傲岸不遜な若者たちと尻の軽い老人たち

 思想や哲学が高学歴な社会的落伍者の尊大な自我を権威的に慰撫する「飾り」となり果ててしまっている現状は、昨今の大学における文学部などの地位の凋落などに顕著に表れている。文学部を「人間関係」とか「国際関係」など判然としない四文字学部名称にして時代に阿てみても、教える教授も受ける学生も同じなのだから、「温泉饅頭」を「アーバンとかシティー饅頭」に名称を変更したにしかすぎない。

大型書店においても、思想・哲学・倫理の書棚は、気のせいか隅の方に追い遣られているように思えてならない。政治や経済の微分的評論本や、云うところの「金儲け本」や「出世の指南本」が書店のメイインストリートを占拠している。

私も、哲学・思想の書物を読むときは家人の視線が気になるようになって久しい。「ご精が出ますね」といういたわりの言葉の裏に潜む「そんな役にも立たない本ばかりに耽溺していないで『鉄学』か『使嗾』の本でも読んで、鉄の一本でも売ってくるとか、人を巻き込んで何か大きな事業でもすれば!」という非難の声が聞こえてくるような気がしてならない。従って、書店のカバーをしたまま出来るだけ目立たぬようにして読んでいる。

最近の若者の一部は、尊大で言い知れぬ自信に満ち溢れている。人生の大先輩を目の前にしても何ら臆するところもなく、対等以上にすら感じる程の傲慢さに圧倒されることがある。このような若者の自信と尊大さはいかなる所以によるものなのか。

「同情するなら金をくれ」と絶叫した子役が出たTVドラマが話題になったことがある。「カネで買えないものはない」と嘯いた若者のことが取り沙汰されたのは最近のことである。

いまどきの若者は「カネになるか否か」が唯一最大の評価基準になっている。物事の判断に、いわゆる「ためらい」がない。何をするにも「カネ」か「地位権力」が手に入るか否かが決断の規範であり行動の基準になっているようだ。

このような生き方ならば自信たっぷりの傲岸不遜な態度がとれるであろう。大学で単位を取る時も「金儲けの役に立たないと彼らが判断した教科」は最小限のエネルギーしか割かないし、大体、学問自体に価値を感じなくなっているので、「資格」をとるとか、「起業」するなどしながら4年乃至6年を過ごす。大卒の資格を世間のパスポートとしかとらえていないので、よく言うところの「青年期の悩み」などとも縁がない。

幼稚園時代から大学まで自分たちはお客様扱いをされてきたし、そのことに何の疑いもない。譴責されたこともないし叱咤されたこともない。教育機関はいまや資本主義に翻弄され一種の事業体となり果て、学校にも教師にも何の畏怖も権威も感じない。

このような若者の思考の在り方を当然とする社会になってしまっている。マスコミのいう「勝ち組と負け組」のカテゴリーの「勝ち組」に入ることしか人生の価値基準が無くなってしまった。

かくして、このような理路でしか生きていない若者たちが政界・官界・実業界・教育界・医療界に参入し始めて既に20年くらいになる。日本社会が様変わりするのは当然である。

どの分野においても、「カネになる話」か「地位権力」を得るために役に立つ話しか耳を貸そうとしない若者しかいなくなった。

では高齢者たちはどうであろうか。これがまた節操をなくしてしまった。

今般の内閣改造劇では、政治信条と自説を平然と曲げてしまったばかりか、一宿一飯の恩も義理もなくした老人。かつての仲間を誹謗中傷して憚らない破廉恥漢の老人。「財源はあります。大丈夫です」と自信たっぷりに明言したにも拘わらず、「やっぱり財源がありません」と泣訴したあげくアル中で体調を崩して中途退任したした老人が、再びおだてられて再登場。喜色満面が痛々しい。

国家国民のためというのは政治家の単なる常套句と変わり果て、「自分のため」に国会議員になったことがより鮮明に前景化した、いわゆるベテラン老政治家たちの正体が暴露されてしまった。

若者たちは上位審級の存在を知らない、あるいは知っていても「カネか地位の獲得に役に立たない上位審級」は認めない。
当然であろう。民主党において「ご意見番」であり「大局の指南番」であるはずの老にしてベテラン政治家たちが、若い新進気鋭の政治家たちと同じ土俵で評価されることに嬉々とし、一喜一憂しているようではそのような若者たちを批判することはできない。

