臣であった短期間の間に財務官僚から御し易いとの評価を下された野田氏が財務大臣に収まった。この大臣は「注視する」というのが得意な人物である。本人は何も考えずに「注視する」だけ。財務官僚から、為替がどうあれ、円高がどうあれ、株価がどうあれ、日銀が何をしようが言葉を発してはならない、その大きな目で「注視する」とだけコメントするようにと命令されたのであろう。

官僚のやっている仕事は難しい、官僚の持っている知識・情報は高度である、官僚の統治のシステムは完璧であると、完全に脱帽の体である野田氏は、官僚が担ぎ易い総理候補であるという事であろう。あの巨体で「担ぎ易い」という事は、恐らく頭の中が相当に隙間だらけであるという事か。

スッカラ菅の次は「バカな野田(のだ)」では我が国は救われない。一体ぜんたい我が国の政治家はどうなってしまったのか。政治倫理も政治家の矜持もあったものじゃない。民主主義国家の国会議員であること、議会制民主主義の国家であること、その国家の国会議員であることを何と思っているのか、言葉を失ってしまう惨状である。

霞が関が推奨し、マスコミが持ち上げ、財界が歓迎する新総理候補者・野田氏とはいったい何者なのであろうか。松下政経塾の一期生であり、千葉の選挙区では熱心に駅前街頭演説をこなしたひとらしい。偽メール事件では、野田氏を兄貴と慕う隣接選挙区の永田氏を唆し、その永田氏が自栽した後、口を拭ってきた人物であることはよく知られている。

その程度の人物が総理候補として自ら名乗りを上げるという事は、余程、総理大臣という仕事は簡単なものなのであろう。政治経歴はもとより、政治理念も政治の哲学も語ったこのない、平凡な人物が総理大臣になろうという気になれるという事は、この日本という国が緩んでしまったということである。溶解し始めているという事である。

誰も責任をとらない体制。恫喝や脅迫が公然とまかり通る政治・行政の世界。立憲民主主義は、選挙や多数決という「儀式」のみが存在し、その実態は、江戸期から明治期、そして敗戦までの政治の在り方と少しも変わっていない。いや、それどころか先の敗戦のあと、焼け太りのように権力をました官僚システム。

民主党の如く、実力も自信も実績もない脆弱な政党が、時の勢いに乗ったか風が吹いたか政権を担当した今こそ、更なる権力の増強を官僚が画策するのは至極当然のことである。

この不可解な不毛な争い事は、国益に為ならず、無論、国民のためならず、ひとえに日本の権力システムの益のため以外の何物でもない。

奥深くに潜む壮大な策謀も陰謀もその存在を感じない。事後。あと講釈で何事かがでっちあげられるであろうが、もとよりそのような代物ではない。未熟で、無知蒙昧な凡々とした愚物らのふざけ切ったゲームである。

日本国の政治を、それを預かる者たちがこれほど愚弄してよいものであろうか。国民を「依らしめる者であり、知らしめざりし者」と勝手に定義し、それがいつまでも通用しているとの幻想に生きている者たちの滑稽極まる三文劇の上演である。

それにしても酷すぎる。あまりにもお粗末。「菅去って奸来る」にならなければ良いが。この勢いでは、錯覚と幻覚と妄想の徒が「総理大臣になりたい!」と長い列を作りそうだ。日本の政界の長老よ、識者よ、退官して官僚制度の欠陥を説く者よ,今こそ、我が国のために大英断を振るう秋(トキ)である。国家の危機の分水嶺に至った今日、物言わぬ日本の叡智が声をあげるトキである。

.16 2011 未分類 comment0 trackback0

電車内騒音

 東急電鉄の田園都市線から半蔵門線というルートで都心に出ていた筆者は、数ヶ月前から練馬に居を移したので、いまは専ら西武電車を利用している。最近、ふと気付いたことがある。西武電車の方が車内の騒音が少ないという事である。まことに静かである。

西武池袋線と西武新宿線のちょうど中間くらいに位置するところに住んでいる。池袋線練馬駅まで1・1k約1800歩14分、新宿線野方駅まで0・8k約1300歩11分(短足の老人が故の数値!)の位置にある。

