東電の会長様

福島第一をはじめとする各原子力発電所で、日常的に被曝を余儀なくされている作業員たちは、供犠システムにおける生贄の象徴と言うこともできよう。いうまでもなく、東電は財力にモノをいわせ政官界はもちろん取引関係のあるあまたの企業や、巨額の広告料を提供するメディアに睨みをきかせる大会社である。

東電の会見で、日経新聞の記者が勝俣恒久会長を「会長様」と呼んだのは、ジ
ャーナリストの間ではよく知られた話だ。(以上、新 恭氏のブログより転載)

また、産経新聞の記者・阿比留 瑠比氏が、メルマガ・頂門の一針に寄せた文章の中に以下のような記載があったことはきわめて興味深い事であった。

18日、所用があって本社に寄ったところ、12日の菅直人首相の記者会見での私の質問について、賛否双方の葉書が届いていました。ご存じない方もいるかもしれないので記すと、私はこう聞いたのでした。

「現実問題として与野党協議にしても、最大の障害となっているのは首相の存在であり、後手に回った震災対応でも、首相の存在自体が国民の不安材料になっていると思う。一体、何のためにその地位にしがみついていらっしゃるのかお考えを聞かせてほしい」

これに対し菅首相はこう答えました。

「阿比留さんの物の考え方がそうだということと、私は客観的にそうだということは必ずしも一致しないと思っています。(中略)私とあなたとの見方はかなり違っているとしか申し上げようがありません」( 2011(平成23)年4月19日(火)頂門の一針より転載)

以後、阿比留氏は記者会見で挙手しても指名されなくなったと、その後の報告をしておられたがが刻下の様子は知らない。ご報告が待たれる。

さて、前者の東電の会見だが、若い記者(だと、想像するが)、日経新聞の体質がモロに曝け出されたという以外にない。会見に臨む記者に、「いいな、失礼のないように質問するのだぞ」とアドヴァイスを受けたものなのか、社内規如きもので「特に大企業を取材するときに、相手が気分を害するようなことは一切触れてはならない」という強い規制が働いている事は明白である。

毎朝役員室で重役がエロチックな気分に浸れる連載小説(渡部淳一氏らのもの)が欠かせぬ財務省の広報紙、財界のお抱え新聞であるとは聞いていたが、これほど酷い取材姿勢であるとは知らなかった。

これでは、記者クラブと政治家・官僚との関係は推して知るべしである。毎日の国会内での記者会見は単なる儀式ではないか。筆者は、また新たに「無力印」の下着を重ねた心境であるし、日本のマスコミとは一体何なのかと、空を仰ぎ地に潜って慨嘆あるのみである。

後者の、阿比留氏の質問は推測するに事前の提出のない質問だったのであろうが、一瞬、菅総理は足元が揺らぐような衝撃を受けたであろう。実に、「大胆素敵」な質問であったと評価したい。しかし、このような突撃精神に溢れる大胆な質問を当人に浴びせる元気な記者魂が一方で健在であることに溜飲が下がる思いがしたことは確かである。

新聞・TVも営利事業ならば、「真実の報道と営利は並び立たない」ことは当然である。しかし、日経記者のごとき取材姿勢が常道であるとするならば、最早日本のマスコミに「信」は不在であるとしか言いようがない。

「しなくてもいい質問」「相手の答の一部を予めちりばめたような質問」「相手の逃げ道を大きく準備したような質問」をきかされるのが記者会見であるならば、政・菅・財にとって、記者会見は何の緊張も要らないし、単なる儀式であり、アリバイ証明以外の何物でもない。

しなくてもよい「研究」をして、開かなくてもよい「学会」を大きな経費をかけて開催し、飛行機・新幹線・ホテル代といった、遣わなくてもよい膨大な経費をドブに捨てている日本の「2・3流の学会」と同じレベルのことが各界で行われているようだ。

島国であり、世界の超ローカルであることに甘えて来た体質は一朝には改められない。

「依らしめて知らせない」のは政治の常道ではあるが、そこを突き破り、より多くの真実を暴きだして国民に判断材料を提供し、国民の意識を向上させる役割を忘れては困る。

邪悪にして邪な意図を持つ「カネ」に縛られて膝まづき、「権力」の恫喝に恐れ戦く刻下の日本のマスコミに存在価値がありやなしや、自ずから答は明らかである。

民主党の公約も、原発も、菅総理の退陣も無論重要案件だが、米国の経済の実態が日本に及ぼす深刻な事態が指呼の間に迫っている。マスコミに奮起を願いたいと、枯れ果てた声をふりしぼるしかない。
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.29 2011 未分類 comment0 trackback0

犬までおとなしくなった

 欧米では(本当にイヤーな言い回し!)、犬がおとなしい。よく知られているように、徹底的に訓練され、充分に人間に馴化した犬以外は処分されるからである。現在の日本の実態は知らないが、そのような過酷なことは行われていないのではないか。

その日本の犬がまことに穏やかになっていることに驚いている。子供の頃ばかりでなく20年位ばかり前には、飼われ犬でも飼い主以外の人間には吠えかかるなどの、荒ぶれた犬がいたように記憶している。

その頃は、愛犬家といえども飼っている犬と飼い主の間には一定の距離があった。
「その犬可愛いですね」とか「その犬の名前は何ですか?」という事が普通に言えていた。攻撃的な犬や吠えかかる犬を蹴っ飛ばすなどの反撃をするそぶりもできた。

ところが、現在はそうはいかない。そのような問いかけをすると「無礼な」とか、ひどい場合は、憤怒の視線を返される。いまや、犬は犬ではなく、お犬様であり、我が子同然の存在のようである。我が子のような犬、いや、我が子に「犬」などと侮辱したような表現は断じて許すまじ、という勢いである。

しっとりと飼い主に馴染んだ赤子。躾が行き届いた愛息子であり愛娘。この世の至高のパートナー。愛の全てを注いでも注ぎ足りない恋人であり愛人。それどころか、その、注ぎ足りなさを毎日悔やみ、許しを乞うほどである。「ごめんね、・・ちゃん」とかなんとか。

絶対に裏切らない存在。なんでも言う通りに従う、かけがえのない存在。自分より、先に死なないでほしい。いや、万が一死んだら、あの世で待っていて欲しい存在。いくら可愛がっても可愛がり足りない悩ましさに身を焼き焦がす存在。神様からの賜りもの。

このような「イヌ」なのである。だから、「犬」だなどと呼ばせてなるものか。いささか眩暈を感じるほどの溺愛ぶりである。狂気と言えば、言い過ぎか。

お断りしておくが、愛犬家を揶揄する気は毛頭ない。筆者も、かつては愛犬家の端くれであったし、両親が犬好きで、子供の頃は我が家に犬が絶えたことはない。チンがいたり、スピッツがいたりと賑やかだった。しかし、それらの犬が死んだときの墓掘りを専らやらされたのにはいささか閉口したことは確かである。

愛犬家を止めたのは、毎日の散歩が面倒であるし、「フン」を拾うのがイヤになったからである。そして、最大の理由は、当時の愛犬「ゴロー(シェットランドシープドッグ)」の悲しげな眼差しを振りきって、当時凝っていた「ヘラブナ釣り」に出かけたことがあるが、出掛けたあと間もなく、ひっそりと息を引き取ったゴローの臨終の様を家人から聞いたときの言い知れぬ悲しさと、申し訳なさに、涙が止らくなったことである。止めどなく流れる涙を拭きもせず、庭に穴を掘り埋葬したが、二度とこのようなことはしたくないと思った。

金輪際犬は飼わないと決心したが、家人たちの強い要望に抗しきれず、パグを飼ってしまった。幸い、「ワイフ命」とばかりにワイフを慕ってくれたので、二代目ゴローとは距離を置いて暮せた。でも、苦手な散歩と「フン拾い」はやらされた。狡い奴らである。

「犬」と呼ぶのが普通であった筆者にとって、最近は少し息苦しい思いである。今の飼い主と飼われ犬の濃密な関係がもたらす「強力な結界」のようなモノに感じる、息苦しさである。

「ワンちゃん」とは気恥ずかしくて言いたくない。「お犬ちゃん」とも言い難いし、まさか、その「坊や」とか「お嬢ちゃん」とも言いたくない。

かくして、毎朝の散歩時(自分の)に愛犬家と犬の仲睦まじいカップルをみると、遠くに逃げたり、道の端に逃れて、愛犬家と挨拶を交わしたり、話をすることにならぬよう避けている。褒めてもらったり、一定の節度を保って愛でてもらいたいのが愛犬家の共通真理だからである。さわらぬ神(イヌ)に祟りなしである。

国や社会のせいにするのは本意ではないが、親子の絆が希薄になり、剣呑な関係の夫婦などとともに、個人を取り巻くストレスフルな社会環境は人間を孤独にしている。その精神の空白を埋める「犬」の役割はますます重要なのかもしれない。

「夜遅く帰宅しても、いつも変らぬ愛犬ブッシュの出迎えだけが心の癒しだよ」と呟く、あるサラリーマンの話を聞いたことがある。

さみしい世の中になったものである。それにしても、日本の犬はいつころからこんなに大人しくなったのだろう。国民の大人しさは、世界が驚愕するほどであるが、似た者(モノ)どおしになってしまったのかもしれない。そうだ、いまや「犬」が人になったのかもしれない。難しい世の中になったものだ。
.26 2011 未分類 comment0 trackback0

