大手マスコミに期待する

 1990年代からの日本は大きな打撃を受け続けている。バブル崩壊、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、企業の倒産、リストラと称する経営合理化と社員の非正社員化に直面した。さらに、予測はしていたとはいえ追い打ちをかけるように襲ってきたのが、2008年のリーマンショックと言われる深刻な経済的打撃である。

バブル崩壊後、再生の道を模索しながらもその方途を見出せなかった我が国は、企業の基礎体力が記弱であったせいか、なんでもアメリカ式にとばかりに、終身雇用、年功序列のシステムを崩し、成果主義を取り入れ始めた。

その結果、市場原理主義や新自由主義が跋扈し、小泉改革と言われる「官から民へ」「痛みを伴う改革」なるスローガンの下、構造改革とやらが遂行されてきた。

それに伴って、安い人件費を求めた企業の海外進出、リストラと派遣社員などの非正規労働者の増加に新卒の就職難が大きな社会問題になって来た。「勝ち組」「負け組」などの言葉が定着し、所得格差が明らかになって来た。

若者たちの中で、日本の将来と自分たちの将来に不安を抱くものが増え始め、地域共同体意識や、一族郎党の助け合い精神の崩壊が進行し、日本人の精神構造が揺らぎ、指導力が欠落した者たちによっていい加減に運営されている国家に対する信頼も喪失し始めていた。

このように、日本人の精神が揺らぎ彷徨い始めた矢先に起きたのが今回の東日本大震災と福島の原発の最悪の事故である。まさに未曽有の大災害である。未曽有という字をまともに読むことが出来なった宰相がいた。このような宰相をバカにして笑って見過ごしていたのもほんの2年程前のことである。

この程度の人物たちが我が国のトップの座に座れるという事態をもっと深刻に捉える必要があったにもかかわらず、マスコミを始め日本中がこの事態を揶揄し、巷では酒の肴にしたに過ぎない。日本中が「緩んでいた」という事である。

このレベルの宰相が選ばれるという事は、その下の各職階では相当に規範の緩みが生じていたはずである。政治家をトップとして日本の指導者階級の意識の緩みは病的状態に達していたはずである。

政府の広報機関と化した大手マスコミと、政府の代弁者と化した多くの政治・経済学者や評論家にいいように操られた国民に責任がないとは言えない。

原子力発電は、資源のない我が国が安定的にエネルギーを確保し、産業と民生の双方に渡って大いなる福音であることは理論的には立派に成立している。

しかし、この危険な天使を味方にするには真摯な対応と現実直視の敬虔な姿勢が要求される。最悪の危険と同居することに対する危機意識が常に要求されることを忘れることは出来なかったはずである。

20年が寿命と言われる原子炉を40年にも渡って使い続けるという信じ難い愚挙が罷り通っていたことは、関係各部局の無責任体制がなさしめたことであることは認めざるを得ない。

事故発生時の初動に間違いはなかったと明言した原子力安全委員会委員長(元東大教授)の斑目氏の直近の発言は、「実は、発生直後に事務局員を一名派遣しただけだった」ということであった。「専門家の派遣は行わなかった」というものであった。このような幼稚な愚昧な人物に日本の原子力発電の安全が担保されていたとは泣くに泣けない大悲劇である。

安全神話を振り撒き、原発の建設の地ならしに一役買っているうちに、科学者の良心を喪失し、安全神話に自らが取り込まれてしまったのであろう。安全神話に軸足を移してしまったこの科学者は俗な欲望の魔力に学者魂を売り渡してしまったのであろう。

利権巣窟の中で美酒に酔いしれた痴れ者がいかほど存在しているのかは知らない。いまは、その者たちが互いに傷を舐めあい、あるいは責任のなすり合いをしているという。

震災は避けては通れない日本であるが、人災は可能な限り避けなくてはならない。そのためには、日本の要路の人物の選定に慎重にして賢明でなければならない。

菅総理は、平時の宰相としても不適格であることは明白である。ましてや、この国家的危機を指導する器でない。しかし、「ゆるんだ日本」の国民や政治家が次の宰相を選んでも「もっと愚昧な宰相」を選びかねない。