目的の場所に応じて西武池袋線と西武新宿線を使い分けているが、両線共に社内が静かである。何が静かであるのかを申し上げると「車内放送」がである。東急電車の方は乗ったが最後、四六時中車掌が何か叫び続けていると言っても過言ではない。

「昨日はお客様のトラブル(喧嘩か?)で電車に遅れを生じました事をお詫びします。」
「昨日はドアの故障で、車両トラブルで、架線の不具合で、お客様のバッグがドアに挟まり、気分が悪くなったお客様の対応で、多少電車に遅れが生じ大変ご迷惑をお掛け致しました。」

「昨日は、・・駅で発生した人身事故で、・・駅の変電施設に落雷があり電車に遅れが生じ、お急ぎのお客様に大変ご迷惑をお掛け致しました事を(ご遺族に代わり、雷に代わりとは言わないが)お詫び申し上げます。「天気が悪くてすみません」「雨が降ってゴメンナサイ」とまで言いかねない勢いである。

筆者は、多少空いているので各駅停車に乗ることをモットーとしているが、この各駅停車だと、電車が停まり新しい乗客が乗ってくるたびに繰り返されるので堪らない。急行電車なら停車駅が少ないのでその分若干アナウンスが少ないようだ。東急電車の場合である。

東急電鉄の車掌の採用試験では次のような項目があるのかと想像するくらいである。一つ、「君は、カラオケなどでマイクを持ったら離さないタイプであるか否か」二つ、「君は、何かあればとにかく謝るタイプであるか否か」三つ、「君は、他者からお節介焼きだと言われるタイプか否か」四つ、「君は、機会さえあれば四六時中何かを喋っていないと落ち着かなタイプであるか否か」五つ、「君は、他者がうるさいと思うような騒音を発しても何も感じないタイプか否か」

これらの質問の全てに「ハイ」と答えた者が成績優秀だと評価されて、めでたく車掌に採用となるのではないかと思いたくなるような「車内騒音源」となっている。ある日、たまたま最後尾の車両に乗ったことがある、その日も盛んにアナウンスをしていた。何気なく車掌の表情を観察することができた。

全く天真爛漫、自身に満ち溢れ、このようにマイクを握って喋り続けることができる幸せを満喫している表情だった。何の疑いもなく、社内の規定に従っている忠実な素直な表情だった。中年の男性だったが、従順なよい子の体だった。

「飛び込みたくなるような、誘い込まれるようなホームの作りが悪いから人身事故が起きるのだ。お前の会社の責任だ。電車が遅れた為に損をした分を保証しろ」という利用客がいるのであろうか。

「痴漢行為を誘発するような雰囲気がこの電車にはある。ついては、損失を保証しろ」とか「雷が落ちたくなるような変電所の形が悪い、場所が悪い。ついては・・・」などとクレームをつける利用客がいるのだろうか。

よしんば居てもごく少数であろう。大多数は、人身事故の当事者の境遇を痛み冥福を祈っていると思う。雷を相手に腹をたてても仕方がない。ドアに挟まったり、バッグを挟んだりもたまにはあるわいな、と気にもしない人の方が多いいと思う。

「飛び乗るな」「奥に詰めろ」「優先席では席を譲れ」「電車とホームが隙間が広いので乗り降りに気をつけろ」「携帯電話の電磁波が・・」「携帯はマナーモードに・・」「次は・・駅です。乗り換えを間違わないように・・」「本日はご乗車いただき有難うございます」

よくもまあ次々と喋りまくるものだと感心したりうんざりしたりの毎日だった。筆者は、電車に乗ると、読書をしたり居眠りしたり、沈思黙考したり居眠りしたり、人間ウオッチングをしたり居眠りしたり、美女をみるとこんな美女とはこういうデートをしてみたいと妄想を逞しくしたり、諦めて居眠りしたりと、静かに過ごしたい。

駅を出たら出たで、車の騒音、呼び込みの騒音、パチンコの騒音、街頭放送の騒音、ありとあらゆる騒音攻めにあう。一日のうちでいったいいつどれくらい静かに過ごせるのか。恐らく騒音にならされてしまって「静寂」というものを忘れてしまっているのかもしれない。