二大政党制は「画餅」だった

 アメリカでも冷戦終結後はおかしな政治がおこなわれているが、日本とは際立って相違する面があることは否定しがたい。

複雑な国民構成である米国では、優秀な指導者がリードしないとどうにもならない。ブッシュのような例外はあるが、米国は「指導者の国」と言えるだろう。

国民投票によって選ばれた大統領はこれを充分認識し、自分の公約を実現するために、側近はもとより、全ての省庁の次官補代理に至るまで刷新してしまう。大統領の側近ともなれば、学歴から経験まで米国のトップクラスの人材である。だから、大事件を起こしたオウム心理教の幹部の学歴が、当時の「閣僚」の学歴より圧倒的によいなどと言う事は、米国に限らずフランスなどでも起こらない。

一方、日本は如何に言い繕おうと、米国の被保護国であり、官僚国家である。しかも、欧米諸国と比べて日本国民の構成は、概略一つの民族と言って間違いない。しかも、保守的な思想の国民性のため、明治維新のような大きな変化がない限り基本的な構造は変わり難い。

この、単一の民族性と保守性が故に、半数以上ないしはそれに近い支持を得られる政党が二つ存在できるわけがない。仮に大きな野党ができるとしたら今の少数野党が連立することしか考えられないが、イデオロギーが表向きには違うのでそれも不可能である。

そうなると、与党が分裂してできる政党しかない。しかし、これとて強力な指導者がいる訳ではなく、不満分子の落ちこぼれである。国民から見れば、大きなスイカを棒で叩き割ったようなものである。見た目の大きさは違うが「全く同じ味」のものである。

では、今度のような政権交代がなぜ起きたのか。小沢氏・鳩山氏・羽田氏。渡辺氏・石井氏・岡田氏など元自民党の顔ぶれに安心感があったのであろう。かつての連立政権のときも同じであった。中心の顔ぶれが小沢氏らの元自民党であったから、スイカの片方だとの安心感が国民の中にあった。ドエライ事をするはずがない、という安心感である。

2009年の総選挙で民主党が掲げたマニュフェストで、国民が飛びつきそうな「目玉商品」を売り場に並べた一方、自民党は、相変わらずの「定番商品」を並べたから、消費者の大半が、民主党の売り場に殺到したに過ぎない。これが今回の政権交代の実情である。ここでも、元自民党(菅氏は異端)の顔ぶれに、過激な変革はあり得ないという国民の安心感が底流にあった。

田中元首相の愛弟子である小沢氏の主導で「政治は数だ、カネだ」の手法で、役割が終わっている元野党の議員を糾合したが故に、推進力の弱い、しかも、舳先のブレが大きく、進路が定まらない「総身に知恵が回りかねた」政党であることがバレてしまった。更に、鳩山内閣でも、菅内閣でも閣僚や党の幹部の実力が遠く官僚には及ばないという実態が、「政治主導・霞が関改革」などは「画餅以下」のものとしてしまった。

小沢氏にしても、55年体制下で金権の卸元である田中角栄氏の手法を学びながら、短期間幹事長を経験しただけにしか過ぎない。外国の「リビジョニスト」らの考えを参考にしながら、自らの著書で諸々の政策提言を行ってきたが、自分の手足を自分で切り離し過ぎたがために、いざというときの手ゴマが枯渇している。

他方、自民党に目を転じてみると、これが実に情けない。東京で生まれ育ったガキが一流から三流の大学を出て、「地盤・看板・カネ」という親の遺産を相続する。「オラが国さの代議士先生」として永田町にデビューする。これも親の遺産として引き継いだ、党内勢力(派閥)と選挙区の「義理と人情」を糧として条件反射(パブロフの)だけの学習で旧来通りの経験を積み、当選回数で、専門外の(専門があれば!)大臣の椅子にありつく。

親をはるかに凌駕するほど優秀ならば世襲が必ずしも悪いことではないが、殆どの場合、親よりできの悪いガキが後を継いでいる。しかも、実力のない総理(官僚の道具)が、シガラミとコネで選ぶ「閣僚」である。極々一部を除けば、とんでもない無能大臣がほとんどである。

この閣僚が、明治以来一貫して、一流大学を優秀な成績で卒業したエリートとして長く君臨してきた官僚を制御できるわけがない。ましてや、国際的にも認知されている米国の被保護国である日本で、戦後65年以上もの間、米国の「僕」としての実績を積んできた官僚の厚い壁は、震度9の地震と30メートル級の津波でも壊れそうもない。

これからは、自民も民主も仲間内の無能な議員を排除して、精鋭ぞろいの「党」を一党作り上げるべきである。現在の自民・民主の中のリベラル・改革派の議員は、現在の野党のどれかと合流して「真正野党」を構築すべきである。国民性と日本の実情を踏まえた強力な与党に対して、「真正野党」日本の民主主義を守るべく、その役割を果たせばよい。

日本に「二大政党」ができるのは、本当に「独立」が達成されて、「軍事力」ともども「普通の国」になってからでなければ、米国などの「二大政党」の現実味はない。もっとも、その米国の共和党と民主党にも差が無くなってきているのは確かだが。
.26 2011 未分類 comment0 trackback0

9・11のブッシュと3・11の菅

 9.11テロ事件は、足取りがおぼつかなかったブッシュ政権にとって「天からの贈り物」だった。就任の時点で彼ほど尊敬されていなかった大統領は、多くの人の記憶の範囲にはいなかった。9.11の前までは、ブッシュは国民の期待を担って大統領に任命されたのではなく、共和党寄りの最高裁によって任命されたという不透明な選挙結果だという見方が、多くのアメリカ人の意識の中に根強く残っていた。

ジョージ・W・ブッシュはアメリカの大統領としては不適格な人物であることは誰の目にも明らかだった。筆者の知人である、M・クロー氏(ハーバード大・エール大・モルガン証券勤務)は、ブッシュが選ばれた時、筆者にこう言った。「ヤツは日本が地球儀の上で何処にあるのか知っているかな?」と。筆者は不快な気分に襲われた。大統領になる男が日本の場所を知らないかもしれないというほど米国では日本のことを侮辱しているのかと。

ところがそうではないことが解るのに時間は要らなかった。ブッシュの米国内での評価は相当にひどいモノだという事が解った。

彼には知識がない。
彼の頭はかなりお粗末だ。
歴譜代大統領の中で最も言語能力がない。
原稿なしで喋った時は辻褄が合わなくなる。
多少とも突っ込んだ話をすると、最初と最後は正反対の話になる。
外交手腕やコミュニケーション能力は全く期待できない。
など、書けばきりがない程の愚物であった。

米国大統領であるという事は、今では世界一の権力者であると意味するものである。その地位にある者には、一定以上のバランス感覚や調和の感覚を備えていてほしいと誰もが期待する。

その時点で、ジョージ・W・ブッシュがその最低基準すら満たしてはいないという事が判明していた。彼の発育段階がまだ青年期を脱していないという事を示す材料が、TVに映る彼の言動がそれを示していた。

政治が道徳とは無関係の活動だとは広く認められているが、民主主義国家で最高の地位につく政治家には、どうあっても人並以上の「まっとうさ」が期待される。その「まっとうさ」が、究極のところその政治家の政策を左右する。
だが、ジョージ・W・ブッシュの中に道徳的資質をいくら探せども何もないという程の酷さだった。

だから、誰もこの問題に触れないようにしていた。
アメリカのメディアはその事にチラッとすら触れないようにしていたし、野党・民主党の中にそう思っている人がいても、表だってそれを口にしなかった。

通常だったら、あるいは別の状況下だったら、つまり、政治家の論争も有権者の意見も政党中心で回っているときだったら、人々は敵対する政党の「大統領」を、その地位に必要な資質に欠ける無能な大統領として描き出すことに何のためらいもない。そのような政治批判は、普通は話半分としてしか受け取られないからである。

ところが、ジョージ・W・ブッシュに関しては、その批判が余りにも的を射たものになってしまう。本当にバカだからバカだと言えない。だから、ブッシュに関してはこの種の話題は「タブー」となっていた。

このジョージ・W・ブッシュにも思いがけず出番がやって来た。9・11のテロである。思いがけずなのか、仕組まれたものであるのかは別として、9・11の前と後でアメリカは大きな変貌を遂げた。ブッシュの役割も決まった。大統領としての仕事をさせてもらえることになったのだ。

しかし、市場主義者(金融勢力)と軍産複合体によって大統領に仕立て上げられたブッシュにとっては、アメリカの民主主義が危機に瀕し、大西洋同盟は破棄され、政治は強力な資本家にリードされようと知ったことではなかった。が、このことは今回のテーマではないので省略する。

一方、我が国の菅総理も3・11で息を吹き返し延命に成功した。しかし、左翼・菅流は小沢氏排除の内ゲバで民主党内の半数近くを敵に回した。資本家主導の米国政治ともしっくりしない。かつての厚生大臣時代の快挙を本人も周りも引き摺り、官僚ともうまくいかない。財界からカネを巻き上げ脅しあげるスキルはいまいち。

総理の周りに頭のいい政治エリートは存在しない。参謀がホームエリートの伸子夫人では世間が認めない。菅総理のために振り付ける人も、上質な演説原稿をかける人もいない。本人一人が総理の椅子を温めているが、立ち上がれば強烈な木枯らしが吹きつける。

保護国米国の民主主義はオバマ大統領になってもその危機的状況は変わらない。被保護国日本に本当の民主主義は育たないままである。市民運動家の菅氏も自分が何をやっていいのか、何をやっているのか濃い霧の中での視界不良を「奇貨」にしているのではないか。

