日本に「保守政党」はあるのか

敗戦後、政治家も国民も「日本の保守」について真剣に考えてこなかったのではないか。「日本に保守政党がある」という錯覚をしたまま思考停止してきたのではないか。

保守とは、その国の伝統の中にあるもの善き知識というものを、ゆるやかなかたちで社会秩序のなかで維持していこうとするものであり、社会秩序を大きく変化させないで、少しずつ変えていこうとするのが保守の立場である。

自民党が保守政党であると思われていること自体が「妙な話」ではないか。「自由」や「民主主義」をそのまま丸呑みし、自由や民主主義という戦後的な価値を掲げることによって戦後日本を立て直すという考えそのものが「アメリカ的」な考え方であり、アメリカの占領政策のなかで日本に植え付けられた考え方にほかならない。つまり、アメリカの占領政策のそのもの上に自民党というものがあった。

アメリカに「日本の安全保障」をゆだねて、日本は専ら経済成長を追及するという「吉田ドクトリン」とよばれる戦後自民党の政策そのものが、占領政策である。安保を維持して、アメリカとの同盟を強固なものとすること、それを我々は「保守」と呼んできたこと自体がおかしな話であったのではないか。

ただ、冷戦下では、いわゆる革新とか進歩主義者と呼ばれる人たちが社会主義の側についた。そのおかげで、ソ連社会主義に対するアメリカの自由・民主主義という対立の構図ができた。その結果、ソ連に社会主義につくのが「左翼」であり、アメリカにつくのが「保守」だという認識が出来上がった。1955年に自由党と民主党が結合して「自民党」ができるが、これが社会主義の側に立つ「革新勢力」に対抗するためであった。

しかし、冷戦体制が終わり、社会主義が崩壊してしまうと、実はアメリカこそがきわめて進歩主義的な考えであることが明らかとなった。

事実、現在、世界で最も理想主義的で進歩主義的で世界主義的な考えを表明しているのはアメリカである。しかも、アメリカは、世界の秩序を守るという名目で強力な権力と武力を行使するという「覇権的」な国家である。

日本の進歩主義者はアメリカの強権的姿勢を非難するが、本来の「保守」は権力を振りかざすことを支持はしない。その国の伝統のなかにある「善き知識」や「知恵」というものを、緩やかなかたちで社会秩序のなかで維持していこうとする。社会秩序を急激に変えないで、少しずつ変えていこうとするのが「保守」である。

世界の秩序をある方向に誘導して、権力や武力をもって強引に秩序を押しつけようとするのは、強制的な革命のようなもので、「保守」の考え方ではない。

フランス革命でも、「左翼」のほうが激しく武力行使を唱え、正義のためには暴力も辞さずという姿勢であった。ロシア革命でも同様であった。大体、古き良き秩序を守ろうとする王侯・貴族がラディカルな暴力主義であるとは考えにくい。

これらのことからも、アメリカが保守的な国とは到底言えない。「ネオコン」もその名とは違い決して保守的な考えではない。英国に対する革新的理念を掲げて独立を果たし、建国してきた国である。

繰り返すが、保守的なものというのは、それぞれの国の文化や、あるいは歴史的に生成してきた社会構造をそれなりに尊重するという考え方のことを言う。

「親米保守」として「保守」のつもりでいた「自民党の議員」は、経済の発展と引き換えに、日本の伝統を破壊し、家族関係を破壊し、人間関係を分断し、教育の崩壊を推し進めて来た。さらには、地方を衰退させ、「日本人の労働倫理」を破壊してきた。

「地盤・看板・カバン」を継承してきた二世三世の議員たちは、選挙区への利益誘導と自らの権益の掌握に汲々として来た。親の政治理念を顧みることもなく、自らが所属する「党」の実態を考察することもなく、自らの政治理念を掲げることもなく「日本の国政」を担当してきた。いわゆる思考停止の状態である。