この危機に際してマスコミの役割は絶大である。マスコミの在り方次第で日本の将来は決定されると言ってもよいであろう。第四の権力というのは間違いではない。情報産業としての利益誘導の経営姿勢に偏重したマスコミによる被害を受け続けた日本と日本国民の為に「救いの神」は、やはりマスコミしかない。国家権力を監視するマスコミが権力と同衾して、嬉々として夢を語っている事態ではない。
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.30 2011 未分類 comment0 trackback0

食事と読書 早メシ早ヨミはやめた

若い頃の食事と謂えば、空腹を満たす以外に考えることはなかった。食膳に並ぶものを感謝するまもなくひたすら腹に詰め込んだ。食事中は喋るな、姿勢をよくして30回噛めと親が口煩かった。だから、姿勢だけはよくしていたが黙々と食べ続けていた。

一粒の米でも残そうものなら、お百姓さんに申し訳が立たんとこっぴどく叱られた。何処の家庭にもあった日本の伝統的な食卓風景であった。従って、毎度の食事は米一粒も残さず、おかずの一片すら残さぬ完食状態であった。

姿勢を保つ、喋らない、残さないはよく守ったが、よく噛むということは出来なかった。歯とは出会いがしらの接触であり居合抜きのような険しさであった。

頭をよぎる次なる遊びに忙しかった私は、さっさと食べ終わり次の行動に移った。
この行為も許されるようになるまで親とは随分と葛藤があった。親や兄妹の倍の量を半分の時間で済ませてしまうのだから、家族の食卓に一陣の風が吹き抜けるようであった。
このような食事の仕方はつい最近まで続いていた。まるで戦場のようだとはよく言われた。

結婚してからも、晩酌というものを一切しないので、食卓につくやいなや猛烈な速度で食べ終え次の行動に移る私は、嵐のような気ぜわしさと共にあっという間に居なくなる通り魔のごとき存在だったであろう。

ところが、人並みに肥満に悩み、足腰に加齢に由来する各種症状で悩み、歯の衰えと咀嚼力の衰えたこの頃になって、自分の食癖に思いを馳せるようになった。

量は標準と思われるものより少し多めにし(!?)、ゆっくり咀嚼し穏やかに嚥下する。時間もたっぷりと確保する。野菜から食べはじめ、急激な血糖値の上昇をさせない。食事中、家族との会話にも心掛け、食後に席をすぐ離れずに時間のゆとりを持つ。

量を減らし時間をかけてゆっくりと咀嚼し嚥下し、きょうの食事の総てに感謝する。子供時代の親から受けた躾を、70歳にならんとする今になって守ろうとしている。

ところが、先日、ステーキハウスに招待された折りに500㌘の肉をペロッと平らげ、相手の方になかば呆れ気味の表情をされた。若い頃はスポーツマンでもないのに700㌘位は普通に食べていたので、「衰えたわい」というのが実感であった。

こんなことを時折しながらも、最近は、正しい(と言われている)食事を心掛けている。

面白いことに、私が一番時間を割く趣味(と言うより頭の食事)「読書」の仕方に、食事と同じような変化がみられるようになった。

子供時代は父の本棚を漁り、旧制高校・大学の寮生で留守がちであった兄の書棚を渉猟した。父の事情で大分の本家に戻った折りには祖父母の蔵書を引っ張り出し、その時の力量に応じてひたすら読書をした。戦後しばらくは本の出版も少ない上に、教材や参考書以外は買って貰うことも難しかった。このようなとき、理解できないながらもおとなたちの本が貴重であった。

この読書が食事と全く同じ。よく咀嚼もせずにのみこみ、消化不十分が故に吸収も不全。
貪欲に吸収する子供時代から青壮年期を経て前期高齢者の今日に至るまで、それこそ自分としては万巻の書を読んだ割には、極めて歩留まりが悪い。頭も悪いのだろう。