それでなくても、日本の総理と話をしても何もならない。外務省と話をしても経産省や農水省が反対してくる。日本を相手にした時にだれと話せば責任を持つのか皆目分からないというのが国際社会の定説である。菅総理はこの定説を更に完璧にしている。

菅氏では民主党の再生はもはやできない。小沢氏をもってしても無理な状況である。小沢氏が復権しても、ヒラメやコバンザメのような木っ端議員が右顧左眄して政治空白を作るだけである。松下政経塾のような「タコツボ」で政治を学んだような人材に、東西冷戦後のアメリカと世界、9・11後のアメリカと世界を相手の政治は所詮無理である。

ここはひとつ、菅総理だけが占有している「解散権」を執行して、個人的恨みを晴らすもいい、民主党を解体するもいい、まともな政治世界を取り戻して欲しい。菅総理にできることは、解散を通じて、いまこそ日本に必要な政治家を発掘して欲しいし、その機会をつくりだして欲しい。こんな国の政治家になんかなりたくないという有能な人材が政治をやりたくなるような土壌を準備して欲しい。

つまらぬ政治家を落選させるのも重要な政治行為である。今それができるのは、「菅総理!あなたしかいない。あなたは重要人物」なのである。貴方の決断は歴史に残る重大な決断となる。それこそ、ご自身の望みではないか。
.25 2011 未分類 comment0 trackback0

譲り下手 譲られ下手 電車の中は愉しい

 東日本震災時の、あの繰り返し放映された「広告機構」の効果であろうか、このところ電車内で高齢者に座席を譲る若者が増えた気がしている。筆者自身は比較的席を譲られる機会が多い(自慢にはならないが、同行している家人が驚くほどである)。「譲れ、譲れ」という強い電磁波でも発しているのじゃなかとからかわれるくらいである。

震災以前は、日本の若者も勿論だが東南アジア系の若者が「どうぞ」とはっきりした口調とともに目で促すようにして譲ってくれることが何度もあった。

最近、日本人らしき若者が席を譲る場面に出くわすことが多くなった。ところが、三文役者の芝居を見ているようで、その場にたまたま居合わせた筆者は何度も言い知れぬ怒りに思わず怒りたくなることがある。

まず、折角譲るのに黙って立って場所を移ってしまう。何の所作か、一瞬戸惑ってしまう。譲られた相手と思しき人物も突然空いた席に座ってよいのか否か逡巡する“間”がある。一言声をかければ良いものを、それができない。おそらく日本人の若者なのだろう、気恥ずかしくて意思表示ができないようだ。

また、目の前に立つ高齢者を胡散臭そうに睨み据えたあげく、大儀そうに立ち上がりフラフラと場所を移動する人。若い女性に時折見かけるタイプである。折角の善行に爽やかさはない。傍で見ていて不愉快にすらなるし、かえって無礼であろうと思う。それでも、高齢のご婦人は彼女の後姿にお礼の言葉をかけて嬉しそうに着座していた。

見ていて気持ちがよいシーンも沢山ある。「どうぞお掛け下さい」「いいえ結構です」「どうぞ、どうぞ」「そうですか。ではお言葉に甘えて」という会話が交わされて、立っている高齢者が座り、若者が立つという、儒教的礼法から言えば落ち着きのよい光景が完成したときである。

見ていて案外気分がよいことがある。それは、中年の男女が高齢者に席を譲るシーンである。声のかけ方も落ち着きがあり、所作も品が良い場合が多い。これを受けた高齢者の所作が同じく品が良い場合はみていて本当に気持ちがよい。旧き佳き日本とはこういうものかと、ふと頬が緩むことがある。

次に、不愉快極まりないシーンに話を転じてみよう。この原因は、どちらかといえば、譲られた高齢者の側に起因することが多い。歳のせいなのか、頑固な性格に由来するものなのか、はてまた、自意識過剰なのか、とにかく何か変な人がいる。

若者が「どうぞ」と言って席を立ってもウンでもなければスンでもない。黙ったまんま座ろうともしない。立ちあがった若者も場が保てなくて、きまり悪そうに再び着席するか、他の場所に逃げるように姿を消す。それでもその老人は座ろうとせず立ったままである。他の人も、その老人に優先権があると思い、座る訳にもいかず空いたまま時間が過ぎる。

見るからに高齢者と思しき男性に若者が席を譲った。ところが、「いらん」と一言、むげに断る人がいる。年甲斐もなく、無礼極まりない。これは男性に多い。素直に座ればよいものをと腹が立ってくる。

席を譲られるほど衰えてはいないという意思表示なのか。電車の中では絶対に座ってはならないという家訓でもあるのだろうか。以前、このようなことで余程嫌な経験があり深く傷ついているのだろうか。それとも、悪質な「痔」を患っているのか、座ると「漏れだしそうな泌尿器科的緊急事態」にあるのであろうか。あるいは、親切を「憐れみ」ととり「屈辱」を感じているのか。いずれにしても、どこか間違っているように思えてならない。

譲ってくれた若者に対して座りたくなければそれなりの礼儀を尽くす言葉を返すべきだと思うが、それができない。このような偏屈者がいると、その若者は二度とこのような振る舞いをしたくなくなるものであろう。そのシーンを見ている他の若者も同様に感じるかもしれない。

近頃の若者が礼儀を知らないとよく言われる。しかし、無礼な高齢者も結構多い。このような高齢者こそ普段若者の無礼さを嘆く言葉を発しているのかもしれない。しかし、折角の若者の親切心から出ている申し出に対して「受けるも断るも」それなりの礼儀というものがあるはずである。無礼な老人が若者の美徳を無残にも踏みにじっている事があることを知らねばならない。

朝の通勤時、座席でぐっすり寝込んでいる若者もいる。これを、寝たふりだと思ってはいけない。

学生時代は校則で縛られた揚句、社会に出た今は、社則で社畜として飼いならされた振りをしなければ生活の基盤を失う息苦しい毎日の上、パワハラを躱し、身を削ってサービス残業なる摩訶不思議な慣習に体力を消耗する日本の過酷なサラリーマン達である。

深夜に帰宅し早朝に郊外の自宅を出る。彼らには、電車内での睡眠は欠かすことができない。このような人たちも多い。女性も同じである。女性の場合はセクハラ攻撃をかわす一日というさらに過酷な毎日であるかもしれないし、生理痛のピークなのかもしれない。あるいは、昨夜遊び呆けた結果かもしれないが、それでもいいではないか。必要なことではないか。高齢者としては、恨みがましく睨みつけながら自分の血圧をあげている場合ではない。

こんなに混み合っている電車に乗り込んで申し訳ない。邪魔をして申し訳ない。年寄にはそれなりに「これが全て」という用事があるのだから許してちょうだい。「毎日御苦労さん」「われわれも若い頃は同じだったよ」という気持ちでいる方がよい。リュックを背負った「やまんば」の集団などはもっての外である。ラッシュアワーを避けるのが礼儀というものだ。古ぼけた雀がワーワーキャーキャー、いい加減にせいと怒鳴りたくなる。

国を支え家族を支え、納税者として長い長い茨の道を歩まなければならない若い世代。立ったまま馬のように眠っている若者を見たら、むしろ年寄の方が席を譲ってあげてもいいくらいである。「お疲れだね」と、このような心境になりたいものだ。

筆者はどうなのか。
前に座っているひとの雰囲気から、この人は「表参道で降りそうだな」とか、このタイプは「渋谷型」とか「新宿型」だなとか、この人は、昼間スリッパの「霞が関族」だなとか、みるからに「丸の内族」だなとか、いろいろ推測してその駅で席が空くのをひたすら楽しみにする。一種の「賭け」を愉しんでいる。

座席を譲られたら、満面に笑みをたたえ「ありがとう」と礼を言って素直に座る。斜め前、つまり優先順位が一番でない場合は、一番の人に「座ってもいいですか?」と愛想よく語りかける。たいてい、「どうぞ」となるので「ありがとう」といっていそいそと座る。

筆者よりあきらかに高齢だと思われる男女には席を譲るし、妊娠中の人にも譲る。他者に喜ばれ感謝されことは実に心地が良い。

このようにして電車内を快適に過ごすようにしている。

電車の中は本当に面白い。社会学や経済学の宝庫であるし、時代の鏡である。こんな素晴らしい「場」を愉しまないのは勿体無いと思っている。
.25 2011 未分類 comment0 trackback0

台風あれこれ

 6号台風で甚大な被害を受けた方々に心からお見舞いを申し上げます。TV台風報道が的中した地方とまるで的中しない地方とでは雲泥の差である。

ここ数年の台風の報道は、さながら映画の予告編の如くであり、狼少年ならず「狼TV」の様相である。息づまる超過激なシーンと、思わせぶりなラブシーンを切り貼りした、まるで、大学生がコピペした卒論のような映画の予告編を見ると、解ってはいても、何が何でも観なくてはならない誘惑にかられるものである。これと同じ手法だ。

近時の台風報道は、甚大な被害が出た所ばかりを数か所繋ぎ合せ、台風サスペンスばりにショーアップして、スタジオが異常に興奮しているといった塩梅である。現地からの実況中継は戦場からのライブかと錯覚するほどの狂乱状態である。時折、すぐ傍の平穏な光景が映ることがあり、ひどいシーンばかりにカメラを向けて、ことさら視聴者を恐怖に陥れようとする作為に白けることさえある。

