都の海に漂う「孤舟」たち

渡辺淳一氏の小説「孤舟」が多くの団塊の世代を中心に読まれているようだ。平素の渡辺氏の作風を思うと、壮絶な老いらくの恋か、若い女性を追慕するあまり老醜をさらす哀れな老人が描かれているのではないかと想像しながら読んでみた。

印象的な場面は、デパートのネクタイ売り場の描写である。人恋しい、若い女性との交流がなくなった退職老人にとって、ネクタイ売り場はかつて行きなれた場所であり、交わす会話の使用言語にも自信があるので行きやすい場所である。

問題は、買う気が初手からないのに訪れる老人が多いらしい。つまり「冷やかし」である。しかし、「冷やかし」とは分かっていてもデパートの女店員(男子店員は問題外)は接し方が優しい。

専門店に入るのはいささか気が引けるし、現在の老人たちにとってのデパートは公共施設にも匹敵するオープンな場所だとの認識が浸透している。

買う気のない引け目を押し隠して、笑顔を自然らしく作り、プロの販売員の目にはとっくに「冷やかし」と見抜かれていることも知らずに、自分なりに健気に如何にも客らしく演じる。いじらしくもあり、哀しげでもある。

現在のところ65歳以上の老人は日本国民の4人に一人の割合であるという。60歳以上の高齢者という括りにしてみるとその割合はもっと増える。

昼間の都心の盛り場をウオッチングしてみると、若い現役の世代はオフイスの中で就業中であるから、殊のほか、高齢者の姿が目立ってしまう。しかも、「孤舟」という表現がピタリ、一人で彷徨っている高齢者が多い。

それも、男性の「孤舟」ばかりである。女性は「乗合船」状態で、たいがい二人以上のグループで、元気いっぱい辺りを払う勢いで街を闊歩している。なぜか、やたらと笑っていることが多い。

値段の高そうなレストランやカフェを覗くと。女性専用車両の如し、である。若い女性から高齢の女性まで、満面に笑みをたたえなんて代物ではない、大口を開けて呵々大笑しながらの鯨飲馬食状態。というのは、多少大げさな表現ではあるが、彼女たちには「尖閣」も「基地」もない。

彼女たちは、政治家たちやマスコミに登場する評論家などの知的芸能人たちを、自分の亭主の延長線で見ているのであろうから、「どうせ大したもんじゃない」と、端から問題にしていないのかもしれない。

「なに?菅ちゃんの、あのとろーんとした精気のない目ん玉は!うちの役立たずとおんなじ目ん玉じゃないの!」とか、「小沢とか鳩山とか、菅だか癌だか知らないけど碌なもんじゃないわよね~」と、一刀両断なのかもしれない。

とにかく、筆者が目にする女性(とくにオバサンたち)は活力に満ち溢れ、顔を見ればふてぶてしくて恐れを知らない有り様。家庭においては子供たちに君臨し、老いさらばえて会社から追い出された役立たずの亭主という「新しい同居人」を抱えてこれを奴隷化してしまっている。

いまや、「一国一城の主」とは主婦という女たちなのかもしれない。財政を握り、亭主が邪な心を抱かぬよう警察・検察の権力を握り、自分だけは勝手気ままな「自主外交」を愉しむ。奴隷化された退職亭主の役割は、家事の下準備と掃除屋と化している。あとは、ホームセキュリティーという留守番屋のお役目。

病院には縁がないほど元気は有り余っている。しかし、「行くとこない」「することない」「友達いないし」「カネもない」といった老人たちが、一人寂しく都会を彷徨っている。これでは、元気な老人を病気に追い込むだけではないか。

いまや、すっかりしょげかえってしまっているが、首班選挙のときに「一に雇用二に雇用」と叫んでいた菅総理は、若者の雇用は無論大事だが、多少老けこんではいるが、並々ならぬ技術や経営能力、場合によってはそこらの若者を圧倒するような筋力を有している老人たちのパワーを日本国の為に活用することも忘れないでほしい。

尾羽うち枯らして、自宅の片隅でいじけて暮らしている「まだまだ元気な老人」たちが、人の役に立ち、世の中の役に立ち、自信を持って生きていけるような政策を何とか考えてみようじゃありませんか、菅総理!
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.30 2010 未分類 comment0 trackback0

「取り調べの可視化」は熟議を要す

子供の授業参観日を思い出す。担任教師の当日の緊張は察するに余りある。授業自体の準備の万全は当然だが、わが子がどのように振舞っているか、教師がわが子をどのように取り扱うかに全神経を集中している父母、とりわけ母親の強い熱烈な視線を満身に浴びながらの授業は教師にとって極めてストレスフルであろう。