日本の都会生活者が受けている騒音のストレスは想像を絶するものがある。生きているだけでストレスは相当に掛かるものである。ストレスは諸病の発生原因としては無視できない大きなものである。電鉄会社の責任回避の騒音は勘弁してもらいたい。

電鉄会社は、「車内で謝りまくれ!」「謝っていれば問題なかろう」といった車掌教育は慎んで戴きたい。安全運行にベストを尽くせばよいのである。無用な騒音を無くして戴きたい。可能な限り快適に目的地まで運んでいただきたい。

なにはともあれ、安全運行に最大の努力をしてくれれば充分である。かつての「福知山線の事故」のような、今回の「福島原発の事故」のような、経済優先で乗務員に過大な負荷をかけたり、乗客を犠牲にするようなことさえなければ、普段の業務に自信を持ってもらいたい。なにかあれば、「謝ればいい」という思考回路こそが重大な事故につながる。

静かな電車内を提供して戴きたい。乗客にこれ以上の無用なストレスをかけないで戴きたい。車掌たちを、結果的には無責任な人間にするような企業内教育を慎んで戴きたい。
安全運行と快適な車内について今一度ご再考を願いたい。
.13 2011 未分類 comment0 trackback0

なんだかおかしい 経産省人事

  「経産省三首脳更迭」と朝日新聞が報じた経産省人事は、終わってみればなんのことはない、通常の人事が少しだけ早めに行われたにすぎなかった。経産省内の計算通りの人事であり、これまでの慣例から一寸たりともずれてはいなかった。

「この人事は私が行いました」「この人事は経産大臣の専権として私が行いました」と二度強調することで他の何人にもその決定は代えられないと、いち早くこの人事をコンクリートした海江田大臣に真意は何であったのか。

原発行政で、経産省と行き違いが目立ってきた菅総理がその人事に手を突っ込みそうになったので、そのまえに海江田大臣が省内の順当な人事を断行し菅総理の介入を阻んだということなのか。海江田大臣は、原発推進派であることの意思表示と、経産省サイドに立脚している事の意思表示をこの際明らかにしたという事なのか。

朝日新聞が報じた「更迭」という記事は、菅総理が人事を直接行うという情報に接したが故に報じたのであろうと推察する。永田町の、あるいは我が国の国会の慣習や論理から見れば大きく外れた思考と行動の菅総理の予想外の遣り口に恐れをなした経産省サイドが、その前に、海江田大臣に縋って慣例人事を実施してもらったという事なのであろう。

思い出せば、今も、日本の官僚たちが恐怖の時代として記憶にとどめている事例がある。1962年から64年まで建設大臣をつとめた河野一郎は、以前、農林省でもそうしたように、官僚人事の不文律をすべて無視した人事を行い、官僚を驚愕させたことがあった。

河野は三人の警察官僚を引き抜いて建設省の最高の地位に据えた。そのひとつは、事務次官に次ぐ高位の官房長のポストだった。建設省(現国土交通省)での河野の最大の罪とされたのは、省としてのアイデンティティを確立できていなかった当時の建設省を深く傷つけたことだった。建設省は、解体された旧内務省の一部の業務を引き継ぐ形で再出発した省であり、旧内務省の中核は警察だったからである。

旧内務省時代は工務局として低い地位に置かれていた。この時代の名残りとして、建設省では上級職技官と同事務官の間に常に軋轢があった。そこで同省では、約一万人の技官グループと一万三千人の事務官とがほぼ均衡を保って巧妙に棲み分けていた。事務官と技官が交代で省内最高のポストである次官に就任していた(他省では技官はふつう次官になれない)。

建設省内のその他の棲み分けは、地方建設局の局長ポストは技官に、もっとも重要な本省の官房長は主として事務官が就く。道路・河川の両局長は技官、都市・計画の両局長は事務官、住宅局長は技官と事務官の交代。どの局においても分業は徹底していて、技官が上役の事務官を、また逆に、事務官が上役の技官を支えて仕事を進めるようになっていた。

河野が発した人事は、建設省内の人事の論理と微妙なバランスを一切無視したものであったから、省内は大荒れに荒れた。それまでも、外務・大蔵・通算の並ぶほどの強力な大臣がこの省を担当したことがあったが、官僚の慣例にまで干渉した者は他にはいなかった。

