変容 

 ①公務員の総数・給料は30%カット。ボーナスは例外なく全額カット
②公務員の退職金は一切認めない。
③年金は一律30%カットする。
④国債の利払いは5~10年間停止。消費税を15%引き上げて20%とする。益税等は廃止。
⑤課税最低限を引き下げ、年収100万円以上から徴収する。
⑥資産税を導入し、不動産に関しては公示価格の5%を課税。債権・社債は5~15%を課税。株式については取得金額に対して1%を課税する。
⑦預金はペイオフを実施するとともに、第二段階として預金の30~40%をカットする。

これは、「ネバダレポート」と呼ばれているものだ。IMFの調査官と日本の一部の官僚との合作だとされている。柳澤伯夫・元金融相がIMFの審査を受け入れると表明した直後に出回ったリポートだと言われている。日本管理の具体的方針が列記されている。

変容した菅政権は上記のレポートにそって急速に政策の軌道を修正している。「たちあがれ日本」との連立を画策する民主党政権は完全に第二自民党に舵を切ったという事である。躍起となって財務省の指導に従うことに血道をあげているという構造になってしまっている。「たちあがれ日本」も、正体が顕わになった某政治家を追放するくらいの矜持を示さなければならない。

民主党を支持した国民は見事なまでに梯子を外されたという事である。

民主党といえども所詮は第二自民党に過ぎないと薄々は分かっていた。国民は腐りきった自民党政権に失望し、自民党にお灸を据えようとした程度の政権交代であった。つまり、民主党の公約である、「天下り廃止」「無駄な税金の使用の禁止」「官僚任せの政治から政治家に政治の実権を取り返そう」に共感し、どこを向いて政治を行っているのか分からない自己撞着に陥った自民党の政権から、リベラルな政治・・国民生活重視を標榜する民主党に政権を与える決断をした。しかし、これほど無能だとは思わなかった。

親会社に不満を抱き、強力な圧力に抵抗し、待遇改善を訴えていた中小企業の社長と周辺が、親会社・・世界を相手にビジネスを展開する超大企業の経営陣に収まって知ったのは、世界各国の政情との対応、国際法との対応、国内政治家との対応、官僚との対応など、今まで思いもよらなかった高度な知識と経験、並外れたスキルが必要だということである。

精々二次方程式を解けるか解けないかの学力・知力しかなかった者が、いきなり高等数学を解かされるようなもので、立ち往生は必然であった。従って、「解」は全面的に他人任せ、つまり官僚任せとなった。

日本国の将来像など本気で考えたこともないから、国の方針すらも「輸入政策」あるいは「日本に対する命令的指針」を押し戴き、我が国の得意なアレンジを施すことに腹をくくった。

かくして、国民の「信」を踏みにじり、党内の「義」を軽んじる菅総理には、宰相の器量も技量もないことは明らかである。公約を破棄したばかりか、政策は進まず、うわ言のような妄言を吐く菅総理批判の言説は出尽くし、小沢批判の言説も出尽くした。それでもなんの進展も見せない菅政権は呼吸停止したということである。

なによりも、菅政権が引っ張る「民主党の変容」について国民に説明する義務がある。

「政治とカネ」の問題でステレオタイプな報道をするマスコミにも何か裏で操る強力な権力を感じざるを得ない。むしろ、政・官・メディアが一体となって「政治と金」騒動を引き起こし、その裏で着々と進行させている隠蔽されている施策を見逃してはならない。

選挙時の公約は「絵空事」であり、当選したら「一体何をやっていいのか分からない」というのが、日本の政治の実態というのであれば、日本に政治家は必要でないということになる。

親米・親中・親露に親EU等の小賢しい色分けより、真の独立国として「大人の外交」を展開できるような国家になってもらいたい。そのような政治家や政党の出現が急がれる。我々国民の側にも相当な覚悟が要請されることは論をまたない。

政治のレベルが、総理のレベルが国民のレベルを体現しているという認識に立てば、これほど惨めな国はないであろう。日本の若者が燃え立つような、心ある官僚が誇りをもって国家のために尽くせるような政治をみせて欲しいものである。
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.27 2010 未分類 comment0 trackback0