民主党政権は更に「日本の善き伝統や知識」を破壊しようとしている。大衆に媚びて国会議員の地位を得ることに血道をあげて自分たちのしようとしている事が何なのかを冷静に判断できていない。政権与党になって事の重大さに「自失状態」であることが悲惨極まりない。

米国の指示に我先に飛びつき跪くことで国内政治の主導権を確保しようとする政治家の行動原理に日本の将来はない。霞が関改革より、日本の政治家の脳内改革のほうが先であろう。政治の体制がしっかりすれば」「道具」である官僚は従うものだ。この官僚と闘っているという「漫画的倒錯状況」に早く気付いてほしい。

全てが合理的であることを金科玉条にする政策が、日本人の、就中、日本の若者の「気概」を喪失させているという事の深刻さに、政・官・業は気づくべきである。
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.31 2010 未分類 comment0 trackback0

捻じれた小沢待望論

小沢氏に対するバッシングがいよいよきつくなって来た。小沢氏に宰相としての力量が果たしてあるのか無いのか、いささか疑問である。政界きっての実力者との評判が高いが、その実力とは何か。筆者ら凡愚は懐疑的である。「本当かな?!」と。

自民党を飛び出し、「自民党を倒す」が小沢氏の行動原理であったようだが、個人的なルサマンチン以上のものではなかったのではないか。筆者の周辺の政界通の意見は概ね「ありゃー、自分のことしか考えていないよ」というのが大方の評価である。

小泉氏はこの点は上手く立ち回った。つまり、国民が、代わり映えのしない自民党政治に倦んできている事を逆手にとって「自民党をぶっ壊す」と獅子吼した。その後も自民党に居座り子息も自民党の議員として若手のホープとすら謂われている。自民党の中興の祖にでもなりたかったのが本音であった。あるいは自分にとってよければよかった。

一方、当時野党であった小沢氏らは「政治は数だ」という田中角栄仕込みの手法で、政治信条は二の次三の次で、政治理念の違いもなんのその「野合」と揶揄されながらも、旧社会党右派左派はもとより旧民社党をも糾合し、捻じれまくった「民主党」を立ち上げ、念願の政権の奪取に成功した。チャンポン党が出来上がって政権をとった。

この動向を観察してみると、日本には本来の左翼というものは実は存在していなかったのではないかとすら断ぜざるを得ない。議員として存在し続けることが出来さえすればどんな相手とも簡単に手を組むことが出来る程度のものであったのではないか。

「数も欲しい、金も欲しい」小沢氏は、先の衆院選では従来の自民党支持諸団体に手を突っ込み攪乱して回った。農業団体、医師会・歯科医師会など従来強固な自民党支持団体を掌握したという事は「バラマキ」を約束して回ったということになる。

一方、日教組や官公労をも支持団体にしているという事は、「日教組的教育」を継続するということであり、「公務員の現在を承認し、更に待遇を改善していく」ことを約束したことになる。滅茶苦茶というほかはない。

また、「外国人地方参政権」を認めようという事は、外国人諸団体からの献金と票を集めようというものであり、「夫婦別姓法案」を成立させようという事は、旧社会党の議員の政策を容認し、民主党の数を確保しようというものである。

不可解なのは、政権を取った直後の中国訪問である。その意図たるや奈辺にあるのかがわからない。数々の憶測による言説には接してきたがいまだに腑に落ちない。
かといって米国に訪問した話は聞かない。もっとも呼ばれもしないのに訪問するという事は小沢氏には出来ない芸当であろう。

さて、小沢氏が首班指名を受けるべく立候補するか否かであるが、小沢氏にとって好都合なことに「検察審査会」の結論が出ていないので「出たくても出るわけにはいかない」という格好の理由がある。逃げ回る言い訳には事欠かない。