台風の進路予想はよく外れる。経済予測よりは天気予報の報が多少は信用できるとは思っているが、それにしても少々ハズレ過ぎではないか。

経済予測の方は、官僚らの握っているデータが全て公開されてはいないし、余程濃密な人間関係がなければ入手できないであろうから仕方がない。また、入手できたデータには恣意的なバイアスがかかっていることがあるから、予測を述べている筈が、体よくプロパガンダをさせられている事がある。ますます当たらないというわけである。

天気予報のほうは、官制報道であるし、科学的データを元にリアルタイムで報道しているようだから、意図的な作為は無いはずだ。これが、民間だったらもっと緻密で正確になるかもしれないが、「先物取引」などの魔の手が入ると信用できなくなってしまう。

さて、筆者は、かつては「台風銀座」と呼ばれた九州育ちであるので、子供の頃は毎夏の台風シーズンには様々な思い出がある。「恐怖と闘争」の記憶である。

子供の感覚とは言え、とにかくあの頃の台風は激しかった。屋根が飛び、瓦が空を舞う。雨戸が剥がされ、垣根が押し倒され、木が根こそぎ倒される。川は氾濫し、橋は流され土手は決壊し、田畑は湖の如しであった。

小学生の頃は、父が筑豊の鉱山会社に勤務していた。課長だったか部長だったか記憶が淡いが、父もまだまだ屈強な年頃だった。

いざ台風となると、まず会社の工務部(いまは大手の建設会社)から数人の職人が来て雨戸に×印の板を打ち付ける。さながら「閉門蟄居」のようである。それでも、弱い部分はある。それは、父が内側から板を打ち付けて補強し、最高風速の間中、父と二人で手分けして支えなければならなかった。13歳年上の兄は旧制高校の寮に入っていて、夏休みはアルバイトに忙しく、大学生の頃は、夏休みは家に寄りつかなかった。

父と筆者が我が家の「男手」として、筆者は何だか一人前の男になった心境で必要以上に頑張った気がする。父が鉱山技師だったので、担当が鉱山の現場だったせいであろう、荒くれの炭鉱夫たちが手伝いと称して何人も我が家に集まってくれた。倶梨伽羅もんもんの怖い男たちだった。手配師の親分が来た時は、子分たちと台風を肴に酒盛りが始まり、母親は台風をそっちのけで、酒肴の準備に追われていた。

台風一過、壊れたところは工務部の工人たちが手際よく修繕して何事もなかったようにしてくれた。その大工の働きぶりに憧れたり、倶梨伽羅もんもんの荒くれに憧れたり、台風のたびに「強い男たち」に魅せられたものだった。

上京後、いまは高台の鉄筋マンションだから心穏やかに台風を迎えられるが、一戸建てに住んでいた頃は、「今度の台風で屋根が飛ぶ」、次の年は「今年こそ屋根が飛ぶ」と毎年心配が絶えなかった。なにしろ、台風といえば強烈な思い出しかないから毎度最悪の事態しかイメージ出来なかった。

北九州だったから、鹿児島や高知などよりは台風の勢いは弱かったのだが、昔は九州縦断の台風もさほど勢力は衰えなかったように記憶している。

それに比べれば、TVのバカ騒ぎの割には、東京で迎える台風は「そよ風」みたいなもので、台風とはとても言えない。筆者は、台風当日に雨具で身を固め、暴風雨(そよ風並み)の中を歩き回るのが好きだ。家人からは、「貴方は何か変だ」といわれるが、なぜか、台風の日は「血沸き肉躍り、脳内お花畑」状態になってしまう。

東京に被害が発生しないことはなによりであるが、正直言って「何か物足りない」気がする。それだけに、TV局のスタジオのバカ騒ぎがいつも腹立たしい。かといって、子供の頃のNHKラヂオの陰気で無機質な、「北のカゼ、風力・・」といったアナウンスも言い知れぬ恐怖を煽っていたように思う。

報道も今少し、民放であっても冷静沈着であってほしい。お祭りではないのだから。
.21 2011 未分類 comment0 trackback0

司法は独立していない

「最高裁判所事務総局」は、日本の最高裁判所において、その庶務を掌らせるために置かれる附属機関。最高裁判所長官の監督のもとに最高裁判所事務総長によって掌理される。裁判所法では最高裁判所の庶務を行うとのみ記され、具体的に行うべき事務は明示されていないが、最高裁判所規則・最高裁判所規程に基づいて、局・課や様々な役職が置かれるとともに各課の所掌事務が定められており、最高裁判所の裁判官会議の議に基づいて行われる司法行政事務に深く関わる。(ウイキペディア)

「事務総局」を冒頭に掲げたのは、司法行政の最高主体は最高裁判所の裁判官会議にあるとされている権限がいまや形式上だけのものとなってしまい、「事務総局」が実際に権力を持っているからである。
戦後の裁判官は理論的には行政の統制から独立しており、同僚の裁判官のみが彼らを裁けるとしているのだが、占領軍当局が慎重に引いた「司法と行政」との境界線が、占領が終了した途端に、極めて巧妙に取り除かれてしまった。

占領軍の敷いた戦後の制度では、全ての裁判所は自治・自律を原則としており、これを担保するために各裁判所の運営は判事の手に委ねられ、この自治性を守るためにそれぞれの裁判所に事務局が設けられた。最高裁事務局もこの文脈の中で設置されたものである。

一方、下級裁判所のレベルでは、裁判官が裁判実務に専念できるよう司法行政の雑務は裁判所の所長が事務局を使って処理できるようにしてきた。

1955年、最高裁は全国の司法行政を一括統合するために、下級裁判所事務処理規則を改正した。その結果、各裁判所行政の最終的な権限は「所長」およびあたらしく考案された「常置委員会」に委ねられた。ということは、結局最高裁事務総局によって制御されるようになった。

現在、最高裁事務総局の司法官僚群が日本の司法全般を掌理している。裁判実務に携わることのない官僚が、「裁判官の任命」「昇格人事」「給与の決定」「解任」を牛耳っているという驚くべき実態である。
最高裁事務総局は、下級裁判所に関するあらゆる情報や資料を独占でき、「規則制定権」や「裁判官人事政策」などを通して、着実に司法への掌握を固めて来た。また、事務総局は、司法研修所をも実質的に監督下においている。

占領終了後の早い時期に最高裁事務総局の要職を占めた大半が、戦前の思想が色濃く骨の髄までしみ込んだ「旧司法省」の著名な官僚だったことも注目される。
この重大な権力の移行はそれほどの困難もなく成し遂げられた。「法の番人」として最高の地位にある判事も、官僚にはかなわないという構造になってしまったのである。

「最高裁事務総局」は、司法官僚の“エリートコース”である。典型的な司法官僚のキャリアは、事務総局七局(総務・人事・経理・民事・刑事・行政・家庭の各局)のうち、いずれかの局付判事補から始まる。殆ど、東大か京大卒であり、理想的には、在学中に司法試験に合格している事が求められる。

また、「給与の決定」や「予算」などで、ここにも財務省の力が大きく寄与し、実質上財務省が差配している。つまり、財務省」の役人が要所に入り込んでいるということである。

最高裁判事の選定にあたっても、裁判実務経験者より事務総局経験者のほうがはるかに多く任命されている。
日本のトップにいる判事たちは、「司法官僚」が、リベラルな裁判官を地方に左遷し、昇進や給与で差別してもなんら知らぬ顔をしてきた。さわらぬ神に祟りなしである。

「法の良心」にてらして公平な判決をする判事は疎んじられ、検察のいうままに有罪判決を下し、できるだけ調停に持ち込み、「判決の実数」をあげた者が出世するという構図が定着してしまった。
したがって、一般的な刑事事件では人権擁護の立場に立つこともあるが、「行政訴訟や政治的案件」となると急速に消極的になるといわれる。目が、法にではなく、官僚の方に向いてしまうという事である。裁判官といえども偉くなりたいし、安楽に生きたいらしい。

検察の取り調べの非道が国民周知になった故であろうか、小沢氏の件では、裁判官の独立的判断が遂行されているようである。村木裁判など、近時、冤罪問題が騒がれているが、日本の司法がどの方角に進むのかまだ霧の中である。

「事実を曲げても真実を」という、検察の在り方を含め司法の在り方は民主国家たる重要な一面であるがゆえに国民は目が離せないのだが、まだまだ関心が低い。

中学生になって学校で習う、「三権分立」が、あの三角形の図で表されるだけのものであってはならない。普段縁遠いこととはいえ、「司法の非独立」は国民の生活に直接かかわる身近な問題であることを強く認識しなければならない。いまや、立法府の独立すら危うい実態であるという事は、日本が民主主義国家であることの根底を脅かしている重大な問題であり、喫緊に取り組まなくてはならない状況である。
未熟な、理解不能な暗黒国家であると世界に烙印を押されてしまう前に。
.19 2011 未分類 comment0 trackback0

菅総理にできること

 政治家の政治家による政治家のための政治。官僚の官僚による官僚のための政治。財界の財界による財界のための政治。それに加えて現在は、菅さんの菅さんによる菅さんのための政治。民主党の民主党による民主党のための政治。人民の人民による人民のための政治、つまり、国民の国民による国民のための政治がない。

根回しが不十分な政治家の言説は人気取りのパフォーマンスだと批判揶揄されることは重要なポイントをついている。官僚の了解、財界の了解、その次に閣内・党内の了解を得られた政策案でなければならないという事である。

政治家単独、総理単独の政策は如何なるものであれ、「孤独な寝言」扱いされる。俺たちの許可もなく何を勝手なことをほざいているのだという事である。

官僚からこの法案を通してくれ。地元にこのような還元をする。先生にはこのようなメリットがあると言われる。財界から、このようにしてもらいたい。成功報酬は・・だと言われる。まるで、官・財にとっての道具のような総理であり、国会議員である。極論だが、従来型の日本の政治というのはこのようなことであった。