河野は東大卒ではなく早稲田大学の出身で、1930年代の初めに政界入りするまでは新聞記者をしていた。一方、官僚の経験はおろか大学さえも出ていない大物にして強力な大臣は田中角栄である。彼は、河野とは違った手法で政治家が官僚をコントロールできるということを実証した。

剥き出しの権力の行使ではなく、官僚の期待に背かない遣り方をした。建設官僚に自信を持たせ、彼らの自由裁量による権限の拡大すらもしてやった。建設大臣だった当時、田中は省内の官僚に大変慕われ、総理大臣になってからも、その後もずっと田中はこの省を完全に仕切っていた。

刻下の情勢は当時とは明らかに異にするが、菅総理にしても海江田大臣にしてもとても小粒になったという感は否めない。

「記憶とマネ」で戦後の復興を成し遂げた日本とは、世界での共通認識と言われている。
民主党政権になって感じることは、政権政党としての経験はない、議員個々も政権党の議員としての経験もない(ごく少数のかつての自民党議員を除けば)。
「記憶と真マネ」の対象は自民党政権時代のものということになる。党の役職も、大臣の構成も従来のままである。総理以下大臣たちの言説も行動規範も自民党時代のモノマネにしか過ぎない。

新しい言説、新しい政治行動、新しい政治の構造が打ち出せないかぎり、新しい政権党が新味を打ち出せるわけもない。総理以下の各大臣も、党の執行部の構成も自民党時代のままであるし、使用言語も従来のストックフレーズの借用ばかりである。これでは、自民党時代以上のものには慣れないし同じレベルにもなれない。残るは、以下しかない。

小学生が批判できるような解り易い政治が行われているという事が「取り柄」なのだろう。菅総理の幼稚な言動と大臣たちの未熟さが、国民に「軽蔑」というよりむしろ「憐憫の情」を持たれ始めているようである。末期を過ぎたこの政権をなんと表現すればよいのか!
.08 2011 未分類 comment0 trackback0

恐ろしい女上司

近未来に予想される日本の男女の会話が聞こえてくるようだ。
TVドラマ・「陽はまた昇る(佐藤浩市・真矢みき・橋爪功)」を観た筆者は、一瞬茫然とし、息が詰まるようなショックを覚えた。

「相棒」という警察ものの人気ドラマがある。その主人公・杉下右京は、次のような人物である。警視庁特命係・係長。階級は警部補→警部・生年月日は不明だが、S.1開始時点で45歳。東京大学法学部を卒業後に渡英。帰国後、国家公務員採用I種試験に合格、キャリアとして警察庁に入庁。警視庁刑事部捜査二課に出向して次々に事件を解決していたが、余りにも切れ過ぎる頭脳と、何を考えているのかわかりづらい言動から「変人」扱いされ、窓際部署の特命係に追いやられてしまう。また、右京の下につく者はことごとく警視庁を去る[3]ことから、「人材の墓場」と揶揄される。S.1終了時に一旦警察庁に戻り、警視庁警察学校の教官に異動[4]を命じられるが拒否し、休職してロンドンへ渡る[5]。S.2で特命係復活に伴い復帰し、S.3では免職されかかったが、これも免れている。(ウイキペディア)

この杉下右京が、並外れた知性と教養はもとよりカミソリのように切れる頭脳と豊富な知識を駆使し、警視庁捜査一課の組織的捜査陣が唖然とするような事件の解決ぶりに痺れるような魅力を感じさせるドラマである。

軍隊の規律が色濃く反映されている警察組織にあって、一匹狼的存在の右京が、腕利きの刑事が揃っている捜査一課の裏をかき、ときには規則を逸脱した捜査で論理的に効率的に事件の核心に迫る手法は、組織的群れの捜査(コンセンサス捜査)の脆弱な点をあばき、頭脳的犯罪者に立ち向かうには、高度な頭脳が必要であることを立証する痛快なドラマである。

このドラマの成功以来、TVドラマは「刑事モノ」「検事モノ」が多数放映されるようになった。「科捜研モノ」「心理捜査モノ」「プロファイリングもの」など警察機構の専門捜査のドラマも増えた。