総理 押し込め 

 「仮免総理」と先に辞任した柳田前法務大臣の発言は平仄が合っている。「仮免許」発言と軽唇軽語の元法相、両者のセンスと知性はほとんど同じである。さらには、官直人劇団は素人劇団であり、他の閣僚も全員が研修中の役者であるということである。答弁のためのストックフレーズを伝授されているからいかにも分かっているかのように議会や記者会見をこなしているが、その実態は相当深刻である。

12月18日の読売朝刊一面の写真をみて愕然とした。沖縄知事との会談では、知事は座したままなのに、総理は立って話していた。大きなジェスチャーで、さながら教師が生徒に言って聞かせているような状況を演出していた。胡錦濤氏との対談では、膝を揃え畏まって、歓迎の挨拶まで原稿を読んでいたことへの国民の批判と落胆にたいしての「振り付け」を誰かがしたのであろう。「説得のスキルを持っている僕ちゃん・原稿なしで話しができるも僕ちゃん」をアピールしたのであろう。

幼稚さには呆れるばかりだ。わざわざ沖縄までお越しになった総理のご高説を慎んで拝聴する沖縄県知事という画面構成を意図的に作った。ところが、この構図は逆効果である。無礼で幼稚な印象を深めただけである。総理本人の莫迦なのは国民が認めるところだが、周辺の知恵者がこのレベルでは、もはや絶望的である。

街頭演説が得意な市民運動家の限界を見た気がする。世界の要人を相手にした場合も、情熱と誠意を示すために、一人立ちあがり、椅子に座った相手を見下ろすようにして、「手を振り回し唾を飛ばす」つもりなのか。もう恥ずかしくて外には出せない。

徳川時代に手を付けられない暗愚な殿になされた如く、「押し込め」にするしかない。辞任しなければ、公邸(官邸にあらず)の奥の間に閉じ込めることだ。
「押し込め」とは:主君に対する忠誠を絶対とする武家倫理が徐々に確立した江戸時代においては、少なくとも徳川将軍家では見られなくなったものの、非常の措置として行跡の悪い藩主を強制的に監禁する行為は慣行として残った。これはお家の存続を大事とするゆえに行われた行為でもある。もし暴政により被害が深刻化した場合、あるいは藩主の不行跡が幕府に発覚した場合は、領地を治める能力が無いとして転封や減封、最悪の場合は改易という処分を受けかねないためである。
手順は概ね決まっていた。藩主の行跡が悪い場合、家老らによって行いを改めるよう、諫言が行われる。このような諫言は、場合によっては藩主の怒りを買い、手討ちにされかねない危険な行為であったが、家臣としての義務であった。諫言が何度か行われ、それでも藩主の行いが改まらない場合、家老ら重臣が集まって協議が行われる。そこで押込もやむを得ずとの結論に至った場合、実行される。
あらかじめ目付クラス以上のある程度の身分有る者で、腕の立つ者、腕力強健な者を側に控えさせておき、家老一同が藩主の前に並び「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」と藩主に告げ、家臣が藩主の刀を取り上げ、座敷牢のような所へ強制的に監禁してしまう。藩主は数ヶ月に渡り監禁され、その間、家老ら重臣と面談を繰り返す。家老ら重臣により、藩主が十分に改心して今後の行いも改まるであろうと判断された場合、藩主は「誓約書」を書いて、元の地位に復帰する。「誓約書」には、行いを改めること、善政を施すこと、押込を行った家臣らに報復を行わないこと等が明記される。
監禁の後も、藩主に改悛の情が見えず、あるいは偽りの様子としか受け取られない場合、再び悪行や暴政を行う可能性が高いと判断された場合は、藩主は強制的に隠居させられ、藩主隠居の旨幕府に届け出、嫡子や兄弟の妥当な人物が藩主となる。
1660年(万治3年)の伊達綱宗の押込は幕府の承認と監督のもとで行われた。これは公儀公認の主君押込の嚆矢となる。一方で幕府の内諾を得ない押込が発覚した際は処分されることもあった。以上、ウィキペディアより転載。
さて、「殿ご乱心」ではないかと不安を覚える昨今、「僕にも決断できるも~ん」とばかりに、馬鹿な決断の乱発に走られては大変なことになる。幼稚にして暗偶な殿を擁した日本国民は、毎日が不安で堪らないのが実情である。