このような現象は、「騙し絵の螺旋階段」であることに気づかずに登っているつもりがいつも同じレベルに留まっていたのであろうし、逆に下っていたのかもしれない。我々は再び単純な原始社会に回帰しているのではないか。高度な文明社会の原始的人間たち。このように理解すれば、昨今の老人と若者の姿が良くみえてくる。
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.16 2011 未分類 comment0 trackback0

菅孤鳥

「気持ちが萎えても辞職しない」とは洵に意気盛んであると賞賛するわけにはいかないところに国民の悲哀ここに極まれりの感がある。

高揚したというか「躁」状態にあるというか、このところ国民とはまるで遊離したところではしゃぎまわっている菅総理をみるにつけ、「ポストが人をつくる」という古諺も雲の彼方に姿を隠すというありさまである。

例によって内閣改造騒ぎでマスメディアを引き付け、何やら政治を遣っているかのような幻想を振り撒きと謂うより、その幻想の舞台で派手に一人芝居を演じる姿に痛切な悲哀を感じる国民の冷めた心情に思いが至らないようである。

「政治とカネの問題に決着をつける」とはまた、出来もしない大風呂敷を思いつきで口にする浅はかな人格に愛想が尽きてしまった。

政治家の道徳とは、「国民の経済生活を保障すること」である。国民のためによい経済政策を実行し成功させるなら、為政者の個人的道徳は問われないのである。

小沢氏を政界から追放して「クリーンな政治を行う」という宣言がいかに子供じみているのかさえ分からなくなっている。クリーンでは魚も住めない。菅総理の夜毎のグルメ行脚もままならない。したければ幾ら贅沢三昧でも構わない。国民の生活を安泰にしてくれさえすれば一向に構わない。菅総理がどれほど贅沢しようがたかが知れている。しかし、クリーンではそれも出来まい。

自由主義と民主主義の区別もつかない日本人と謂われるが、その日本人の中から選ばれた政治家だからこの程度であると諦めるわけにはいかない。

米国の指令に従う官僚。その官僚が書いた原稿を棒読みし、質問者は官僚が書いた原稿どおりに質問する。それに応ずる大臣の答弁もまた官僚が書いた原稿どおり。これじゃたいがいの国民もあきれ果て、政治家は官僚の操り人形であり、官僚が考えた法案を通すだけの役割にしか過ぎない政治家を信頼するはずもないし、「畏怖」とか「尊敬」と謂う言葉を辞書から消去してしまうであろう。

消費税のことだが、一説には米国は22%を求めており、10%は日本がとり「12%は米国の国債を買ったりして貢げ」との指示を受けているというではないか。この22%の
消費税に限りなく近い数字を挙げれば「菅総理安泰」とでも思っているのであろうか。

報道によれば、民主党の「公約」の見直しにも言及したそうだ。米国と官僚を味方につければ菅政権は盤石とのお墨付きでも戴いたのであろう。

選挙公約はあくまでも守る。さもなくば下野すべきである。対立政党の政策を平然と盗み取ってはならない。マスコミの支持率については悪評嘖嘖とはいえ、その数字も40~50%は維持できなければならない。

公約は破棄するは、他の政党の政策は掠め取るは、支持率低迷で地方選では惨敗の「菅・民主党」が政権を維持する大義は全く見当たらない。可及的速やかに総辞職し、下野すべきであろう。つまり、出直しなさいという事である。

消費税値上げも結構である。ただし、アカウンタビリティー、つまり、国家予算の無駄(文字どおりの無駄)を廃し、「年金福祉財源の確保」であるとか、日本の産業の至宝である「モノ作り中小企業の育成・助成」などにいか様に配分するのかの「説明責任」を果たすのが不可欠の条件であろう。「僕の政権の安泰のために国民に泣いてもらいたい」では道理が通らない。ましてや、米国に絞り取られるようなことでは国家も国民も破綻してしまう。

親小沢一派を抵抗勢力に見立て、「金権政治放逐」のワンフレーズでは小泉政治のパクリ以外の何物でもない。もうその手法も飽き飽きした。それで政治をしているつもりになられてはバカバカしくて見てられない。
そのような二番煎じの芝居では劇場は閑古鳥(菅孤鳥)が啼くであろう。

妙な、不自然なツッパリはもうやめて、潔く退陣することをお薦めする。
.08 2011 未分類 comment0 trackback0

もうそろそろでは?