おそらく、多くの教師は自らの感情を押し殺し、悪平等であろうが何であろうが「平等」という2文字を呪文のごとく唱えながら授業の終了まで耐え忍ぶことに集中するであろう。

「学校の授業の可視化」といったことが強制され、いつでも父母が授業を観察することを許されたら一体教育の現場はどのようなことになるのか。また、この父母による授業の評価が現場にフィードバックされるとしたら、教育はどのような変貌を遂げるのであろうか。

検察においては、犯人を検挙し裁判で有罪に持ち込んだ数が出世の階段を昇るポイントになっているという。多くのポイントをゲットした者が意気揚々と上級の地位を獲得する仕組みらしい。一方、裁判所の方では、起訴に持ち込まれた事件を証拠不十分などと検察の面子をつぶすような判決をする裁判官は「面倒をかける奴」として、検察の反発を買い、「司法の和を乱す奴」として、次第に中枢から排除されることになるという。

一人の人間が有罪判決を下されるということは、本人の人生が破壊されるにとどまらず、その家族・親族に至るまでが壊滅的打撃を受けることは容易に塑像される。

しかるに、出世欲に身を焦がす検察官にとっては自分のポイントを挙げること以外に思慮することはなくなっている。多少の証拠の不備があっても、あらゆるテクニックを駆使して立件し裁判に持ち込む。裁判所では、検察の意向に沿って判決を下せば、検察と責任を分け合うことができるという構えの裁判官が有罪の判決を下すので、検察官はポイントをゲットでき、裁判官もポイントを獲得することができるという構造になっている。

疑わしい事件で無罪の判決を下す正当な裁判官、勇気があるといっても過言ではない裁判官も当然存在している。旧長銀粉飾決算事件や近時の厚労省の村木事件などである。これらの事例は当然、担当検察官にとっては汚点となり、マイナス評価となる。

「正義とは何か、真実は奈辺にありや」と慎重に対処するタイプの検察官の傍らで、とにかく成績をあげることに血道を上げる獰猛な肉食獣のような単細胞頭脳の同僚が暑苦しい汗をかいているのを見るにつけ辟易として、半歩一歩と身を引くことになる。そのような同僚と同一視されたくないという自己保全がそうさせる。

しかし、このような良心的な検察官は次第に傍流に追いやられ、主流はポイントゲッター達に占められてしまう。粛々と真実の解明につとめる検察官はポイントを挙げられない無能な検察官の烙印を押されてしまう。

さて、このような獰猛な検察官の強引な取り調べを危険視する勢力が「可視化」を推進している。はたして「可視化」が日本の検察の水準を上げ、冤罪の発生率を下げることができるのであろうか。

「可視化」の下での「取り調べ」とは一体どのような「取り調べ」になるのであろうか。

先に記した「授業参観」時における教師にも似た立ち位置になるのではないか。「可視化」下におけるポイントの挙げ方が従来とどのように変質していくのか関心を抱かざるを得ない。なぜなら、検察官にとってポイントを挙げて出世することが組織内での栄達につながり、退官後の弁護士稼業において多くの高位クライアントの獲得に直接的な影響があるとなれば、どうあっても、同僚に圧倒的な差をつけなければならないからだ。

出世願望が強いことは非難の対象にはならない。どの分野においてもこのような人材の存在は必要である。たとえ、毀誉褒貶相半ばしても、である。

権力欲が旺盛な総理というのは結構な存在なのである。権力の維持に邁進する総理というのは歓迎すべきなのである。なぜなら、権力を維持するためには、国家になくてはならない総理であり、国民から尊敬され支持される総理であるという証左であるからだ。

「割り屋」として有名だった渦中にある検察官らは、「狡猾な犯人」を逃さないために、「誤導・誘導・泣き落とし・脅し」などのテクニックを用いていたのかもしれない。

授業参観時の教師のような取り調べ方で、真実の追求が可能なのかをよくよく検討しなければならない。人間は自発的にはなかなか罪を認めないものだ。だから、洋の東西を問わず、過去においては「拷問」が認められてきた。

現在、被疑者を安易に嫌疑不十分で釈放し、裁判で無罪にすると勤務評価がマイナス評価され出世に響くから、しっかりした自白調書をとるために、違法すれすれのテクニックを駆使しながら検察官の全能力を傾注して取り調べている。これらがすべて公開され、衆人の興味の対象となるなら、検察官はまともな仕事ができにくいし、「しなくなる」かもしれない。それこそ「熟議」が望まれる所以である。
.29 2010 未分類 comment0 trackback0