国家百年の大計を担うという責任と義務はいつの間にか忘れ去られている。思えば、田中角栄元総理以来、総理の仕事は「富の分配」が中心になってしまい、総理の仕事は「調整することである(竹下登元総理)」が主になってしまった。だからこそ、「俺もやりたい」「俺でも出来る」とばかりに、信じられないような総理が誕生し続けているのである。

政と菅が一体となって国家の富を分かち合い奪い合いに血道をあげて、余ったものが、「国民生活が一番」という詐欺的言辞で分配されるような現象が顕著になったのも、今太閤・田中角栄元総理以来のことである。

総理に相応しい人物は環境によって輩出する。永田町がそのような総理を養成するような環境になっていないのであるから、総理らしい総理を望んでも詮無いという事である。全国会議員が緊張のあまり総毛立つような「有意義な刺激」が求められているのかもしれない。
.18 2010 未分類 comment0 trackback0

軍神・広瀬武夫と日本外交

広瀬武夫:岡藩士・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し、同28年(1895年)には大尉に昇進。明治30年(1897年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、明治33年(1900年)に少佐昇進。明治35年(1902年)に帰国する。明治37年(1904年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。享年36。即日中佐に昇進した。(ウイキペディア)
ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会・コワリスキー大佐(機雷敷設の専門家)の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊郭に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアズナとの文通であったという。また女性とデートしても、部下への体面があるとして手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している[5]。(国際派日本人養成講座人物探訪:広瀬武夫とロシアの人々)

NHKドラマ「坂の上の雲」の第二部第一回をみた。
武骨天使にして軍神・広瀬少佐(死後ただちに中佐に昇進)が駐在武官の任を解かれ日本に帰国するにあたって、ロシア人の恋人アリアズナとロシアの武官らが送別の宴をもってくれた場面で、不思議な感慨に襲われた。

広瀬がお礼に故郷豊後武田の友人が作った曲を披露したい旨を申し出た。出席していたロシアの軍人の高官と思しき夫婦の夫人の方が次のような発言を聞えよがしに口にした。
「猿に作曲なんか高級なことが出来るはずがない。きっと誰かの曲を盗んだんだわ」と。
「荒城の月」の演奏(アリアズナととロシア武官が演奏した)が終わったあと、会場は素晴らしい曲に感動したと思われる描写があった。

件の夫人は演奏が終わって、再び口にした。「やっぱり盗んだのに違いない。こんな素晴らしい曲を『猿』に作れるはずがない」と。当時、ロシア皇帝と高官たちは日本人を『猿』と呼んで憚らなかったことはつとに聞く話である。

さて、その時の広瀬の在りようは、表情は穏やかさを保ち終始落ち着いて何事もなかったかの如くであった。自分以外は皆ロシア人であり、自分の送別の宴を開いてくれた友人ばかりであるから事を荒立ててはならじと、ひたすら耐えたのであろう。

武士道の生きざまを体現し、日本の武人の鑑とさえ称えられる広瀬の面目躍如たるシーンである。憤りを呑みこみ、当時あからさまであった「人種差別」的屈辱と日本人としての誇りが踏みにじられる無礼な言辞に対する憤怒の思いをいささかも感じさせず無視することが出来た広瀬の態度に日本男児の矜持を見る思いがした。白人社会に受け入れられた当時の日本男児としては精いっぱいの気持ちの踏ん張りであったろう事は想像に難くない。

という事で終わればいいのであろうが、この場での無礼な発言を黙殺する態度にこそ国際舞台における日本人に対する誤解の淵源を筆者は感じた。日本人としての武士道的美学には反するのかもしれないが、この場で彼は「猿に出来るはずがない」という発言に対して、紳士的に武人らしく、彼をよく理解しているロシアの友人たちに外交的振る舞いのうちに「日本と日本人の誇り」のために発言すべきであった。

「賢しらにことあげする」事は武士にとって蔑むべき態度であり、主君に忠義を尽くす武士の生き方は何事にもじっと耐えることであった。耐えて耐えて、自らの役目に忠実に生きることが武士の美学であった。

武士道なんてものはいまや古典的日本の物語と化してしまったような現在でも、日本人の生き方を律する大きな要因として通奏低音の如くになっている。あるいは、西洋合理主義的生き方と日本的武士道の美学が一人の人間の中に混在して、個人個人がカオスの中に生きているのかもしれない。