自らが数の為に糾合した民主党のねじれを抱えたままでは宰相になりたくてもなれるわけがない。国家国民をどのような方向に導くのかの政治理念を掲げた結果の今回の民主党の勝利ではなく、自民党の凋落傾向がもたらした勝利にしかすぎないので、宰相になればその日から立ち往生になることは目に見えている。

このような人物はどの世界にも存在している。いかにも「大物」ぶってはいるが、いざ表に立ってくれと言えば言を左右にして応じない。しかし、陰に回った振りをしながら自分の声は「天の声」とばかりに権威的でありたがる。まわりには、阿諛追従する軽い人間たちを擁しているから、無視するわけにはいかない。

小沢氏に本当の力があるのなら、個人的なルサマンチンや「カネへの執着」を超えて、政治家として国家国民をいつまでも思わせぶりに翻弄しないで、ここ一番、日本国の政治を盤石なものする為に「ひと汗」かいてもらいたい。

きのう「勤皇」きょう「佐幕」。あすは「攘夷」に、あさって「開国」といった幕末の感がある刻下の日本がおかれている錯乱状態。「親米保守」に「反米保守」。憲法論議からいけば、「親米左翼」に「反米左翼」。米国はもともと建国の理念からして左翼的国家である。米国に追随する以上、左翼的な国家にならざるを得ず、日本の保守の衰退は避けられない。

数合わせという永田町国会対策。「田舎者の政局」を二流三流の政治家たちに任せて来た結果として「有能な政治家」は脱落し、理念も何もないサラリーマン政治屋たちに占領されてしまった永田町に「人がいなくなった」という未曽有の国難に見舞われている窮状を打開するためには、「本当の実力のある政治家」が今求められている。

小沢氏にもし言われている力量があるのなら、「こそこそ逃げか隠れして大物ぶっていないで」、確固たる政治体制を作り上げてみせてもらいたい。「カネ」の為でなく、「日本」の為に、「将来の日本」の為に汗をかいてもらいたい。小沢氏が主張する、日本の民主主義を育てるための「二大政党」なるものを現実にしていただきたい
.31 2010 未分類 comment0 trackback0

アジェンダとは「あっ変だ!」のことか?

公約とは、政府・政党など、公の立場ある者が選挙などの際に世間一般に対して約束すること。またはその約束。(実行を伴わないことが多い)(新明解国語辞典)。
口約とは、口で約束すること。(新明解国語辞典)。

マニフェストあるいはアジェンダなる言葉が盛んに用いられているがこれは一体どのように解すればいいのか。結婚の申し込みをプロポーズといい、下着をインナーというレベルの事にしか過ぎない。「少女売春」を「援助交際」といい、「飛び込み自殺」を「人身事故」と称するマヤカシであるのか。

渡辺喜美氏が「アジェンダ」という言葉を繰り返し口にするのを聴くたびに、なぜか妙に「生臭い嘘」を感じる。恐らく、公約(口約)に代わる「偽りの約束」の「素敵な言い換え」を思いついたとばかりに、自らの才覚に酔っているかの如き自己陶酔の表情。その表情に腐臭を感じる。

マニフェストに続くアジェンダは、「カタカナ語」を使用した新手の「騙しのテクニック」である。用語の違いだけで「新しい風」が吹き始めたかのごとく国民を籠絡する姑息な手口にしか過ぎない。

・マニフェストとは・・①宣言、声明 ②政権公約、政権政策、政党や候補者が有権者に約束する政策目標。実施時期や財源などの具体的行動計画を明示するところが従来の「公約」と異なる。
・「アジェンダ(agenda)」とは・・直訳すると、予定、予定表、行動予定、といった意味になるようで、「マニフェスト」の意味する「公約」とは違い、「党の行動予定に則って活動します」という解釈になる。