総理は国民に肉声で語れ

現在のようにTVが発達しても、依然として日本の首相は話術巧に、演出効果を隅々にまで計算した演説を、直接国民に向けて行うことをしない。これは、アメリカの大統領が化粧をこらし、原稿を読んでいることを視聴者に気づかれない特殊装置を使ってまで、国民に肉声で語りかける最大の努力を示す姿勢とは対照的である。街角で辻説法を行うのは決まってキリスト教の牧師であって、仏教関係者が入信を勧める説教をおこなうのは見たことがない。

大学の講義でも、多くの教授たちは、椅子に座ったまま下を向いてノートをボソボソと呼んでいることが多い。せっかくマイクが準備されていても有効に使うことをせず、後ろの席の学生に声が届かないことも気にしていない様子である。

要するに、今でもほとんどの日本人は、公の場で多数の人を前にして生の言葉による自分の意思の伝達、主義主張の発表、反対者の説得といった、諸外国では極度に活用される言葉の働きを重視しない民族なのである。

だから、国連の総会場で、また各種の国際会議場で世界の人々を前に日本語が鳴り響くことの測り知れない意味と効果を想像することがする事も出来ないのである。
 ( 以上、鈴木孝夫 新武器としての言葉 株Art Days より引用)

巷の「おばさんたち」が数人集りお喋りをしているのをなんとなく聞いていると、話者が変わるたびに話題がドンドン横滑りしていくことに気づく。話題の御開帳が一通り終わったところで、喋り疲れて散会となるようだ。バラケタまんまである。

民主党の国家の在り様が、この「おばさんたちのお喋り会」とまったく似ている。アメリカに言われ、中国に脅かされ、官僚に唆され、財界に惑わされ、マスコミに囃されるたびに、課題がころころ横滑りし、民主党というのはいったいどのような政治を遂行すべく政権を奪取したのか分からなくなってしまっている。

総理の就任時に、施政方針演説がある。国会議事堂の中で、議員を前にした演説である。国民の投票により国民の信任を得た国会議員を相手に演説をし、TVで中継され、翌日の新聞に全文が掲載される。間で、TVの政治ショウでタレント評論家による解説が、視聴率を意識して面白おかしく構成されて放談される。これで、国民への説明は代用されてしまっている。総理の目は国民には向いていない。目は議事堂というタコツボで泳いでいる。

演説中の総理はと言えば、原稿を間違いなく読み上げることに腐心し、「この人は、自分場読み上げている原稿の中身を分かっていないんじゃないか」という疑念がわきあがってくる体たらくである。

予算委員会なる質疑応答のショウに至っては、肝心の予算案の審議というよりは、議員のスキャンダルの追及であり、例の「政治とカネ」などの泥仕合に終始する。財務省がたてた予算案を俎上に挙げて政治討論で丁々発止と渡り合うことは、所詮敵わぬ所為であるとばかりに、周辺の些事に存在の活路を求めているありさまである。

それも予め提出された質問事項に官僚が書いた原稿を俯いて読み上げる。それですら、誤読をしないようにと、必死の痛々しい様子では、政治家の発言としての重みも内容もないものとなってしまう。

そのような、質疑応答のやり取りすら、国対間の裏取引での「やらせ」となれば、国民は「また来た道」かと、呆れて関心を持たなくなる。これが狙いなのであろう。国会内での儀式的各党間の討議をしたというアリバイ作り以外の何ものでもない。

日本の総理も年に三回は、国民に向かって直接肉声で、「これからの日本をどのように引っ張って行くのか」「いま、何をしているのか」「国民の生活をどのようにするのか」といった国民が一番知りたいことを伝えるべきである。

多くの国民が視聴しやすい時間帯を使い、場合によっては一日に2度放映すればいい。メディアはNHKが適当であろう。いくつかの民間企業をスポンサーにした民間のTV局というわけにもいかないし、横並びで同じものを報道したがる民間TV局は、報道したければスポンサーなしの無償の報道をするしかなかろう。

日本の国会議員も当選したあとは、永田町村での仲間通しの言語の遣り取りでなく、国民に向かって語りかけてもらいたい。

総理も、政権与党内での選挙で選ばれた後は、与党内力学に専心し、官僚の作文の代読者のごとき情けない役割を演じ続けてばかりいないで、国民に直接語りかけ、政治の実態を説明すべきであろう。一番肝心な「説明責任」を放棄しておいて、些事の説明責任を総理も一緒になって言挙げすることの恥ずかしさに思い至ってほしい。

まず、総理大臣閣下の「日本の政治についての説明」を、総理大臣らしい日本語を駆使して、国内・国外に向けて語ってもらいたい。日本の総理の発言に世界も注目するような、国民が誇らしく感じることが出来るような名演説を切に期待する。
.29 2010 未分類 comment0 trackback0