国際舞台でこのような振る舞いをすれば、日本人の間では十分すぎるほど理解できるが、相手方にとっては、「なぜこの場で意見を述べないのか」と怪訝に思うだろうし、「腹の中ではいったい何を考えているのか」という疑心暗鬼が首をもたげてくるであろう。この日本人の不可解さは現在でも諸外国が懸念するところである。

「これを言っては相手に失礼になる」「これを言えば相手を怒らせることになるかもしれない。そうすれば帰国したら自分は無能者の烙印を押されてしまうかもしれない」などの計算が先に立ち、日本のために主張すべきは主張するという事が出来なくなる。

屈辱的取り扱いを受けたにもかかわらず、なぜだか「ここはじっと耐えて」事を荒立てない。自分はこのような状況において、国の威信をかけて意見を述べる語学力もなければ陳述するに値する話の内容を身につけていない・・とは思わずに、「自分さえ我慢すれば済むことだ」というところに帰着させて大仕事を完遂した気分に浸る。

そして、帰国すれば自分が如何に困難な状況を乗り越えて来たかを同情を誘うような身振りで報告する。同じ傷を舐めあう事で窮状をやり過ごしてきた上司や仲間は労をねぎらい、突出した活躍をしなかった後輩同僚に安堵する。

騎士道精神は武士道精神とは趣を異にしている。西洋貴族社会で培われた騎士道精神は、耐えるのではなく攻撃的に打って出るのではないか。野蛮とも言うべき過激さで積極果敢に攻めまくるし、意志を明らかに主張するのではないか。ニーチェやオルテガのいう「貴族」なのではなかろうか。

武士道と騎士道が対峙すると、武士道は騎士道から押しまくられて壁に押し付けられ、立ち往生になってしまうのではなかろうか。それでも耐えて、いつかは分かってくれるだろうと希望を持ち続けることによって、自らの落としどころを見つけているのかもしれない。

言語が違い文化が違い歴史的実績が違う他国の間にあって、日本社会だからこそ理解される立ち居振る舞いしか出来ていないのではないか。日本のエリートは今や武士道精神を身体化したものは皆無といってもいいくらいであるし、騎士道精神を身につけている訳でもない。となると、振る舞うべき基準というものが皆無ということになる。さすれば、自分の出世栄達が行動規範になっているのであろうか。

国際舞台で繰り出す日本の外交術は、ヤマト忍法「保身の術」と、無能を見透かされないように必死で駆使する忍法「化身の術」という、かなり巧妙な日本国内専用忍法しかないのではないか。

胡錦濤氏に対した菅総理大臣の挙措が国際的外交場裏における日本の高官のまさに国辱的とも言うべきシーンを見せつけてくれた。菅氏の功績の一つである。つまり、これでは話にならないと国民に気付かせてくれたという功績である。深い悲哀と共に我々日本国民はこの事実を噛みしめなければならない。

日本が誇る「武士道」とは、被統治者の哲学か、あるいは、お仕えする者の倫理か。それとも、武力を行使できない時代の非生産者の生き方指南か。素晴らしき武士道も発揮すべき場所を誤ると「敗者の言い訳」になりかねない。武士のごとき矜持は男子たるものすべからく持っていたいものだが、国際外交の場では、もっと主張できなくてはならないのではなかろうか。沈黙は金とはならない、寡黙は知恵遅れとなりかねない。外交的な、雄弁な「武士道」となると論理矛盾になるのかもしれない。難しい!!
.08 2010 未分類 comment0 trackback0

 国民的統合の物語 

 日本には回帰すべき「民族的記憶の原点」が存在しているのであろうか。
大河ドラマが終了した後しばらくの間、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が放映される。

司馬遼太郎は明治維新とその後の近代化初期における明治の青年たちが「坂の上の雲」を望んでいた希望に満ちていた時代を、回帰すべき民族的記憶の原点として提示した。これは文学的虚構を通じて国民的統合を果たそうとしたという点で、戦後日本で試みられたうちでもっとも壮大な試みのうちの一つだと評価している(内田樹)、という説がある。

さらに内田は言う。現に、司馬の意図を継いで、国民の統合の物語を宣布しようとしているイデオローグは少なくない。しかし、残念ながら、この計画は失敗を宿命づけられていた。それは、司馬的な物語を宣布しようとしている当のイデオローグたちの面貌にも挙措にも、彼らが再興しようとしている「武士的エートス」が殆ど名残をとどめていないからである。彼らは全身「現代人」であり、彼らが司馬的な物語を称賛するのは、国民的統合を成就するためではなく、殆どの場合は彼らに対立する人間を黙らせるためである。