車に乗ったら、高速道路をぶっ飛ばし、途中の景色もあらばこそ、目的地に一秒でも早く到着するかの如き読書の仕方であった。
食べはじめたら早く食べ終わることに専心し、じっくり味わうことをしない食事であったと同じように、読み始めたら早く読了し次の書物に手をかけることが目的のような読書だった。ましてや、最近では一ヶ月前に読んだ本を忘れている。一週間前の本すらそうである。この半年以内に既に読んだ本を再び購入したことが2度に及び、慄然たる思いをした。

総ての本のタイトルと作者をよく記憶しよう・・・無理かもしれない。
茶漬けにして流し込むような読書をやめよう・・・ガツガツしない。
移り箸のような読書をやめよう・・・落ち着いて読もう。
ゆっくり読んでよく咀嚼する、ゆっくり頭に送りこみよく消化させ、含まれる栄養分をしっかり吸収し頭の体力をつけよう、と、心を入れ替えたにも関わらず、歩留まりの悪さは相変わらずのようである。謂いたくはないが歳のせいであろう。

これからは、老体・老脳であることを受け入れ、ゆっくり安全に歩くが如く、誤嚥しないようにゆっくり嚥下するが如く、滑舌の悪さを補うべくゆっくり喋るが如く味わいながら読書をしたいものだ。作家や著者のペンの走りを身体に感じながら読む。著者の書く速さに合わせて文章を読む。作者の息遣いを感じながら読む。このような読書をしたい。

今日からでは無理だし、明日では早すぎる。明後日、いや、来週からやってみよう。それも、急にやると、身体も頭も今よりおかしくなるのでゆっくり取り組もう。こうやって、禁煙に何度も失敗した苦い経験が心を重くする。いやな性格である。
.23 2011 未分類 comment0 trackback0

幾つになっても「素直なよい子」

我が国の学者・有識者の方々は本当に素直な、謂うところの「よい子」ばかりのようだ。悪く言えば、傀儡ばかりといってもよいようである。

ブレーンというのは、仕事上で自分の専門外の部分で、高度な知識や実務経験を持って参加してくれる部下や同僚、外部スタッフのことをそのように呼ぶ。

さて、首相の諮問機関として各種の機関が乱立しているようであるが、五百旗頭氏をトップとする「復興構想会議」が発した提案には仰天した。五百旗頭真防衛大学長が復興財源として「国民全体で負担することを視野に入れなければならない」と、一回目の会議でいきなり「災害復興税」の創設を提案したことである。呆れたブレーンである。

増税については、日本の経済に与える影響を慎重に検討しなければならない重要な政策である。にもかかわらず、何を血迷ったのか、いきなり増税を提案したのにはそれなりの筋書きがあったのであろう。因みに、この会議のメンバーは、哲学者、建築家、脚本家、住職、被災した県の知事など、どこから見ても経済政策にはズブの素人ばかりである。

日本の学者・有識者はゴマンといる。この中には、権力と同衾し時代と添い寝することを最も得手とする、あるいは、何の躊躇いもないという方々が多数居るようである。それが当然として骨肉化しているような方々である。迷いも悩みもない。

首相官邸や霞が関から声がかかる学者・有識者とは、権力者側から見れば、素直でよく謂う事をきき、決して自分の考えなどを披歴しない「役に立つよい子」ばかりなのである。

「先生、このように発言して下さい」、「そうすれば首相が『それはいい考えだ』と飛びつくことになっております」というような筋書きが出来上がっているのであろう。そして、その提案が政策として採用されれば「先生は災害復興の立役者として歴史的な功績を残すことができます」などと擽られる。もう、メロメロである。