言い換えたい場合
政策名や文書名では「行動計画」「実施計画」など、会議などでは「議題」「検討課題」「協議事項」「議事日程」「予定案」、場合によっては「スケジュール」などにも言い換えられる。もともとは「実践すべき義務」のこと。英語のagendaの語源はラテン語で「なされるべきこと」という意味で、教会の「礼拝規定」や「儀式」、または「礼拝や祭典の手順を定めた文書」をさした。「実践すべき行動指針」といったもの。アジェンダの国民の理解度は、国立国語研究所の2003年掲載の情報によると、国民全体の25%未満。

「公約」は「膏薬」みたいなもので「すぐ剥がれるしし効き目もない」とか「貼りかえれば効き目がある(小沢一郎)」とか言われたものだが、マニフェストも次々に破られていく現状をみると「公約」と変わらない。

躍進したと評価が高い「みんなの党」のアジェンダが「公約」や「マニフェスト」とどのような違いがあるのかもいずれ明らかになるであろう。

「公約」が消え、「マニフェスト」と「アジェンダ」の時代になったようだが、両者を日本語で明確に定義づけする必要がある。国民有権者の共通の理解が必要である。

「あれはあくまでもアジェンダなんですよ」「公約と違って『行動指針であり行動目標』なんですよ~、必ずしも出来るとは限りませんよ・・」といった言い訳を、渡辺代表が涙目でしなくてよいように明確にしておくべきである。

党名にしてもそうだ。「みんなの党」とは、「渡辺氏ご一統みんな」の党なのか。「たちあがれ日本」は「立ち上がった後、何をするのか」をもっと明らかにしてもらいたい。創新党は何を「創新」するのか、新党改革は「旧党改革」があった記憶はないが何をどう改革するのか、国民新党とはいったい「何が国民で何が新党」なのか。新党大地に至っては何を言いたいのか意味不明。仲間内の盛り上がり以外に何も伝わらない。

党名からして、各党熟慮の結果だとは察するが「少し子供じみてはいませんか?」と言いたい。

少人数から発足する党が国家全体を担う政権公約を発表することは困難を伴う。従って、総論抜きの各論的公約(マニフェスト?アジェンダ?)にならざるを得ないが、キャスチングボードを握りインベーダーの如き振る舞いをすることが狙いとするならば、それは国会内の政局にしか過ぎない。

カタカナ語の乱用といい、党名の幼稚さといい、国会議員が「衆遇のエキス」であってはならないのだから、遠慮なく「高い目標」と「高貴な振る舞い」をしてほしいものである。
.27 2010 未分類 comment0 trackback0

女形(おやま)化する男の子たち

男子の草食化が進んでいるらしい。
読売新聞2010・07・09朝刊の「気になる!」欄によれば、「男子学生がしくしく泣きはじめたんです」とある。更に引用すれば、大学生の就活戦線で、企業の人事担当者が、男子学生の“異変”に頭を悩ませている。面接で突然しくしく泣き始めたり、頑として営業職を拒んだりする。

都内のある販売会社の人事担当者が「就活を振り返って一言ありますか」と尋ねた途端、苦しい就活で感極まったのか、突然、涙を流し始めたという。都内の就職カウンセラーも「確かに、相談中に『自信がない』と涙を浮かべる男子学生が増えています」とのこと。

また、外回りの営業職を敬遠する傾向もみられる。「面接で『人と接するのが苦手営業より事務職で』と主張する。事務職だって社内の人間関係が大変なのに」とため息まじりに話す自動車部品メーカーの担当者。

こうした就活男子の変化に対し、営業職を求める求人票の書き方を指南するハローワークも現れたという。「仕事の内容を『新規開拓』とせず、『顧客回り中心』と書くことだそうだ。「『新規』は飛び込み営業を連想させるからです」と担当者談。

日本生産性本部によれば、「ガツガツと出世を望まず、一つの会社で穏やかに過ごしたい」という意識が垣間見られるという。リクルートワークス研究所の大久保幸夫所長は「大学教育の質が問われている。企業はますますヤル気満々のアジアの若者に目を向けるだろう」と指摘している。