ところが、7月13日夕刻、菅総理が突如として記者会見を行った。
「脱原発」を表明した。これには、民主党も自民党も驚愕した。勿論、官僚も財界も驚天動地の衝撃を受けた。

①原子力発電への依存度を計画的、段階的に引き下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現。
②節電などでこの夏・冬の必要な電力供給は可能。
③原子力発電所の安全性の新基準に関する統一見解に基づいて原発の再稼動を認めることはあり得る。
 ④脱原発を争点にした衆院解散は考えていない。
以上である。
 
だが、この記者会見内容に対するマスメディアは、「具体的な時期や中長期的な電力安定供給の道筋は示しておらず、実現の見通しは不透明だ」(読売新聞)「脱原発 方法と根拠示せ」(朝日新聞)と極めて不評だった。

菅総理としては、「菅辞任」の包囲網が狭まり支持率も急降下している刻下、手詰まり感は否めない。国民に受ける政策を掲げて菅政権の人気浮揚を考えるのは当然だ。

不謹慎を承知で、この総理の表明の内容についてはともかく、その真意・真相と思われることについて言及してみたい。

この表明は、根回しをしたら完全に否定されてしまう事は明らかである。官僚も財界も賛同するはずがない。日和見・風見鶏の与野党ほとんどの国会議員(自民党の河野氏・社民党の福島氏や共産党を除く)は、否定するにも同僚議員の動静を見るばかりで旗幟鮮明にはしない。つまり、遠巻きに様子を見るだけである。

ここはひとつ単独で表明するしかない。国民の大多数は賛同し、菅政権を支持してくれるだろう。菅政権が延命出来ればいいのだから遣るしかない。

官僚も財界もいまや菅政権を「堕ちた犬」として打擲する機会を虎視眈々と待っているだけで協力を期待するだけ無駄である。しかも、自分を「罠に嵌めた」勢力ではないか。

非常事態に当たっては、「超法規的リーダーシップ」を発揮せよと叱咤されたはずなのに、総理自らの「国民が喜ぶ政策」を打ち出したのに、なぜこのように批判されるのか。菅総理としては不可解千万なのかもしれない。

しかし、官僚から、国民に選ばれた政治家が政治の主導権を奪いとるという意欲はいまや単なる野望になってしまい、しかもその野望は打ち砕かれた。日本の政治の海原に大波浪を引き起こし、大変革を引き起こす筈だった海原は「ベタ凪」状態。

遅まきながら、政治主導の真似ごとをしても既に時遅し。ポチャンと小石を落として出来る波紋のようなものである。

民主党と菅政権は完全に羅針盤のない船のようになってしまった。頼りになる船長を欠いた幽霊船のようなものである。

「脱原発」そのものは悪いことではない。しかし、菅総理の表明が自信無げな恐る恐るの表明になっていて、実現性に大いなる疑問符がつくのはなぜか。それは、すでに終わった人の世迷い事にしか過ぎないということであり、足元を見透かされているからである。

せいぜいできることは、「自分はこのような政治を本当はやりたかった。それが出来なかった原因は実はこれなんだ」と恐れずに、真相を明らかにして、総理の座からすっくと立ちあがり、足音高く消えていくことである。きっと役に立つことがあるはずだ。
.18 2011 未分類 comment0 trackback0

罠に堕ちた菅直人

 1993年、自民党が下野し細川政権が誕生して以来、既得権益集団は小沢氏の政策を恐れて来た。既得権益集団にとって幸いなことに、連立政権は分裂を重ね、自社連立政権という禁じ手を経て再び自民党政権に立ち戻り、以来従来型の行政が継続された。

ところが、2009年、あろうことか小沢を核とする民主党政権が樹立されると言う「あってはならない事態」が到来した。その可能性が濃厚になるにつれ、例によって謀略がしかけられた。小沢の政治献金疑惑である。事情を知る国民には不可解な事件であった。

それが故に、小沢政権は実現せず鳩山政権が誕生した。「日米対等外交」「増税はしない」などともに「政治主導」「官僚の天下り廃止」を打ち出した民主党政権の誕生は既得権益にとっては到底容認できない政権となった。速やかに潰してしまわなければならない政権であった。

「日米対等外交」などとうてい考えられない、その方法をまるで知らない外務省は鳩山政権に協力をするはずもない。むしろ、裏に回って「鳩山を相手にするな」というメッセージを米国に伝え、サボタージュを決め込んだ。

「増税はしない」「埋蔵金を吐き出させる」などのマニュフェストは財務省にとって絶対に承服できない政策である。財務省は、官僚を動かしたければというより、協力してほしければ官僚の言う事に従うべきだと恫喝した。さもなくば、民主党政権は一歩も進まないことを思い知らせた。

鳩山の政治資金の出所(鳩山家お子様手当)がスキャンダルとして前景化された。もともとネタとして温存していたものである。全ての国会議員のこの種のネタは秘蔵され出番を待っている。

さて、菅直人を首班とする政権に移行した。小沢を切り、鳩山を退陣させた後、いかに菅直人を料理するかという段階になった。

市民運動家から成り上がった菅直人を籠絡することは簡単である。
「閣下」と呼べば「日向のアイスクリーム」状態になる男だから、赤子の手をひねるようなものだ。

「菅政権には協力を惜しみません」とでも言えば、天高く舞い上がり言いなりである。そのためには、小沢を排除することを唆す。小沢とその一党を干し上げれば「菅閣下」の思いのままだと洗脳する。民主党の分断策だと気付いてはいても、総理の座の安泰には代えられない。やっと総理になって野望が実現したのだから、日本のことや党のことなどどうでもよい。官僚と財界やマスコミが味方についてくれるのなら「なんでもします!」状態であった。民主党政権の中心人物を庇うどころか、小沢という人物を徹底的に貶めることによって既得権益集団の歓心を買うという挙に及んでしまった。

次に唆したのは、マニュフェストの破棄である。全ての公約はもとより「公務員制度改革」などを行う事は国家を混乱に陥れ、菅政権は立ち往生どころか徹底的に打ちのめされ、菅直人は不名誉な放擲をうけ、総理としても、個人としても歴史に例のない無能者の烙印を押されると脅しあげた。

先の参議院選挙は傑作だった。消費税のことである。「自民党は既に消費税の値上げ10%を表明していますよ。ここで、これをパクって消費税増税を打ち出したらいかがでしょうか。自民党と同じですから国民には抵抗がありませんよ。民主党の勢いからすれば何の心配はありませんよ。もし上手くいけば総理は歴史に名を刻む功績ある総理であることが確実となります。菅総理に輝く実績となりますよ」と、秘めやかにヒソヒソと使嗾された。

過去の例からいっても、消費税アップを打ち出した選挙は大敗している。民主党が消費税アップを打ち出して選挙に負ければそれはそれでよし。民主党の弱体化は望むところである。もし勝てば、思いのほか早く消費税を段階的といえどもあげることができる。どちらに転んでも上々の策である。財務省の深謀遠慮に菅は簡単に引っかかった。その結果、参議院は捻じれてしまい、政権運営は困難になった。

この参議院選挙で負ければ退陣すると表明した菅総理は、選挙敗北後、だんまりを決め込み居座った。この居座りが菅総理の信用を著しく下落させた。

菅は完堕ちした。筋書きどおりである。哀れにも、成り上がりの菅とその一党は、いまや「不毛の荒野に立つ」落ちぶれた野盗の群れと化してしまった。

もはや民主党は政権政党としての力は失ってしまった。菅が解散しようがしまいが、民主党はこのまま野垂れ死にする。もう民主党が第一党となる可能性は失った。

再び、かつての、素直でよく言う事を聞く、それでいて茶番劇の経験も豊富な自民党的政権が出来上がるだろう。よく解らないまま「家業としての国会議員」になった2世3世のボンボン議員たちは、官僚の振り付け通りに上手に振る舞う事がDNAレベルで身体に染みこんでいる。楽な政治家でなければこの仕事を継承する気は無い連中ばかりである。

これで、既得権益集団としてはわが世の春が蘇るということになるかといえば、さに非ず。

金権スキャンダルで政界から放逐されるはずの小沢が復権しそうである。既得権益集団の筋書きにも狂いが生じることがある。なにごとも遣りすぎが生んだ失敗である。小沢が民主党内で復権し、マニュフェストへの回帰がなされ、小沢政権の誕生ということになれば元の黙阿弥。

小沢裁判の時期を見ながら、その少し前に退陣させるか、むしろ「解散総選挙」をうたせる。後者の方が民主党政権壊滅作戦としては上策である。その上、今後のエネルギー政策推進の観点から、全ての国会議員に賛成反対の踏み絵を踏ませることができる。

さて、次なるスキャンダルの謀略のターゲットは誰か。用済みになった菅か。己を知らない前原か。再びみたび、謀略旋風をマスコミが煽りたて、国民はカタルシスを感じさせられ、密かに事は進められる。戦後の日本の特殊極まる民主主義政治のいつもの光景が再現される。

「政治の劣化は国民のせいだ」という意見もある。それもあろうが、国民は何も知らされていないのだ。知らない国民がバカなのだという事もあろうが、この国の国民の管理は徹底されている事を忘れてはならない。これについては、稿を改める。
.16 2011 未分類 comment0 trackback0

一万歩は簡単

 このように言えるまでの、この数十日は大変な日々であった。
動物なのだから動かなければ始まらない。動くことができなければ動物ではないという単純な論理で始めたことである。