その他の委員には適当なことを喋らせておけばよい。どうせ、マラソンの君原の如く、要所要所で首を縦に振ることさえできればいい。官僚や副大臣等が発言し始めたら、いや、話し始める前から首を縦に振り続ければよいだけの役割である。節句の「張り子のトラ」が何匹もテーブルを囲んでいるようなものである。最後に片手をあげて賛成する運動神経があれば充分なのである。

多額の研究費を与えれば飼いならせる学者、政府委員などにピックアプしてやれば全身を震わせて感涙にむせぶ有識者は、与えられた脚本を徹夜で暗記して会議に臨む。宿題をきちんとこなして先生に褒められたい小学生の「よい子」と同じ意識レベルなのであろう。

権力者たちの「羊」としての政府委員などの役目につけてもらい任務を果たせば、学者なら効率良く学部長・学長につながるステップである。へたな研究の業績を上げるより学内での政治的ハクがつく。会議では「よい子」の振る舞いをし、首を縦に振り続けるだけで、大学に戻れば泣く子も黙る「権威」がつくのである。

刻下の日本の政治のブレーンとは概ねこのような実態であろう。

同志社大学の浜矩子氏の次の言葉がある。もって瞑すべしである。
独善的で懐疑的で執念深い。これは物事をきちんと考える上での必要条件である。しかし、日本のメインストリームにそんなタイプは見当たらない。掟破りのところからものを考え、疑念を呈するようなメンタリティーを持ち合せていない。
彼らは、提示されたデータや数値を疑いもなく受け入れ、それに基づいて危機管理を遣っている。こんな人たちに被災者は救えません。(以上 浜氏)

米国のクリントン国務長官の来日に合わせて、東京電力に「復興計画」を提出させた菅総理も同じようなものである。クリントン氏に「よくやっているわね!」と褒められ頭をなでられたいが故に東京電力の尻を叩いて、杜撰にして実現不可能な復興計画を提出させたはいいが、一日で破綻してしまった。何をやってもドジな人である。

苦笑いしたクリントン氏も言葉をなくすほどのお粗末さである。

永田町や霞が関そして日本の一流企業がこのような有り様では国民は救われない。

「菅総理退陣説」が活発になっているが、次の提案がない。誰ならこの国難を乗り切れるかの提案がない。「止めろ」「止めろ」の合唱だけなら菅氏は止めないだろう。

平時のコップの中の争い、この程度を「修羅場」と称する現在の日本の政治家である。「俺がやる!」と宣言する勇気がある人もいないし、よしんば居ても皆で足を引っ張るだけであろう。

政治家の小・中学校、高校、大学・大学院でもつくって、100年がかりで育てなくてはならないのかもしれない。ただし、教える者がいない。蟻地獄のような苦境から抜け出なければ日本の明日はない。
.19 2011 未分類 comment0 trackback0

嘘と人災

 人間は容易に嘘をつくものである。いや、嘘を尊ぶとすら言えるものである。真実が第一に尊重されなかったことは、これまでの長い人類史が示すとおりである。

大統領も医者も神父も裁判官も企業家も教師もこぞって嘘をつく。決して真実を語らない。なぜなら、全ての人が真実のみを語る社会とは、荒涼としたものであること、いやそもそも社会が成立しなくなることをみんなが知っているからである。

真実より重要なことは数限りなくある。例えば、社会の存続であり、組織の存続であり、個人の存続である。だから、国や会社や家庭や個人が存亡の危機にあるとき、人々は率先して嘘をつく。

だが、同じ人があるときから夢から覚めたように嘘の告発に躍起になる。自分を棚に上げて他人の嘘に怒り狂うのである。そのあいだだけ、みんな真実は最も大切だという振りをしたがる。自己欺瞞に酔いたがる。もちろん、誰一人として心の奥底ではこんなことを信じてはいない。ただ、一定の期間「真実ゲーム」に参加したいだけなのだ。それがフィクションであると知っていながら、「真実」という名の美酒に酔いたいだけなのだ。