ノンストップ特急バスというマヤカシと「国民の生活が一番」

所用で福岡に飛んだ。博多からA市まで行くのに、天神から「西鉄特急バス」に乗った。
A市まで「ノンストップ特急バス」と案内が出ていたし、乗車後の車内アナウンスでも「ノンストップ」であることを何度も聞かされた。

しかし、摩訶不思議なことがあるもので、A市までのノンストップとアナウンスしながら「次の停車駅は○○」とアナウンスしている。妙な事があるものだと耳をそばだてていると、博多圏内を出るまでに数駅、さらに、途中にあるB市の圏内で数駅、終点であるA市に至るまでに数駅の停車があった。

降り際に、「本日は、西鉄ノンストップ特急バスをご利用いただきありがとうございました」とアナウンスされたのには仰天した。当初の戸惑い、途中から湧きあがった憤りも終点で降車するころには収まってしまい、笑ってしまう外はないと怒気を鞘に納めてしまった。

考えてみれば、今の日本では、日常的にこのようなことばかりである。
常陸沖で捕れた「関サバ」であったり、沼津の近海モノだというので買う気になった「アジの干物」が、近海は近海でも韓国の近海モノであり、沼津の近海モノではない、といった眩暈がしそうなことばかりである。

「公約」というのがすぐ剥がれる「膏薬」並みの信用しかないということで、どこかの国の物真似で「マニフェスト」といい、最近は「アジェンダ」なるものまで登場した。

民主党の「マニフェスト」は自民党の「公約」と同じであり、結局は「掲げて、国民を誑かしただけのもの」であり、期待した国民にとっては、自民党の公約違反よりさらにたちの悪いものとなってしまった。

小沢代表が失脚し、鳩山代表小沢幹事長体制になり、管氏とともに、民主党三人衆の揃い踏みよろしくトロイカ体制なる民主党政権が船出した。

「期ズレ」とやらで小沢氏が袋叩きになっている間に、鳩山氏が「友愛」とやらで暴走し、その間隙をを管氏につかれて、トロイカの最後の一人管氏による、管代表・管内閣ができあがった。

民主党マニフェストという産地からの直送品で調理されると思っていたら、途中から様々な産地から想定外の産物が混入し、マニュフェストが掲げた料理とは似ても似つかぬ代物が出来上がっている。作った本人たちもそれがさも当然と言わんばかりである。

ノンストップバスについて、A市の地元の人に訊いてみた。
「そんなこと気にもせんかったですばい」「もう何十年もあのまんまですきね」「そう言や、止まる停車場の数は昔より増えちょる様な気がします」「村会議員とか町会議員がちょっかい出して止まるところを増やしちょうとでっしょう」とまあこんな具合である。いつの日か、各駅停車の「ノンストップ特急バス」になってしまっても「そんなもんじゃろね~」で済んでしまうのかもしれない。

そんな事態になっても、「国民の生活が第一」と叫び続ける民主党と同じく、「ノンストップです」とアナウンスをし続けるのであろう。

公約やマニュフェストが守られなくても平気な国民性であることは確かなようである。「そんなもんだ」と一旦思い込めば後は思考停止。「難しいこたー分からんと」「先生たちで怪我せんようにやったらよかたい」ということになる。

政治家にとってこんなやりやすい国民は、世界広しといえども先進文明国家の中では日本の右に出るものはないであろう。

日本が発信するものが世界を動かすなんてことは考えたこともなく、政治といえば、国内の権力闘争のみ。マスコミが面白おかしく囃したててくれれば、「おらが先生は額に汗して東京でガンバっちょる」とばかりに喜ぶし、あろうことか尊敬までしてしまう。

マスコミも新聞が売れさえすればなんでもする。政局が落ち着くと新聞が売れない。それではと、火のないところに煙を立てて、けんかの種をばらまく。議員はそれに踊らされ、政局が動き出す。次の総理は「俺だ」と思っている輩が、火に油を注ぐ。国民はその争いごとが政治だと思い面白がる。まさに悪循環だ。

かくして、公約やマニュフェストは悪徳商人の誇大宣伝と大同小異なものであり、政権さえとれれば、「旧来のアジア的」「中華三昧的」政治手法しか発揮できない。あとは、総理大臣病患者の痴話喧嘩にも似た内輪の喧嘩をしていればよい、としか考えない。

「こんな日本をどぎゃんかせんといかん」と、妙なタレントではなく、本気で思い、本気で取り組む政治家の出現を待つしかないが、そのような人材を生む土壌が痩せてしまっているから期待薄ではある。かといって、政治家の傭兵というわけにもいかない。