3・11の東京を襲った大地震・・東日本大震災の被災者にはなんとも申し訳ないが・・の日に「帰宅難民」の一人となった経験が動機であった。
その日、とにかく歩けば何とかなると歩いた結果が二万八千歩であった。途中で田園都市線が動き、二子玉川から乗車できたからである。

そうでなければ、自宅までたどり着くのにあと三万歩近く歩かなければならなかったし、すでに疲労の極致あり、足が動きにくくなっていた。69歳の凡人には過酷な事態であった。

しかし、2万8千歩を歩いて解ったことがあった。深夜帰宅し爆睡した翌日、足腰が凝り固まって歩行困難になるどころか普通に朝出勤ができたことである。「まだ何とかなるぞ」という実感に、内心喜びを感じた。

「1区間だから贅沢ではなかろう、タクシーに乗ろう」とか、夜遅くなると、「満員電車で立って帰るより、タクシーを使った方が明日の仕事にはよさそうだから」とか、何かと理由をつけては、歩くことから逃げていた。

そうなるとてきめんに嫌なことが起きる。階段がきつくなり、途中で休むようになった。歩いていてもすぐ足がだるくなり、運ぶ足が重く感じるようになった。たまのゴルフでも、明らかに足腰が揺れて飛距離は出ないし、方向が定まらなくなった。

机に座っての読書や書き物が長時間出来なくなった。立ったまま靴下をはくことができなくなり、ズボンの着脱も苦しくなってしまった。これは、肥満のせいでもあるが・・・。

一念発起。我が人生で何度も遣った一念発起。たいがい上手くいったためしは無い。それでも懲りずに一念発起して、「とにかく歩く」ことにした。「歩くことに自信を持ちたい」と思った。「動物が動けなくてどうする」ということである。

根が浮気者だから毎日同じコースというのは気に入らない。今日が西なら明日は東という風に、住まいを中心にして東西南北を彷徨うごとく歩き回った。道中、きょろきょろするものだから時間がかかった割に歩数が伸びていない。

反省して、一万歩を毎朝確実にしようと作戦を替えた。万歩計をいちいち確かめるのも、株価の上下に一喜一憂する街場の株主みたいだから、これなら確実に一万歩というコースを固定した。

他の人を見ていると、グランドの周りを黙々と何周かしているようだが、ハツカネズミみたいで好きになれない。というわけで、グランドの周りの道路をコースに巻き込み、大・中・小のコースを決めた。大は約2400歩、中は1350歩、小は800歩である。グランドの周りは約500歩にしかならない。

大を2周、中を2周、小を2周、グランド周囲を2周で一万歩になる。短足の筆者が歩くのだから歩幅がせまい。あちらの生け垣の花、こちらの庭の花(本当に花であって黒い髪の花ではない)と浮気するので若干歩数は増えるが、概ね一万歩になる。

之を、朝5時半から6時半にかけてすませ、6時半からのグランド脇での「ラヂオ体操」に参加して終わり。そこから自宅まで1000歩あるので、歩く距離としては充分である。

さらに、出勤時の駅までの歩行と仕事場の最寄り駅からの歩行の往復など、諸々の歩行で、一日に1万5千歩は軽くオーバーしている。

朝の1万歩が確保されていると、それ以外の歩行が多少ダレても気に病む事がない。道路いっぱいに広がって歩くオバサマたちを急ぎ追い越すようなことをして、野獣を刺激する必要もない。携帯を見ながら歩いている若い女性の緩慢さも気にならない。

なによりも、階段が楽になり、歩くことが億劫にならなくなった。タクシーとも無縁になった。買い物を頼まれても「はいはい」と軽い気持ちでスタコロ歩いていけるようになった。今日の歩数を増やせる・・という心境になれた。

ジョギングは避けている。老人の関節に重力の負荷は怖い。時々競歩の真似ごとをするくらいだ。ダイエット。そんなものはどうでもよい。無駄な飽食をしなくなった昨今、このウオーキングを継続できれば副産物としてダイエットの贈り物にありつけるかもしれない。

あまり欲張らずに、「動物なのだから動けなくなったらおしまいだ」くらいの気持ちで遣っている。雨の日は休養する。毎日、歯をむいて頑張る必要はない。朝目覚めたら、何も考えないで出発すること。考えると、しなくてもよい「言い訳」ばかりが頭に浮かぶから。

軽いフットワーク。なんと気持ちがいいのだろう!!
.15 2011 未分類 comment0 trackback0

原発解散は厄介だ

放射能より怖い無能。馬と鹿のハイブリッドなど、的を射たユニークな表現を阿比留氏のブログでみた。その放射能より怖い無能の人が「原発解散」を打たないとは限らない。

そうなると、候補者は難しい局面に立たされる。自民党だから原発賛成。民主党だから原発反対という風に単純にはいかないであろう。公明党とみんなの党も単純には行き難いであろう。その他の野党は概ね原発反対ですっきりした論理展開が可能であろう。

さて、原発賛成の候補者の立場は苦しい。東北の被害は現在進行中であり、被災者は悲惨な生活の真っただ中にある。この状況で、原発賛成の候補者はいか様な政策を述べるのであろうか。恐らく無理なのではないか。

産業国家日本の経済の推進と環境問題、それに資源のない日本の立場が主力の政策を述べる事になるのであろう。この候補者たちをA群としよう。国民はA群を、日本の原子力村の豊富(?)な資金にまみれた金権体質とみるだろう。官僚と財界の走狗とみる。国民が納得する神話ではない安全の保証がポイントとなる。

ところが、「安全委員会」も「保安院」も今や信用がない。従来の体制下の学者の信用は見る影もない。原発賛成つまりA群の理論的・現実的バックアップは存在しない。という事は、A群では当選の見込みは極めて少ない。

原発反対派も難しい。これをB群としよう。このB群も刻下の正義に立脚していると単純にはいかない。日本の経済発展を減弱させてもいいかとなると必ずしも正義とは言えなくなる。そして、B群は正義の人でありクリーンの人であるかという事も疑わしい。

なぜなら、反原発事業グループがバックについていると国民は疑問視する。また、当選後に、原発の再開に対する論理の伏線が敷かれることが考えられる。つまり、論理的にすっきりとしない曖昧さが漂うということになりかねない。

何が何でも賛成、何があっても反対という明解な立場を表明するA群・B群の候補者もいるであろうが、小学生の学級委員会ではあるまいし、国家のエネルギー政策という重要なことが、「賛成か反対」に単純化されるのは難しい。

しかし、放射能より怖い無能の首相は、この単純化したイシューでの馬と鹿のハイブリッドのような解散総選挙を遣りかねない。

科学を政争の具にしない。科学の研究結果をカネで誘導しない。ひも付きのカネを押し戴くような科学者を排除する。これは是非とも押さえておかなければならない。

一人ひとりの候補者が原発の安全性を保証できるわけがない。A群の当選者が集団で国民と国家のための安全システムを構築しなければならない。その結果の原発の推進ということになるであろう。「安全システムの構築」には安易な取り組みは許されない。

この問題に関しては、政治家が「カネ」から離れることである。この問題については、A群もB群も「業界」から一歩も二歩も離れたスタンスをとるべきである。
なぜなら、この問題に関しては、国民は覚醒しているからである。従来のような、どこの誰たちが密かに決めているのか釈然としない「玉虫色」の決着は不可能であるからであるし、「お上」の言いなりになるという次元を超えているかである。現実的である。

原発の推進には、重厚な哲学がなければならないし、科学に対して誠実な姿勢が求められる。今までのように、国民を愚民として扱う事は許されない。官邸御用学者や御用学者、また御用マスコミもどう足掻いても従来のような誤魔化しはきかない。

官僚サイドに立った御用学識経験者もプロパガンダ担当のマスコミも手の内はすべて露見している。新聞は熟読されるし、TVでの発言も慎重に吟味される。それぞれの該当者はそれこそ命がけでなければならないであろう。

無能が原発解散をすることもできないまでに徹底的に非力化され、野垂れ死にのような退陣のほうが国会議員諸氏には楽であろう。

そうすれば、原発に関しては「当たり障りのない正論」をみんなで叫んでいれば済むのだから。あとでいかようにも立場を変えられるような、それこそ「玉虫色」の常套句を羅列すればいいのだから。世界に冠たる日本式問題解決策が繰り返されるのだから。

冷戦以降世界は変わった。米国の大統領も軍産複合体と金融勢力の代理者になったようだ。政治が、国民の知るところと全く別の権力にコントロールされてしまっているようだ。日本の政治が、政治家によって主導されるのか、官僚と官僚以外の勢力によって主導されるのか、あるいは財界にコントロールされるのか重要な分岐点に立ち至っている。

少なくとも、愚かな解散を打たせないように菅氏の退陣を成し遂げることが、与野党を問わず喫緊の重大事であろう。経験したこともない、苦しい選挙戦を避けるためにも。
.13 2011 未分類 comment0 trackback0

「民意を問う」の本番ですよ!