DNA分析やGPSによる追跡調査。各地にきめ細かく設置された「監視カメラ」による捜査、指紋や写真などのデーターベースを総動員した捜査で必要充分な証拠を固めていく手法は見事というほかはない。

これらのドラマの氾濫は、事件解決の経過を推理しながら追いかける愉しみの一方、「犯罪を犯す」という意欲(?)を徹底的になくすようにというプロパガンダがなされているようだ。それでも、完全犯罪は無くならないだろう。なぜなら、犯罪者の側も高度なハイテク機器を駆使するし、犯罪者はますます頭のいい奴のビジネスとなるからである。ハイテクを駆使する捜査が故の落とし穴が必ず存在し、そこに頭脳派の犯罪者がゲームを挑む魅力が存在するからだ。

さて、脇道にそれたので本題に戻そう。「「陽はまた昇る」は新採用の警察官を訓練する警察学校の教官(佐藤)が主人公のドラマである。元警視庁捜査一課の鬼刑事と言われた男がこの警察学校に左遷された。この教官と絡むのが、女性の上司・部長(真矢)と老練な校長(橋爪)である。

筆者が驚愕したのは、この女性上司の言葉遣いである。「・・だ」「・・をこうしろ」「こう言っただろう。わからないのか、言う通りにしろ」と、こういう喋り方である。身分階級がはっきりしている警察などの組織の男性上司が、高圧的に命令口調で部下に指示する際の口調であり、使用言語である。

さらに嫌な時代が到来するのかという予感がしてはいたが、こうも早く、TVドラマとはいえ目の当たりにすると、いささか衝撃を受けた。いきなり「男ことば」とされているものを遣い、肩をいからせ眦を決して権高に部下である佐藤浩市を叱責する真矢みきの演技に強い違和感を禁じ得なかった。真矢みきは宝塚の男役から女優になったのだから、宝塚の舞台のつもりで演じているのかもしれないが、「男役」ではなく、まごうことなき「女の役」であり「女性上司役」なのである。

この点でいえば英語は便利である。「お前も君」も you であり、「俺も本官」も I ですむ。あとは、圭角の立ったものの言い方と、ボディーアクションで立場や状況を表現できる。白人の女性が、腕を組み目を怒らせ、「低音」の強い口調で威嚇的に命令する場面は実際の場面でも映画でもしばしば目にしてきた。

これを、日本女性が「男ことば」を遣い、低音で威嚇的に話すとなると、「ちょっとお待ちいただきたい」といいたくなる。「どこかどころか、あちこちと無理があるのじゃありませんか」とストップをかけたくなるのは、筆者が反動的な男尊女卑の世界に片足を残しているからであろうか。

「おい、結婚しようぜ」「おい、腹減った、メシにしようぜ」という時代がすぐそこに来たのであろうか。夫婦の間で、妻が夫に「おい、・・・しようぜ」「先にシャワーを浴びてベッドで待ってな」という男女の関係になるのであろうか。この先の会話は、想像したくないし、耳にしたくない。

このような台詞回しのドラマが増えれば、いつの間にか世の中に、女の「男ことば」が蔓延するようになるのが必定。女性らしい話し言葉の人が隅に追いやられ、男に媚びる女だとの不当な扱いを受けるようになるのかもしれない。

良妻賢母の養成を教育の指針に掲げた女子大はどうなるのだろう。従来の「女らしい女」と、男も女もあるものかという「男らしい女」の二極化が常態になるのだろうか。保守の桶とリベラルの桶の両方に足をつけている歯切れの悪い筆者など分裂して気が狂いそうになったドラマである。せめて、警察機構や自衛隊の中だけで押さえておいてほしいと筆者は願う次第である。
.07 2011 未分類 comment0 trackback0

ヤラセ民主主義・サクラ民主主義

そもそも、原発推進の経産省に保安院がぶら下がる構造がおかしい。アクセルの横に、ブレーキの形をした別のアクセルがある。そんな欠陥車は、名ばかりのガードレールを突き破るしかなかった。彼の国のように、世界をあんぐりさせて強権を振り回すだけが国家統制ではない。安全神話を創作したのは、より洗練された隠微な世論誘導だ。ブレーキ役になれなかった反省を糧にし、メディアの責任を全うしたい。(天声人語2011・08・02)