官僚がしっかりするほかはないという、「皮肉な論理」が出てくる所以である。
.27 2010 未分類 comment0 trackback0

検察の格言

検察には『事実を曲げてでも真実を追求する』というエートスがあるらしい。
こいつを挙げると決めたら、大筋さえ正しければ、事実関係は多少違っていてもかまわないという特捜の文化。早く被疑者を自動販売機にするようにと上司からいわれる。小銭を入れれば、いつでも検察が思うような調書を取ることができるような状態に被疑者を追い込むこと。(以上 佐藤優氏の文章より引用 月刊WILL 11月号)

『事実を曲げても真実を追求する』を佐藤氏は「格言」と表現している。実に恐懼すべきことである。

高級官僚や政治家等の被疑者の場合には、きわめて下品な性的用語を連発して、家族や世間に公表してもいいのかと脅しあげれば、エリートを自認する被疑者は自尊心を完膚なきまでにたたきのめされ、事実とは言い難い事まで認めてしまうという。

最高裁を始め地方裁判所の判事たちは、検察の捜査に大いなる疑問を感じているにも拘らず、なまじ正義感を発揮すれば一生地方の冴えない部署のドサ廻りという惨めな人生が待っているとなれば、臭い匂いが立ち込めていても蓋をし、辻褄を合せて「有罪」と判決する。

ごく最近、国会で天下りを批判した経産省の役人に対して「将来に傷がつくよ」と、馬鹿正直というか傲慢というか、冷静な理性を失った仙石官房長官の言説が取りざたされているが、司法界では、ごく内内の呪文のごとく囁かれてきたのであろう。

この佐藤氏の文章を読んだ時、大学などの「データ捏造の博士論文」を連想した。学会で発表すべき結論が先に出来上がっていて、それに合わせて実験を行う。実験データは結論にそぐわないものは破棄し、都合のよいデータだけを残す。

ひどい場合は、実験そのものを行わなかったにもかかわらず、実験したように偽装してしまう。バレなければもっけの幸いという格好である。
さて、そのような論文も単独では世の中には出られない。

学内の主査である教授の審査があり、副査の審査がある。ここで、主査副査がグルになっていれば話は簡単である。が、もうひとつ関門がある。学部教授会である。
謂わば、この論文の最終法廷である。

どんな2流3流大学にも、不幸にしてそのような境遇に身を置いている優秀な教授が居るものである。この教授が実験の不備をつつき、不可の判定を下してもほとんどその見解は平然と無視される。そして、その教授は村ハ分状態にされてしまう。

他の多くの教授たちも、博士の学位を出すには無理がある論文を、互いに目を瞑って認めあっている、つまり「傷を舐めあっている」間柄だから、黙認ということになる。

「学問の府」と謂われる大学においてすらこのようなことがある。
ましてや、法治国家の「解毒機構」として最大の信頼を得、誠実な執行が当然視されている検察・裁判がかくなる事態では、この国は半身不随か満身創痍の重病人である。

恐らく、政界・官界・財界・金融界等の各界にこの現象は同期制をもって浸透し定着しているのではないかと慨嘆せざるを得ない。

「事実を曲げても真実を追求する」という言葉を何度も復唱していると、なんだかそのような「真実」が存在するような気がしてくる。不思議な感覚に襲われるほどの秀絶な格言なのかもしれない。

事実を超越したところに存在する真実・・殆ど「神の世界」とも言えるのかもしれない。恐らく検察エリートもこの呪文に呪縛されて、何の疑いも感じなくなっていたのかもしれない。そのような「真実」が在ると思い込んだのかもしれない。

一生懸命勉強をして難しい試験を突破した人達のみに許される特殊極まる隔絶された世界なのかもしれない。

検察選良社会における「事実とは何か」、「真実とは何か」についての「用語解説」を検察人にしてもらわなければならない。なぜなら、これから国を背負う子供たちに、正しい言葉の意味と使い方をしっかり覚えてもらわなければならいからだ。

干されたくない出世したいという個人の可愛い純な気持ちが、「冤罪」生み、無実の無辜の民の人生を破壊し、取り返しのつかない悲惨な人生を強いることがあるとすれば、そのような可愛い「欲望」も、どす黒く罪深いものとなる。

内輪の文化と内輪の論理が、他の世界に猛毒を垂れ流すとするならば、現在の解毒機構(検察)を完全摘出し、新たな組織を移植する必要がある。総取り換えが可能なところから再生させ蘇生させていくしかないであろう。
.18 2010 未分類 comment0 trackback0