 操船の技術もなければ海図も読めない船長の下、民主党丸は何処に向かうのか。風を避け荒波を回避するだけで大海原を漂流し、艦内に向かって一致団結を喚き散らし、船長であることに固執する無能極まる一人に任せたままでよいのか。

民主党に政権交代して以来一年有余、国民は多くのことを知った。有徳の官僚を窒息せしめ貪官汚吏が蔓延る霞が関。国民の負託を受けた日本の国会議員を偽装する他国の下僕。これらを鮮明にしてくれた2010年であった。

民主党議員も政権党になってから、野党時代に識る術もなかった多くのことを初めって識り、その実態に驚愕したことも多かろう。国民が、インターネットやブログにメルマガ等を通じて啓蒙されたことと軌を一にしている事も多かったであろう。

民主党に政権が移って以来今日までに民主党議員の蒙が啓かれたことは国民にとって僅かながらの僥倖であったと言えるであろう。一党独裁とマンネリズムが継続してきた我が国の政治に「仄かな活路」が見出せたのではないかと「儚い希望」を抱いてみるしかない。

総選挙は政治家業を目指す者の就職試験のごとき様相を呈するようになって既に久しい。立候補者の「言葉」もストックフレーズの垂れ流しであり、「顔つき」もそこらのアンチャンと大差がない。国政選挙に打って出る器ではない者が平然と国政を担当したいなどと戯言を口に出来る程我が国の国政のレベルが下がってしまっている事に慄然として既に久しい。その結果が昨今の政治家の醜態である。

政治家の言い分も官僚の言い分も「一面の真理」があり「一理」はある。しかし、あくまでも「一面」であり「一理」にしか過ぎない。

このような、「一面と一理」が何の未来展望もなく、整合性もなく執行された日本国の惨状はもはや修復不能ではないかと悲観的にならざるを得ない。

蒙が啓かれた民主党議員と、政権党から脱落した自民党議員の中には「このままではならじ」と自らの立脚点を急ぎ修正している人たちもいるであろう。自民党議員の中には、喪失した「利権」の奪還に意欲を燃やしているだけの「時代に乗り遅れている」人たちも残念ながら多かろう。

明治維新の理念とエネルギーを保持した世代とその薫陶を色濃く受けた世代が政治の舞台から退場し、現在政治の舞台にあがっているのは、戦後生まれ(少数の戦時中生まれ)の者たちである。つまり戦後教育を受けて育った者たちである。

国のことを口にすることが憚られ、国家のことが語られることもない戦後教育の風土の中で育まれた者たちばかりである。この人たちに果たして、国家の運営とか国家の方針を語る「言葉」や「理念」が頭の中にあるのだろうか。

「政治には金がかかる」と言われれば「そうだろうな」と、曖昧に応じる国民の認識も罪深い。選挙のたびに「金儲けのチャンス」だとばかりにたかりまくる国民の一部が存在する以上、政治家を目指す者が「金になる話」にのみ狂奔することもまた宣なるかなである。国家のことは思慮の外、議員になるための資金集めにリソースの大部分を傾注する国会議員に失望するのもまた国民である。

現実を認識した民主党議員と、政権を離れたことの悲哀の真っただ中にいる自民党議員による「政界再編」をする勇気をもってもらいたい。

「保守」なら「保守」、「リベラル」なら「リベラル」で旗幟を鮮明にしてもらいたい。旗幟を鮮明にする勇気をもってもらいた。

「之を言えば票が逃げる」「之を口にすれば金が集まらない」が政治を志す者の基本原理では話にならない。国会議員は国に尽くす「志」を明らかにしてもらいたい。そうでないから、民主党なのか自民党なのか判然としない「鵺」のような議員が跳梁する現状を呈することになる。

どの旗の下に参ずれば「大臣」になれるのかというあさはかな挙動を、国民は既に見抜いている。知らぬは「永田町村の田舎者」だけだという惨状に気付いてほしい。

旗幟を鮮明にした「再編成」を、2011年の年頭に当たり切望するものである。
.03 2011 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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