 民意を問うための解散が行われ、民意を問うための総選挙は数多く行われてきた。今回の、東北大震災と原発事故に由来する被災者の民意を本当に問う事が出来るのか、日本の戦後民主主義政治の真価が問われる、まさに本番である。

国会審議でも、「こんなことでは国民は納得しない」、「これは民意から大きく乖離している」、「国民は許しませんよ」など、国会議員の口から繰り出される民意とは一体何だったのか。単なる「常套句」だったのか。いま、それが問われている。

官僚たちについても同じことが言える。民意はこの辺りにあるであろうと勝手にでっちあげたレベルで、如何にも民意を充分斟酌したかのごとき政治を自分たちの都合のよい方に最終的には誘導してきた。今回は、架空の民意ではなく、現実としての民意を汲み上げることが出来るかを問われている。

「審議会」を立ち上げ、国民の代表者という設定で学識経験者・有識者を集めた審議会で、最初から決まっている結論に誘導し、民意を尽くしたという茶番を演じて来た。これからこのような茶番の審議会に選出される知識人なり有識者は、国民の厳しい監視の目を避けることはできない。もし、相変わらず喜び勇んで出るようなら、その人の命運もそれまでであろう。

マスコミは民意を代表し政治を監視し、官僚を監視しなくてはならない立場である。にも拘らず、官僚の定義する民意を追認し、行政の遣りやすいように道路整備を行ってきた。TVでは、コメンテーターたちが額に血管を浮かび上がらせる名演技で民意を代表してきた。彼らに国民は意思を代表してくれと頼んだ覚えは寸毫もないにもかかわらず、勝手に民意の代弁者の如く振る舞ってきた。目的は、適度にガス抜きをすることによって行政の意のままに各種政策が遂行される手伝いをしてきたにすぎない。

新聞もTVも、怪しげなアンケート調査などを駆使して、民意を断定し、国民が介在しないところで気ままに、「民意に添った施策である」とのプロパガンダをしてきた。

政治家も官僚もマスコミも本当の民意の掴み方を知らないまま、民意・民意と幻想を抱いてきたか、確信犯的に捏造してきたかである。

今回の、民意が掴みやすい状況において、かくも民意が捨て置かれ無視されているところをみると、本当に民意を問わなければならない事態に立ち至ると、何も手出しが出来ないようである。誰かが決めるだろう。時間がたてば状況が変わるだろう。厭きやすい国民は忘れてしまうだろうという事は、今回は起こり得ない。しかも長期にわたって事態は悪化の一途とも考えられる。

震災のみ、震災と津波、震災と津波と原発事故では民意は全く違ってくる。

犯人は明らか。犯罪に喩えることは難しいが、震災は自然の猛威であり、地震と津波は人為的ではない。しかし、防災が可能であったことが等閑にされていたとすれば自然による災害ばかりとは言えない部分もある。

一方、原発事故については人災による部分は無視できない。広島・長崎の原発と違って、大きな核爆発を起こしたのではないから一瞬にして大量の死者を出したわけではない。しかし、居住地域から強制的に排除され、生活の基盤を一挙に失ったばかりか、これから長期にわたって放射性物質とのたたかいを避けられない。

放射性物質を吸入した人間、動植物、土壌などは長期にわたって放射能の障害を受けることを強制される。深刻な障害である。今後の事故収束の在り方次第では、東北ばかりか、日本列島全域が危険区域となってしまう。

この事態を招来させた、謂わば犯人は明白である。国であり、電力会社であり、財界である。安全神話の流布に一役買った学者たちであり、マスコミである。

しかし、この原発の恩恵を受けたのは産業国家日本であり、その経済の恩恵と快適な生活を享受できた国民であることは確かである。これは無視できない。

国の責任は?東京電力と財界の責任は?学会とマスコミの責任は?
先の戦争の責任は結局誰もとらなかった。しかし、今回は諸々責任の帰す先が明確である。それでも誰も責任をとらないとなればこの国は国家の体をなしていないことになる。

さすがにこの事故に関しては、マスコミも横一線で、政府・財界を擁護ばかりはしてはいない。微妙に各社の温度が違うようである。

問題は、政治家と官僚が民意、特に、被災者の民意をどれだけくみ取れるかである。従来の平時の民意とは訳が違う。この辺りであろうというでっち上げは許されないし、有識者・御用学者らによる審議会で「ここらが適当であろう」という、結論の出し方は通用しない。

民主主義は面倒くさい。しかし、日本国民はおとなしい。いままでは、形式を踏んでいさえすれば偽装出来た民主主義も今回は通用しない。国民の負託を受けて当選した国会議員がいかに国民のことを考えているか、官僚がいかに国民の民意に応えるか、マスコミが事実を報道できるか、まっとうな学者・有識者が日本にいるのか。国民はもとより、全世界が注目している。
民主主義国家・日本を。
.12 2011 未分類 comment0 trackback0

顧問と長老に仕事をさせる

いつかは国を背負って立つ男と一部では高い評価(筆者はそうは思っていない)の前原氏が、行き詰った「菅降ろし」作戦で、こともあろうに小沢・鳩山氏と組んで、「団交」に及ぶという。なんと貧相で物悲しいことしか出来ないのであろうか。
民主党の代表経験者がそろって首相官邸に押しかけ、菅首相に退陣を迫る構想が浮上している。 退陣表明しながら居座り続け、混乱を次々引き起こしている首相へのいらだちを募らせる前原誠司前外相の主導によるものだが、効果を疑問視する声もある。 党代表経験者は、首相を除くと、鳩山前首相、小沢一郎元代表、前原氏、岡田幹事長の4人。前原氏は今月上旬、鳩山氏に電話し、「元代表共闘作戦」を提案し、協力を要請した。代表経験者が首相官邸に押しかけ、首相が「辞める」と言うまで居座る作戦という。鳩山氏は明確に回答しなかった。前原氏は8日には、国会内で小沢元代表に近い山岡賢次副代表と会談。もともと元代表と距離を置いてきた立場から、山岡氏に仲介を要請したようだ。 前原氏は共闘作戦について「首相はさらさら辞める気はない。党内の若手からは何とかしてくれと嘆願されており、自分なりに出来ることを考えた」と周辺に打ち明けている。(2011年7月8日22時51分 読売新聞): YOMIURI ONLINE トップ

いよいよ,「肉弾団交作戦」か!懐かしい光景が目に浮かぶが、もっと知性的な策は無いのか。これは、村会レベルでも「下の策」であり、世界に冠たる(政治的ではなく、経済的)日本国の有能と目されている政治家がとるべき策ではない。

党に棲息する「民主党最低顧問」とか、長く生きているだけの「長老」という方々の出番であると思うが、「最高顧問」なんて肩書だおれの「瓦礫」みたいなものだ。こういう時こそ、国家国民のために、総理とじっくり話し合い、退陣させることが出来ない「党の老人」たちに存在の意味は無い。至急撤去の対象ではあるが、まだまだ使い道は無くは無い。

どうせその程度のことしかやれないのならば、その、「瓦礫」のような方々の使い方を前原氏にアドヴァイスしたい。総理公邸の玄関前で、渡部氏とか石井氏とか藤井氏に「座り込みハンガーストライキ」を遣ってもらったらどうだ。命がけで、お国のために最後の奉公をさせてあげるのも、彼らの立ち位置に対する思い遣りとなる。

年寄に説得の哲学は無く、若い前原氏などが肉弾戦しか策がないのなら、役に立たない長老とか「最高黄門」の人たちに身体を張ってもらえばいい。

日本の政治家は本当に劣化してしまった。党を問わず、彼らを陳列棚に並べてみると惨憺たる品が並ぶことになる。

「腐ったリンゴ」「腐敗臭が漂う肉」「ブタを牛に偽装したイカサマ肉」「新鮮にみえるが中身はスッカラカンの西瓜」「うるさいだけのバカちゃん人形」「欲ボケ肥満人形」などなどである。

とても購買する意欲は湧いてこない。この、量販店の先行きは明らかである。

新店舗を至急建設して、適正料金の安心商品を揃えた店を作らなくてはならない。そうしないと、外国からの客も来ないし、来ても何も買わない。つまり、諸外国の要人が話し合う日本の政治家がいなくなる。相手にできる代物ではないということになる。日本は孤立し、強国の「餌食」になってしまう。

前原氏はまだ若い。これから10年15年の間勉強し修業する時間を持っている。小沢氏を排除し、鳩山氏を引き摺り下ろし、その結果菅氏を選んだ責任を重く感じるべきである。

グループを率いて民主党から出てしまう事だ。民主党を解体してしまう事だ。
官僚の「僕」にして「道具」にしか過ぎない自民党も解体すべきである。

現状が続くなら、前原氏がいかにスタンドプレーをしようが、貴方がた政治家を誰も信用していない。能力も評価していない。

菅氏と団交し、辞任するまで居座るなんて所業は止めた方がよい。

民主党の老人たちの「官邸玄関」での座り込みを遣らせなさい。国家の危機を回避する壮挙であるから、官邸や首相公邸の警護の許可も得やすいだろうし、所詮内輪喧嘩だから。

総理の座に居座る菅氏のほうが罪は重い。それでも居座るか、老人たちが命をかけることになるのか見ものだ。「説得の論理」をもたず、器でもない者が、最高顧問だの長老だのと、長閑に過ごしていることは我慢がならない。
.09 2011 未分類 comment0 trackback0

現代の浅野内匠頭と吉良上野介

 例えが乱暴で恐縮であるが、親藩を官僚組織と例えるならば、久しく一党独裁政権であった自民党は譜代大名であり、現在の民主党は外様大名といえるであろう。

大老は勿論、老中等の主要な地位は親藩・譜代の大名が占め、外様は申し訳程度の扱いであった。ところが、自民党政権が倒され、民主党政権が生まれたという事は外様大名による政権が樹立されたことになる。

従来の自民党政権下では、一党独裁であったので、田中政権であるとか、中曽根政権とか称された。自民党政権であることは 既成の事実だからいちいち自民党政権とは言わなかった。しかし、今度の民主党政権下の菅内閣は全く違う。