「政病クリニック」と専門医たち

日本という国家の健康を論じるクリニックが繁盛している。
TVクリニックに四大新聞クリニック、さらに雑誌クリニックにネットクリニックである。

各クリニックには、
憲法・法律病専門医・外交病専門医・経済財政病専門医・防衛病専門医・教育病専門医・自治病専門医・国土交通病専門医・環境病専門医・産業病専門医・生活刷新病専門医・厚生労働生活習慣病専門医などなどの専門医たちが看板を掲げている。

驚くなかれ!それぞれの専門分野はさらに細かく枝分かれし、専門分野の中に無数の専門家がひしめいている。経済財政病には、為替専門医・株の専門医・通貨の専門医・通商の専門医・景気対策の専門医・流通の専門医その他無数存在する。

外交病専門外来には、アメリカ医学を専門とする医者が鎮座している、といっても一人ではない。軍事的療法の専門医に経済的療法の専門医と、さらに細かく分化した専門医たちが腕まくりして身構えている。
仕切りカーテンの向こうには、中国医学の専門家が米国の場合と同じく軍事的療法・経済的療法・領土領海的療法科他などを標榜して患者を熱い眼差しで見つめている。

さらに別のカーテンの先には、EU医学にロシア医学、中東医学に中央アジア医学の専門家が軒を連ねている。それぞれの科には、同じく専門分化した専門医たちが功名心を露わにしながら出番を待っている。

日本という患者は、我が国の専門分化した医療体制の下では何処に掛かってどのように相談してよいのやらさっぱりわからず不安げに「政病クリニック」に訪れる。

外交病だけではなく、経済財政病も心配であるし、最近急速に症状が悪化した検察・裁判病も心配だが、取り敢えず、知人がいる外交病外来を受診してみた。

さて、TVクリニックの場合には、この外来には「みのもんた氏」のようなコンセルジュが存在していて、日本という患者が来ると、その訴えを事前に聞き取り、あるいはその患者の顔色などからクリニックに都合よく判断し、「この患者さんはどうすればいいのでしょうか?」と、如何にも心配そうに専門医たちに問いかける。

さー大変!外交病外来に居並ぶ無数の専門医たちが一斉に挙手し、身を乗り出すようにしながら「貴方はこうだ、貴方はああだ」から始まり「こうすれば治る、ああすれば治る」と、雀の学校も逃げ出すような騒乱の極み。

コンセルジュ「みの氏」はここで手腕を発揮しなければならない。「TVクリニックに利益をもたらす」専門医をピックアップすることになる。普段から、患者に貢献することよりも、TVクリニックの収益向上に貢献することを専らとする数名の専門医が選出される。

いい腕をもってはいるが、本当に患者の為になるような医療を行う専門医には予め洗脳が行われ、患者にも喜ばれるがTVクリニックにはそれ以上の利益がもたらされるような高度なテクニックを修得させている。

さてこれからがまたひと騒動である。米国や中国、それにロシアやEUの医療機メーカーや医薬品会社からたっぷり裏金をつかまされた専門医たちは、各国の代理人のごとき利益誘導的治療法を、口角泡を飛ばす勢いでがなり立てる。

TVクリニックが患者への義理立てに選んで置いた、真に良心的な専門医の声は小さく地味な立ち居振る舞いの為にさっぱり目立たない。そのうちに、同僚専門医たちのあまりにも目に余る非道さに悲嘆のあまり黙り込んでしまう。

人間の病気も、国の病気も、このような「欲と功名心が道連れの賢しらな専門分化し過ぎた専門医たち」の跳梁跋扈の故に、「誰に頼ればいいのか」「どこに相談に行けばよいのか」、混乱の極みに陥っているのが実情である。

国の病にも、個人の病にも、今求められているのは「信頼のおける練達の総合医(GE)」
である。GEが患者の話をよく聞き、必要な検査を行い、的確な診断を下し、専門医たちに担当させるというシステムの確立が望まれる。

実際、人間の病の場合も、国の病におけるTVクリニックや新聞クリニックにおけるような、各論の専門家たちが、したり顔でいっぱしの診断を行い、治療方針を垂れ流し後は知らん顔といった医療に辟易とし、失望しているし、不信感が増幅しているのではないか。

3日やったら「専門家」といわれる。お手軽にして粗製乱造の専門家で溢れかえる日本の刻下の現状では、国の病もしばらくは治癒の見込みはないのではないか。

国も実際の医療界も、有能な「GE」を見つけ出すか、遅まきながら養成しなければ、専門家と称する偽専門家よって破壊されてしまいそうだ。
.13 2010 未分類 comment0 trackback0