だが、哲学者という「ならず者」がいる。彼はこうしたやわな善人たちと異なり、如何に反社会的であろうと、真実を真実であるがゆえに求めるという営みを遂行する「不届き千万な輩」なのだ。それをぬけぬけと語るともなれば、かつて、宗教裁判によって火あぶりにされたのも分かるというものである。(中島義道 『狂人三歩手前』 新潮社 より)

だが、今はその「ならず者」が必要とされている。

色欲に奔った(浮気した)亭主が妻の心の安寧と家庭の平和のためにつく嘘というのがある。しかし、その亭主の言説には日頃の不徳に由来する摩訶不思議なブレが鋭く読みとられ、以後一切の言辞に信用をなくしてしまい、地獄にもがくということは日常的によく見られることである。

小さな嘘をつきながらなんとか家庭を守り組織に従って生きている人たちは、それが故に他人のつく嘘には敏感であり、その嘘が自分たちに不利益をもたらすとなれば絶対に許してはくれない。

東京電力を含む日本の原子力発電推進派は、その組織を守るために、存続を賭けた嘘をつきまくる。ところが、事態が早期に収束したのとは違い現在進行形の事故である故に次々と新しい事実が露見する。すると、先についたウソの整合性のために新たな嘘を重ねる。

しかし、その嘘の余命もあと僅か。論理が破綻し、すべての嘘が白日の下に曝される事態が到来する。

菅政権も同じである。菅総理がこの大震災と原発事故をあろうことか「奇禍」ととらえ、自分の地位の保全に奔ったところから地獄が始まった。総理に就任した時点で、あらゆる国家的危機に対しての気構えもなかったところに、この人物の悲劇が始まった。

報告が上がってきても即時に適切な指示を出す前に、この情報をまず自分のためにどう生かすかが先に頭を支配し、どのように利権に繋げるかを第一に考量するということであれば、自ずと指示に迷いやブレや遅れが生じる。総理の我欲の腐臭が漂う指示となる。

学者も同じである。放射性物質が有する放射能が発する放射線と生物、放射線と人間との関係はまだまだ未知の分野である。これに対して、「安全である」「いますぐ懸念される心配はない」などと、政府広報のような役割を果たしている。つまり、学者としての良心を放棄し曲学阿世の徒としての恥をさらしながら嘘をつき続ける。

この嘘を諸外国は徹底的に利用する。「嘘つき国家日本」として、政治的経済的に徹底的に利用する。今はまだ事故が終息していないが故に武士の情け的言説をとっているが、終息して復興の段階に入ってくると、世界における日本の地位は簒奪され、日本の産業はこの島国に押し込められてしまうであろう。日本は信用できない国であると。

大きな嘘をつく器量も才能もなく、小さな嘘を重ねる「菅総理とそのご一統」と「東京電力」、さらに「御用学者」はもはや限界である。

今日をいかに生きるか、明日の希望を失っている膨大な数の被害者・避難者は、菅政権と東京電力の魂胆を見抜いている。そのどす黒い我欲と権力欲に辟易している。地位にすがっているだけ滑稽にして哀れなピエロである。

人知の及ばぬ自然の力の前に小賢しい浅知恵を弄することなく、いまは、国民と諸外国が納得する真摯な思考と行動が求められている。

「日本では不思議なことに偉くなるほどバカが揃っている」とはよく言われることである。
日本の復興は、災害からの復興と、被災者の生活の再建ばかりでなく、国家指導者の人材の復興も急務である。指導者に起因する「人災」があってはならない。
.15 2011 未分類 comment0 trackback0

父不在国家

東日本大震災と福島原発の事故は、これまでの平和国家日本と原発の安全神話を一挙につき崩してしまった。安全神話の宴に浮かれた愚かな客に強烈な一撃をくらわせた。

菅総理の手腕に不満が集中しているが、何を今更!ということである。総理大臣に就任以来、総理の器ではないことは万言をようして語られてきた。いくら批判をしても、肝腎の民主党内で菅総理であることが都合の良い勢力が温存してきたのであるし、国民の多数の票を獲得した政権政党である以上、民主主義的手続きを踏んだ正当な選出の結果であるとなれば否定のしようがない。