「専ら反対党派を排除するために語られる国民的統合の物語」という言い方がそれ自体、致命的論理矛盾を含んでいる事に彼らは気づいていない。

我々日本人はそこに立ち戻ると、政治的立場を超えて、年齢性別を超えて、階級出自を超えて、国民的統合を実感できるような歴史的出来事を持っていない。

中国にはある。米国にもある。中国は「抗日統一戦線の結成」であり、米国は「建国の理念」であり「建国の精神」である。

しかるに、回帰すべき民族的記憶の原点を持たない日本人には、これらがどれほどの心理的重要性を持っているかを上手く的確に想像することが出来ない。

1911年、辛亥革命(成功していれば20世紀最初の人民による革命だが実際にはきわめて不徹底であった)によって、それまでのアヘン戦争から清朝末期以来の暗黒の数十年の中国に僅かな光明がさした。

辛亥革命で帝政は崩壊したもの、各地に群雄が割拠するという中国のお定まりの「乱世」に帰着した。第一次国共合作。その放棄。蒋介石による国民党政府による統一。その後、毛沢東による「中華ソビエト共和国臨時政府」の結成により再び政府が二つになる。そのあと、「長征」等が行われ、中国国内の騒乱は極度に達していた。

1636年、張学良が「国共合作」を要求して蒋介石を補足する「西安事件」がおこり、中国共産党から周恩来が西安に派遣され、1937年に「抗日統一戦線」が結成された。日本の軍事進出が本格的になる「盧溝橋事件」が起きた年である。

「抗日戦線」に勝利した後、国共両党は再び内戦状態になるが、1949年人民解放軍が国民党軍を台湾に放逐、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。その後、文化大革命や1976年の天安門事件等を経て中国の現在がある。

中国にとって「素晴らしく誇らしい期間」とは何か。それは、1937年の「抗日統一戦線」の結成から1949年の中華人民共和国の建国を経て、朝鮮戦争に勝利する1955年までのことである。毛沢東の指導の下、国民党と戦い、日本と戦い、アメリカと戦った期間である。

毛沢東の成功体験のうちの劇的な成功例は「抗日統一戦線」の勝利。それまで極度に乱れていた中国人がその時は文字通り「一丸」となったということであり、これに勝る成功例を持たない。

中国の政治指導者は国論が乱れたり、不安定になった時に「抗日統一戦線」に回帰するし、国民をそこに誘導する手法は、中国にとっては当然の遣り方であるということになる。
日本の軍国主義の復活の芽を摘むためには何でもありの様相を呈する中国のやり方が今一つ理解できないのもこの点にある。

軍国主義の復活などは日本の国民は望んでいないし、アメリカの日本統制政策に反逆して日本の軍国主義復活を画策する程の度胸がある政治家もいないにもかかわらず、感情的ともいえる「反日運動」を引き起こす中国の狙いは、日本の軍国主義の復活阻止という政治目的とは違う狙いがある。このことは、刻下様々な人たちが論じつくしているが、中国は、江沢民以来の反日カードを当分使ってくるだろう。

さて、「坂の上の雲」にみる「武士的エートス」で意思決定し行動する登場人物たちをみると、ある種のカタルシスを感じ爽快感に満たされる。また、登場する当時の女性たちにはある種の郷愁を覚えるし、日本女性の心の美しさと挙措の品のよさを感じる。

しかし、これが自分にとって「民族的統合の原点」とはならないし、「国民的統合の物語」とはなりそうもない。明治生まれの父の中に感じていた「武士の魂」というものがきれいさっぱり消滅しているし、よしんば多少残っていても、日常の生活との整合性は失われている事を否定できない。劇中の男性たちに、言い知れぬ「眩しさ」を感じる次第である。
.05 2010 未分類 comment0 trackback0

総理の育成 

 NHK大河ドラマ「竜馬伝」が終了した。幕末の若者群像は、60年安保から70年安保と大学紛争の時代を彷彿とさせた。1960年に高校を卒業し、安保闘争から大学紛争にかけて大学生時代と卒業後の研究生時代を過ごした筆者にはあのころの熱気を思い出させる光景に溢れていた。それにしても、騒がしいドラマではあった。