若者動向に詳しい中央大の山田昌弘教授(家族社会学)は「今は無理してバリバリ働いても、出世や賃金アップが期待できない。弱い男性を容認する風潮も手伝って、気弱な若者の合理的な行動の表れではないか」とみている。(以上、読売新聞より引用)

見合いの場でも自分から結婚を申し込もうとしない若者・・断られるのが怖い。恥をかきたくない。結婚披露宴で、憧れの女性と結婚できたことが嬉しくて泣きだす新郎。先の拙
稿で記した「海外赴任を拒否する若手官僚」の例もある。

同期より給料が2割少なくても「重い責任を負いたくない、人間関係で煩わされたくない、ユルーク穏やかに人生を送りたい」という若者が増えて来ている。あらゆる分野に共通する現象である。「外科医、産婦人科医」になりたくない。当直がある科の医師にはなりたくない、等も同じ範疇である。

興味深い「はなし」を引用してみよう。
平日の午後、役所に電話したところ、秘書が出た。
「局長と話がしたいのですが」  「局長はおりません」
「午後は働かないのですか」  「午後は出勤しません。働かないのは午前中です」
(おおばともみつ「世界ビジネスジョーク集」
「さあやるか 昼からやるか もう5時か」(川柳(「『サラ川』傑作選すごろく」、講談社)
出世したお役人(ナントカ省からナントカ公団の理事長に天下りした官僚OB)には、
「楽しみは 後ろに柱 まえに酒 左右に女 ふところに金」というのがある。
                     狂歌(矢野誠一「落語歳時記」、文春文庫)
以上は、竹内政明「名文どろぼう」講談社から拝借した。
いまどきの役人はこれでは務まらないだろう。しかしいまどきの若者が聞いたら、シクシク泣きながら「そういうところに就職したいのです」と数千人が殺到するだろう。

「無理しないで生きよう」とか、筆者と同じ大学の出身の医者が「頑張らない生き方」などとフザケタことを散布しているようだが困ったものだ。なにかキャッチフレーズを一つ考え出すとそれに飛びつき、提唱者をフューチャーして面白がるマスコミの風潮には腹立たしいものがある。効用もあるかもしれないが、害が多い。

渋谷を始め都内の繁華街を歩くと「女形化」した若い男の子に出会うことは希ではなくなった。眉をそり、顔に化粧をほどこし(江戸時代の武士道を説いた「葉隠」にも男の化粧をすすめる一文があるが・・)、ゆったりと嫋やかに歩く男の子。耳にイヤホン手に携帯、短いパンツにカラーのタイツ。女性のファッション誌から抜け出たような艶なる風姿。

もはや、そんなのは古い。男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくが新しい流れになる日ももうすぐだと期待しているが、どうやら、「女形化」した方が生きやすいらしい。
「草食系」でも勇猛な動物は沢山いる。「肉食系」でも弱々しい動物もいる。

「学力が落ちた」からといって、能のない「駄菓子屋」が営業時間延長をするような教育制度より大事なものがある。脳内がカラッポの九官鳥やオウムを大量生産する「早期英語教育」よりも大事なものがある。

衰弱した若者の「精神を鍛える」教育の方が喫緊の課題ではないか。それを考える、文科省の役人の脳が衰弱していたのでは話にならない。なにかといえばしゃしゃり出る「日本の賢人・識者」とやらによくよく考えてもらうしかない。この人たちの脳が・・!、もうきりがない。元気なオバサンたちに頼むしかあるまい。
.22 2010 未分類 comment0 trackback0

内言語と外言語

菅総理の消費税10%増税案が先の参議院選挙における敗北の主因と言われている。筆者はそればかりではないと考えている。今回は、そのことではなく「消費税増税」について考察してみたい。