多臓器機能不全の日本


敗戦後65年経過した我が国は、さながら65歳の老人に相当する身体、それも健康でない身体に悩む老人の態を呈している。いまにも、生命維持装置による延命処置を施される植物人間化する瀬戸際に来てしまった。

心臓・肝臓・腎臓といった主要臓器はそれぞれがありとあらゆる病気を患い、身体各部に悪影響を及ぼしあい、いまや何からどのように手をつければよいのか治療の方針も立たなければ処置の施しようもない状態になってしまっている。

なかでも、脳神経系の機能低下は深刻である。自ら思考することを制限され、自ら発想することに強力な足枷をはめられた日本の頭脳は大脳皮質の発達を抑制されたまま65年が経過した。いまだに大国の頭脳から指示を仰ぎ、いまはまた新たな大国から思考方法を指示されようとしている。

自ら思考し、方針を組み立てる機能を有する頭脳は摘出され、指図どおりに行動する謂わば洗脳された頭脳に置き換えられてきた日本という国家は、「指示待ち脳」が国民を指導し監視するという悲惨な状態になってしまった。

国家の解毒機能とも言うべき肝臓や腎臓は、その臓器事態が深刻な毒を内蔵し、自らの解毒が機能しないまま全身の解毒を図ろうとしても十全に機能するはずがない。患った自らを隠蔽して解毒機能を果たそうとすればするほど機能不全はその正体をさらし、機能停止状態に陥らざるを得ない。

手足の運動機能も然りである。健全な頭脳の指示に従い自由に運動機能を発揮することは著しく制限され、手を後ろに組み弱々しい足腰で辛うじて身体を支え、口を尖がらせて訳のわからぬことを叫び続ける昨今の児童生徒・学生・若者の喧嘩を見るようだ。このような風潮の中で育ってきた現在の中高年も全く同じである。「僕は暴力には反対だ!」という中途半端な喧嘩しかできない「立派な大人たち?」である。

自立した頭脳の喪失のまま、心肺機能が変調をきたせば応急処置、循環機能に問題があればその応急処置という対症療法できた日本という身体は最早手の施しようを見出せない重篤な症状を呈してきたということである。

しかるに昨今の日本という身体の中で起きている事は、心臓の中であるいは肝臓の中で批判中傷をしあい、足を引っ張り合っている。弱ったそれぞれの機能の不全化を自ら促進しているような状態である。

今朝の読売新聞の社説「報道倫理逸脱したNHK記者」などは、同一臓器内の他者批判の典型であり、下品に例えれば「目くそ鼻くそ」の格好の見本である。笑止千万この上ない。

国民の多くが疑惑の目を向けたままの「裏金隠しの嫌疑」がかかっている検察が、「政治とカネ」の追求を正義の仮面をかぶって執行するまえに、「検察とカネ」の問題をクリアーすべきであると冷ややかにみていることを片時も忘れるべきではない。

マスコミの偏向報道に対しても、まずは、「政治と報道」・「報道とカネ」の問題をクリアーすべきではないかとの国民の声が聞こえていないようだ。

政界・法曹界・官界・財界・医療界・教育界をはじめ、日本のあらゆる分野が全体観のないままにそれぞれの自己主張と内部抗争を繰り返した65年間は、各界という各臓器の機能を低下させるに十分な時間であったことは確かである。その活動の基調は「欲望」以外の何物でもなかった。

菅直人総理は、個人の体験としては大きな組織の指導者としてのモノの見方を経験しないままに一国の総理となった典型であろう。自分の身体は心臓さえ動いていれば生きていけるとでも思っているのではないか。

一個の人間には多数の臓器が絡み合い調和しあって機能している事。消化機能や循環機能がどのよう仕組みなのかを恐らく知らないままなのであろう。なによりも重要なことは、自らの「脳」が思考停止状態であり、時間の経過とともに「洗脳された脳」と置き換えられ、「大脳皮質は軽量化」されている事をも感知しえないであろう。

なぜなら、自らの頭脳で国家という身体のことを考えたこともなく、野党時代に行った政治活動は精々局地戦でささやかな勝利を得ることと、自分の選挙戦位の事であろうから。

人工呼吸と点滴栄養補給装置による、植物化した延命処置を施される前に、日本という身体を少しでも回復させて、リハビリをしながらでも、自立思考をし、自立歩行が出来るようにしなければなるまい。

まずは、「洗脳された脳」「思考停止した脳」を廃棄し、「健全で強い脳」に置き換えなくてならない。日本という身体をまともに機能させるには、この大手術とい選択肢を避けて通れないであろう。
.11 2010 未分類 comment0 trackback0