徳川幕府の時代は、大は加賀・伊達の百万石大名から下は2万石足らずの大名に至るまで、かれこれ270近い数の藩があった。藩というのは後代の名称であり当時は「国」と称した。「お国替え」「お国自慢」「国境(くにざかい)」「お国訛り」などという「国」である。

どの国にも中央に「城郭」があり、家老がいて奉行がいた。勘定方がおり、武芸指南役がいて、軍事方がいた。茶の湯や礼法の指南役がおり、能楽師がいて、政商がいて、料理屋があり、遊郭があり、特産品があり、地酒があった。

規模の違いはあるが、原則として自給自足している国(藩)があった。これらの国がそれぞれ殖産興業・農業の生産性向上を図り、領民の生活の向上を目途した。一方で、武士団による軍事力もそなえ常に常在戦場の意気で一朝事ある事態に備えていた。

つまり、徳川の時代には「治国」の訓練をする機会が日本中に常に270存在していたし、現代の宰相候補が270人もひしめいていたという瞠目すべき事実があった。

「国」の大小にかかわらず、一国を治めていくに必要な能力や技術には基本的に同じである。一国の宰相は270人、その補佐その他奉行などの専門職等が全国にはそれぞれ数百から数千人いたということになる。それぞれの立場を後継する人材は日々その教育を受け、来るべき時に備えて訓練を怠らなかった。

国(藩)の殿様の後継者ともなれば、生まれおちたその時から「帝王学」を学ぶことが義務付けられていたし、少年期には本人もその自覚のもとに修業に励んだ。高い格式の家に生まれたものは将来国(藩)の中枢で指導的立場になることを確信して勉学武術に励んだ。

幕末に前景化した名君賢君と言われた薩摩の島津斉彬・土佐の山内容堂・福井の松平春嶽・宇和島の伊達宗城が出たのはこのような事情によるものである。

彼らは、平時には徳川幕藩体制を健全に維持するために自分は何をなすべきかを考えていたのであり、戦国時代のように自らの力を恃んで革命を起こし、自らを開祖とする王朝を建てるという意思は持っていなかった。徳川家に対する不満はあったろうが。

しかし、幕藩体制の中では老中等の官僚を務めたりするが、彼らの意識の中心に在るのは官僚というよりは一国の王であった。この中の一人が将軍職に就くとすれば、自国の官僚を引き連れて幕府に入ることになる。アメリカ合衆国の州知事が大統領になってワシントンの乗り込むときのシステムに似ていなくもない。

つまり、幕末四賢公は普段は幕府の高位の官僚ではあるが、徳川将軍がその地位を投げ出した場合にはいつでもとって代われるだけの統治能力を持っていたという事である。それ以外にも、全国には数多の有能な国主(藩主)が存在し、いつでも将軍として役が務まる人材が揃っていたことになる。

この事実が、幕末明治の激動期を乗り切った大きな要因の一つである。日本にはこのような人材の宝庫であったと言えよう。一朝事あれば、国の官僚を引き連れて中央政府に入り、その日から日本全体の政治を司れる状態にあった、それも270ものシステムが動いていたという事が幕末の危機を見事に乗り切り明治維新を達成させた。

それに比べて、現代の日本の政治家たちは、「票とカネ」を集めることが最優先の課題であり、「国家の指導者としての見識も徳も技量も」殆ど眼中にない。当選して永田町に来たその日から次の選挙のことしか頭にない。このような政治家たちしかいなくなった永田町の住人に人材がいなくなったのは至極当然の帰結であろう。

現在の日本にとって、宰相に相応しい人物を求めることは、それこそ「八百屋で魚を求める」に等しい行為である。

都道府県単位の地方政治の体制を強化して、常に50人位の国家の宰相予備軍を育成しておくことも一案であろう。選挙制度を含めた大改革が求められることになる。

敗戦後、米国に支配され、米国を向いた官僚に依存してきた日本の政治システムの欠陥が、数々の不適格宰相を生んできたし、刻下の「菅総理」で、総理の器・総理の能力の問題が集約されたのではないか。菅総理の唯一の功績である。

失われた65年を、可能な限り短い時間で取り戻したいものである。
.01 2010 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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