天声人語は、周知のごとく嘗ては教科書にも採用され、入学試験でも採用される朝日の目玉記事である。同紙の他の報道がどうであれ、たとえ社説が変節しようが、天声人語は正論を述べ、教育的なスタンスで誰もが感心する言説を自由に駆使できる、記者にとってはオアシスのようなものであり、エクスキューズの場でもある。

経産省にぶら下がる保安院の構造と、その保安院の「ヤラセ」をマスコミが知らなかった話ではない。知っていて問題化しなかったのであり、国民には知らせなかったのである。
では、知っていて何故報道しないし問題化しなかったのか。『あまり重要でない故に国民に周知させる必要のない情報であると判断した。あるいは、あまりにも重大であるが故に、これを報せると社会秩序の紊乱につながる故に伏せておこうと判断した。』どちらかは解らない。

一方、産経省の喉元につきつけた匕首(アイクチ)のような立ち位置に置いておいた方が常に意識し緊張関係を保てると判断したのか。これとて、隣のビルであれ、100m離れたビルであれ、両者の関係性や理念が問題であって、存在する場所の問題ではないと判断したのか。

あるいは、経産省と東京電力を中核とする「原発村」を刺激することは、そのムラに渦巻く巨額のカネの一部が回って来なくなることを恐れ、見て見ぬふりをしようとした判断であったのか。

このような構図は他に多数存在している事になれてしまい、そのうちの一つにしか過ぎないという慣れがもたらしたものなのか。

引用文中の「ブレーキ役になれなかった反省を糧にし・・・」は、この一件に止まらず、まだまだ多数存在している筈である。天声人語で綺麗事を述べて済ませてほしくない。

いまや、権力を批判するマスコミではない。権力とカネの前に「鉛筆を舐める」マスコミの体質が如実に出ているし、その愚行を紙面に準備されている「良識の場」で謝罪することで事なきを得ようとするいつもの遣り口に、この国のマスコミの傲慢・驕慢を感じ、深刻な危機感を覚える。むしろ、軽くなってしまったのかもしれない。

戦後65年以上経ってもこの国の民主主義は、「ヤラセ民主主義」「サクラ民主主義」「手続き民主主義」以外の何物でもない。

太平洋戦争は、日本国民が自由の獲得のために立ちあがって、宗主国からの独立のために多くの犠牲を払い、多数の貴い血を流したのではなかった。チワワが猛犬に挑むごとき戦争の結果敗北した。それにより、米国によって強制された「民主主義」であった。天地がひっくり返ったような激変に戸惑う国民の多くは、民主主義について学ぶ間もなかった。

戦後の焼け跡からの生活の立て直しに狂奔せざるを得なかった殆どの国民にとって、「民主主義」も有難いが、まず「食べること」が先決であった。

一方、「戦前の官僚-軍部=今の官僚」組織はいち早く失地回復に専念した。米国は、官僚というものを自国の官僚と同程度のもだと勘違いしていた節がある。そこをうまく切り抜けた日本の官僚組織は、戦前よりはむしろ焼け太りの組織となった。

そこで日本古来のお家芸である、政治制度であれ、文化であれ、宗教であれ、自分たちに都合のよい導入を図った。生活に喘ぐ国民をしり目に、「民主主義」をどのように利用するかの謀議に明け暮れ、国民の統治の仕方をいち早く確立した。

そこから編み出されたのが、「民主主義的らしい手続きの踏み方」「民主主義的らしい振る舞い」「民主主義的演技」という手法であった。

かくして、国民は真の民主主義を知らないままに、「サクラ」にされたり、「ヤラセ」に参加させられたりと、いいように利用されてきた。

江戸期の、明治期の「お上には逆らわない」という性情はそのまま持ちこされたにもかかわらず、「総選挙」を始め「多数決」などの「行事」で、民主主義国家の国民であると錯覚させられた催眠状態のままに置かれている。

「ヤラセ」という手法も、全国各地で、あらゆる組織で当然のごとく行われており、「多数決という猿芝居」は今日もどこかで上演されている。いつの間にか、これが民主主義なのだと思いこんでいたのではないかと、空恐ろしい気がする。
.02 2011 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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