電車内読書と居丈高な女たち

ひと頃、男性は漫画本、女性は文庫本を読む光景が電車内ではパターン化していた。ここ数年そのパターンが崩れたようである。

電車内の対面の座席に居並ぶ女性陣、特に若い女性陣は全員が携帯に見入っているか忙しげに指を動かしている。筆者の左右の女性もまたしかりである。一方、男性陣はどうかと周囲を見回してみると、携帯もしくは i-phone 、あるいは携帯ゲーム機に没頭している。

車内アナウンスは相変わらず、「電源を切るかマナーモード」にするようにと繰り返し注意を促している。無論、聞き流されてしまい、誰も従う者はいない。

電車内だけの光景から社会を普遍的に論ずることは出来ないが、かつては、中高年まで含めた男性たちの漫画本読みに対する女性たちの堅実な読書の光景に、子育てに圧倒的な影響力を持つ女性に対する安心と信頼を感じたものである。

押し出しも風体も立派な中高年の男性が、高価とおぼしきカバンの中から、書類でも取りだすのか、あるいは論文でも取りだすのかと思いきや、「少年サンデー」が姿を現し、どうでもいいことながら失望したことは何度もある。

この堅実な女性たちに感じた信頼の構図が崩壊したという事は、女性たちの中で何らかの化学変化が起きたのではないかと推察される。昨今の女性たちの表情がとても剣呑になり、全身がハリネズミのようなトゲトゲしさを感じさせるようになっている。

なにか、「もーやってられない」、あるいは「なにをどうすればまともな人生を送れるのか訳がわからん」とでも言いたげな、どこかなげやりな気分に覆われているようである。

「男は女の消耗品」という実に穿った表現をした作家(村上龍?)がいたことを思い出す。漫画とスポーツにしか興味のない男(夫)でも、なんとか稼ぎさえあれば捨てることはない。「ブタもおだてりゃ木に登る」とばかりに適当にあしらって、子供との世界に、あるいは女同士の世界に逃避していれば波風立たずになんとか暮らしていけるという構図も崩れて来た。

安心な筈だった会社がいつ倒産するか分かったものではないし、倒産しないまでも、我が夫がいつリストラの憂き目にあわないとも限らない。社会に出た女性たちには、今や安定とか盤石といったものは存在しないことを毎日見聞きする時代である。

一方、政治経済外交の国際的格闘技の世界における日本男性の不甲斐無さ、脆さ弱さは目に余る。投げ飛ばされ、押し出され、羽交じめにされる様が連日の新聞・TVで、これでもかというほどに豪雨の如く浴びせられる。

その、新聞・TVでは、己の弱さを棚に上げて、政官財の男たちを恥知らずにも批評し嘲笑する当事者能力と責任感のないダメ男たちがいっぱしの講釈を垂れ流す。

毎日の電車の中で、思索し読書をし、堅実な家庭づくりと子育て、更には充実した人生を設計しようと思って見ても何らの保証がない。

国の財産は強国から恫喝まがいに巻き上げられ、国土は侵犯され、国内には難民としてではなく、日本人の税金で不労所得を得て安楽に暮そうと画策する外国人が移住してくる。

教育や医療は崩壊し、年金政策も信頼が置けない。政治家は劣化し、官僚はますます利権を膨らます。裁判官や検察の信頼は地に堕ち、マスコミは単なる利益追求の商売人であることは明らかである。

もう、「消耗品以下になり下がった男たち」と「煽てて気に登らせる価値もない男たち」に何も期待できない。バカバカしくて、やってられない女たちは、獰猛にして居丈高な態度に変貌してきた。

最近では、電車に坐していて、ほんの少しばかり肘が当たっただけで「ちっ」と舌打ちされるようになってしまった。コンコースでぶつかりそうになったり、コーナーで肩が触れたりした時もである。

戸籍法と相続法の改定あたりから家族の崩壊が始まり個人の原子化が進み、心を許せる友も隣人も失ってしまった。中曽根政権の頃から近隣諸国への謝罪外交が通例化し、いまや脅せば屈服する国家となり果てた。政治家は国民に媚を売り、責任は取らない。自前の憲法すら打ち立てられない。

さらには、「外国人参政権」「夫婦別姓法」「人権保護法」という恐るべき三点セットが時限爆弾の如く仕掛けられている。社会の混乱と無秩序化が指呼の間にあることは明白。

「子供を産め?」「ちゃんと子育てしろだと?」ふざけるんじゃないよ、という女性たちの声が、「ちっ」という舌打ちと横柄で居丈高な居直りの下から聞こえてくるようだ。女性たちの悲痛な叫びが前景化するのもまた、指呼の間のようだ。
.05 2010 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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