政権交代が起きる直前の小沢氏の言葉、「今の民主党には政権を担当できる能力はない」というのを思い出す。ではなぜ、あれほどの政権交代旋風を巻き起こしたのか。小沢氏が自ら総理総裁となって陣頭に立つならば政権担当も可能であると思ったのか。しかし、小沢氏には本当に政治の矢面に立つという覚悟があったのかどうか疑わしい。

鳩山氏の失脚を時の利として、菅総理の体制が出来上がった。小賢しい小狡い男が、棚ボタというか瓢箪から駒の如き幸運に恵まれて総理の椅子を獲得した。副総理兼国家戦略室担当の間、官僚に逆らうことの不利を覚り、同僚国会議員の力量のなさをイヤというほど思い知らされた菅氏は、総理となった後は、ひたすら官僚依存と米国依存路線にはしった。

そして、この大災害と原発の事故である。

菅氏以外の誰だったらこの危機を乗り越えられるのか?

阪神大震災の経験は肝腎なところで生かされていない。「防災訓練」なるいい加減な行事がある。消防関係者のアリバイ証明としか考えられない「子供のお遊戯会」の如き「消火訓練」や「災害時非難訓練」には何度も苦笑させられた。

全ては、何事もない平和時の年中行事にしか過ぎない。あるいは、近代兵器をふんだんに備えた敵国の本土上陸に備えた「一億玉砕竹槍訓練」のごとき虚しい行事である。

この程度の危機管理でお茶を濁すことが通用してきた日本である。何処を捜せば、この度のような本当の危機を乗り越えられるような政治家がいるのか?

大津波によるとは言え原発の大事故を引き起こした当事者である東京電力ですらこの体たらくであり、原子力保安院のこの体たらくである。

東京電力の社長は、コストカッターとしての手腕に長けた人物であるという。原発の安全面でも容赦なく経費を切り詰めて来た腕を買われてトップに躍り出た人物である。

原発関連を含めた総予算の中から、政治家への献金分、官僚などの接待分、役員給与賞与分・・を差し引きなおかつ充分な利益(車内留保・株主配当分など)の残りの予算を一次下請けに投げやり、一次下請けは本社に倣って同じようなことをして二次下請け、更に三次下請けに回していく。そうして、今回のような事故になると、末端の下請けの社員が犠牲になり泣きをみることになる。

実際の原発の安全性に費やされる予算は名目予算からははるかに少ないものとなってしまう。一億円の予算で自宅建設を依頼しても、あちらこちらでカネが抜き取られた揚句、よくて五千万、下手をすれば三千万位の自宅しかでき上がらないということになる。さらに、末端の建設業者が利益をひねり出す為に「手抜き」が行われるとすれば、これはもう詐欺を通り越して、シェークスピアも描ききれない大悲劇である。

このようなことが、戦後の日本では至る所で行われてきた。

航空会社であれ、電力会社であれ、製薬会社であれ、高度の科学が実用化され、科学的事実の前には真摯に対応しなければならないシステムが、必要以上に政治的であったり、必要以上に利益追求のシステムであってはならない。不当に利益をはじき出して「悪徳の笑み」をたたえるような経営者に任せられるようなレベルではない。

菅氏の退陣は当然であるが、目下の日本には国民が求めるような指導者は育っていないし、それどころか劣化してしまっている。世界に通用するような、国民が頼れるような指揮者(音楽の世界も同じ)はいない。

信頼し頼りになる父親がいない日本である。

この危機は、日本のシステムの総力を挙げて取り組むしかない。諸外国の叡智をも集めて、この地球規模の危機に対処するしかない。

その中で、国家にとって本当はどんな指導者が必要なのかを国民の全てが熟慮すべきであるし、有識者や言論人全てが私利私欲を捨てて取り組む課題であろう。
.13 2011 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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