さて、自民党政権下ではいったいどのような図式であったか。自民党の首班が内閣を組織する。自民党は、総理大臣以下を、「さあ、どうぞお使い下さい」と官僚組織に差し出していた。

官僚組織は、財務省事務次官を頂点とし実際の政治を掌るところとなっている。各省が繰り出す、省益第一の政策を「差し出された大臣」を使って具体化していた。全くの素人が大臣として差し出されることは願ってもないことであり(かつての看護婦出身の南野法務大臣などはその典型)、なまじ知識があり、勉強したがる大臣は邪魔であった。

ところが今回、外様大名が幕閣として登場してきた。浅野内匠頭らの登城である。
官僚組織から見れば、議式典礼に暗く、異文化圏からきたような無知蒙昧な野蛮人のようなものである。しかも、この外様大名の幕閣は、将軍(財務事務次官か?)の意をたいして幕政を行うのではなく、外様幕閣主導で徳川幕府を動かすと宣言した。御前会議の事務次官会議をも否定した。

そこで、吉良上野介の大活躍となる。
各省は、首相官邸を始め各大臣の下に、指南役として各省吉良上野介を送り込んだ。浅野が、吉良氏に「まいない」を贈ることを潔しとしなかった上に、相場というモノを知らなかった故の行き違いが様々な事態を出来させた、と同様なことが官邸と各省で起きた。「いじめ」「サボタージュ」「無視」などである。

鳩山総理は、米国と対等の日本にしたいと宣言した。沖縄の米軍基地はもうその役割を終えた(冷戦下の体制は崩壊した)ので、海外に移転させたいとした。親藩としては驚天動地のことである。今の盟主である米国に何たる無礼!!

米国との間に営々と積み重ねて来た「常套句」が遣えなくなる。「人脈」が遣えなくなる。「利権が失われる」「国民を誤魔化してきた事実がばれる」など、外務官僚は大いに慌てた。「米国と対等」に渡り合う外交など考えたこともない。先輩官僚からの申し送りも指導も受けていない。遣り方が解らない。というわけで、外務官僚の徹底した「サボタージュ」にあった。

早速、米国と計って鳩山氏を「日本を独立国だとは思ってはいない。思いあがるな」と完膚なきまでに罵倒した。鳩山氏は怖れ慄き、その後は迷走した。あまつさえ、鳩山家の「お子様手当」を表面化させ、その存立基盤を揺るがせた。未熟な子供扱いをしたのである。

同じ、外様政権内の菅氏はそれをみて、長く続いた「親藩・譜代」の政治を変えることは難しい。総理になったら、従来の実際の権力者らと歩調を合わせるのが得策とばかりに、政治路線を平然と切り替えた。もともとそんなものは無いのだか簡単だった。

ところが、「町民運動」を巻き起こし、江戸近郊の小藩の代表となった菅氏は、小狡い手法には長けてはいるが、思考方法・行動様式は従来の政権とは全く違う。規格外品である。

折角手に入れた大老の職に長くとどまりたいが、官邸に遣わされたた吉良上野介氏らの指導をよく理解できない。理解したいが「町民運動家」として培ってきた思考・行動方式を引き摺っている。政策の矛盾の前に自己矛盾を引き起こしている。「私は誰?」状態である。

自分の延命のためになると計算出来た一部は取り入れるが、官僚の言う事で理解不可能な部分と、「町民運動家」としての血が騒ぐところは取り入れない。従って、政策は迷走し、方針が定まらない。もともと無いのだから、本人は迷走しているとは気付かない。

官僚組織に困ったことが起き始めた。菅氏の迷走の故に今まで国民に秘密にしていた諸々のことがポロポロと露見し始めた。菅氏が意図しているとは思われないが、菅氏が迷走するたびに秘事が公開されてしまうようになった。

おかげで、国民は今まで闇の中であった、幕政の、つまり国政の「怪しげな画策」に気付いてきた。これは、菅氏故にできた予期せぬ副産物である。

外来文化などを「いいとこ取り」をする方式にも似た日本のやり方と同じに、どんな総理や大臣でも一網打尽に取り込み、自分たちの口にあった味付けの手法に長けた官僚組織も、菅氏という素材の料理には難儀をしているようだ。調理場の右往左往が外にまで漏れ伝わってくるようになった。

そうこうするうちに、本当の仕掛け人である小沢氏が晴れて舞台に登場しそうな事態になりそうである。この人物は、菅氏とは違って全てを承知で、旧来の文化に抵抗する。

官僚組織は、菅氏の自爆を望み、外様政権の瓦解を期待したいところだろう。
菅氏の功罪は以外な結果につながらないとは限らない。無能総理も使いようによっては日本の民主化が進展するのかもしれない。しばらく日本はダメだ。
.08 2011 未分類 comment0 trackback0

スッカラカンは菅だけか

菅総理を揶揄して「スッカラ菅」という。「菅機能不全」とも言われている。
刻下の原発事故はいまだ収拾の目途は立たず、原発被災民は流浪の民の如く安住の地を探し求めている有り様。筆舌に尽くしがたい惨状である。

菅総理の脳内がスッカラカンだけなのであろうか。有事でなくてもその事自体に異論はないが、今回はさらにそれを増幅させている要因を避けては通れない。

民主国家の国会議員として国民に選ばれ、多数政党の代表に選出され、総理大臣に就任した。その総理大臣は、閣僚とそれ以下の議員を総動員し、霞が関官僚を指揮指導し、速やかに災害の収束に向かわなければならない。

ところが、国会議員諸侯は茫然自失し自分たちの役割に思い至らない。次の選挙のことで普段は頭がいっぱいのところに、降って湧いたような国難という事態に対する思考は存在しない。瞬時に働く頭脳は、火事場泥棒ではあるまいに、復興利権にどうやってありつこうかという浅ましい脳作業でフル回転。

一方、官僚諸氏は、文字どおりスッカラカン状態。日航ジャンボ事故も日本航空に責任を押し付けて、官僚内部の不作為はいつの間にか雲散霧消させてしまい、元の黙阿弥。阪神淡路大地震における官僚サイドの目に余る不手際も、最終的にはウヤムヤのうちに隠蔽。

議員の利権漁りにまして看過できないのが、官僚利権を漁る霞が関。例えば、かつての大蔵省は、省の権力を凌駕する民間企業の発展を、スキャンダルを仕組むことにより壊滅させ、「省の威光」を身にしみさせるという作業を継続してきた。

原発の事故の復旧復興に際して彼ら官僚の行動規範は「省益」であり、エートスは「省の利権確保」である。被災民・国民にとって最良の施策であっても、省益を減らし、或いは、省益につながらないものはとりあげない。

政策の優先順位は、速やかな被災民の救済ではなく、「省利権の拡張」である。天下り団体を幾つ作れるか、省の内部留保をいくら増やせるかに脳作業は多忙を極めている。被災民・国民の安全安心に対してはスッカラカンである。

東京電力は自らがでっちあげ、カネで買収した総合力を挙げて作り上げた「安全神話」の毒気に、国民より先に自分たちがあたってしまった。

危機意識を持っている社員は日陰に追い遣られ、安全神話の儀式に嬉々として従う幇間社員と花魁役員ばかりの東電には危機対応の能力は涵養されていない。官僚組織より官僚的な東電に臨機応変に的確な対応をする社員は育っていない。

政治家や官僚を叱り飛ばしながらでも、事態の収拾と被災者の救難に視力を尽くす、などというのは映画やTVドラマの中でしか望むべくもなかろう。
従って、東電サイドもスッカラカン。

マスコミは商品価値のある記事の作成が急務である。政治家の無能を叱り、東電の責任を追及するが、なぜか、官僚組織の行動の遅滞には触れない。触れても、総理の指導力の欠如に由来するという論調になる。不倫の合間に、東電発でしかもロンダリングされた情報を垂れ流していただけが仕事の経産省参事官について、不祥事発覚にあたり僅かにふれただけである。

国会議員たちも、官僚たちも、マスコミもスッカラカン。財界人も、原発についての発言は様子見で、体制が決まり始めるまで黙して語らず。ここも、スッカラカン。

このような、スッカラカンに乗っている菅総理がスッカラカンであることも止むをえまい。総理になることしか念頭になかった人物は、いまや、総理であり続けることに血道をあげている。情けないを通り越して、哀れである。

しかし、議員・官僚・財界・マスコミがしっかり成熟し、その役割を果たせるようなシステムであり、人材を得ていたら、「菅並み」であれ、「菅以下」の宰相でも充分仕事が出来るという事である。神輿は軽くてアホのほうがいい。

「菅総理」の退陣を囃すもいいし、菅総理の人格破壊にも及びかねない批判もいいが、総理や議員以外の日本のシステムの不調を正さなければならない。そのなかから、日本の民主主義の成熟をはかり、国民の意識の向上と、官僚の責任感の醸成、マスコミの本来の役割の自覚してもらう。迂遠な道を選ばなければならないだろう。総理の座死守の宰相と政権の維持、議員利権と官僚利権の鬩ぎ合いのこの国の支配者たちには、被災者の痛みや苦しみに思いは至らないのであろう。

革命も暗殺も、手っ取り早そうだが後始末が大変。もっとも、その二つともこの日本には無縁のことだから心配はない。だからと言って、国民が舐められっぱなしというのも業腹なことである。民主主義国家の国民であり国会議員であり官僚なのだから。時間はかかるが、一つひとつ不調を正していくしかないだろう。
.01 2011 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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