財務省に指嗾されたと専らであるが、そのことに間違いはあるまい。「自民党が10%増税を掲げている今が好機ですよ」、「いずれ増税しなければならないのだから、自民党と同じ税率を提起すれば、あらためて提起するより楽ですよ」、「国民にはギリシャの二の舞になってよいのか」とか「社会保障の財源確保などと表明すれば、緩い国民たちですから十分な説明になりますよ」などと唆されたことは明らかである。

菅総理が自分の頭の中で「消費税増税」について充分考量して、その内言語を自ら翻訳して国民への説明に遣う外言語に転換したのならば、自分の考えた政策としてブレることなく押し通せた。ところが、財務省が十分考量した財務省の「内言語」を、菅総理向けの「外言語」として聴かされた菅総理には自分の考えとして脳に着座していない。

従って、選挙戦が近づくにつれて形勢不利となりつつあるときにすでにブレ始め、選挙戦中は徹底的にブレまくった。もともと、財政のことには暗い総理であり、経済のことには暗愚であることは衆目の一致するところである。他者(財務省)が練りに練った増税政策を言語化して菅総理の耳に入れた。菅総理はその本質の理解はできていない。

菅総理は財務省の「外言語」に納得した。これは、従来、各省庁が記者発表等で駆使した方法である。マスコミを誘導すると同時に、菅総理を籠絡した。

菅総理がもともと確たる理論を構築していない「増税案」である。自民党と同率にしておけば、「小沢氏排除の菅総理人気」で一挙に選挙を勝利できるという「財務省の提案」に飛びついたのだから「論理の足場は脆い」と言わざるを得ない。

「10%の根拠」を問われれば「自民党と同じ税率にして戦況を有利に展開したいから」とはこたえられまい。「増税の前にやるべきことがあるはずだが?」と問われれば、「官僚の壁が厚く、強力な抵抗の前にあえなくダウンしました」とはこたえられまい。「日本の事情とギリシャは同じなのか?同列には論じられないのでは?」と問われれば、「財務省にそのように不安を煽れと言われたから」とはこたえられまい。

かくして、選挙期間中に自信喪失状態に陥り、子供のレベルの言い逃れ的修正をし続けた。
その結果、「空き菅」とか「ブレ菅」とか言われ、選挙で多くの議員を落選させてしまった。

選挙の結果は、「消費税」のみでなく、民主党に対する失望感が主たる原因だろう。しかし、菅総理の総理たる器の問題、人格の問題、「ただただ総理になりたかっただけの男」の正体が露見したことなど多くの原因がある。

ここで、内言語と外言語について簡単な整理をしておきたい。(引用開始)言葉(言語)には二つの体系がある。1920年代に、条件反射反応の機構に関する研究で有名なパブロフが発見した。一つは、応答的に発せられるもので、内省を得ないで反射的に使われる体系である。もう一つは、脳内における内省を経て、内容が統合的になり、論理的に整理されて、自らの意思に基づいて発せられる言葉(言語)の体系である。

パブロフは前者を「外言語系」、後者を「内言語系」と名付けたが、後にN.チョムスキーは、これをこれらの体系をそれぞれ「E言語(Externalized Language)」、「I言語(Internalized Language)」と名付けた。というのが定義であるが、今回は、このことにはこれ以上言及しない。内容のない外言語どうしの応酬が繰り広げられる、政治家どおしのTV討論などに言及したいがまたの機会にする。(引用終わり)(桜井邦明著 日本語は本当に「非論理的」か 祥伝社)

個人の内言語と外言語は、発展して組織内の内言語とその組織の考えを外言語として外部に説明する際にも使われる概念である。その際、組織内内言語を上手く適切に翻訳する機能が存在しなければ外部に十分説明責任を果たせない。

このあたりの翻訳機能を操作することによって、組織内内言語、例えば財務省内内言語を外言語化して不十分に伝えることが可能である。その説明をマスコミはそのまま受け取り、内容不明のまま国民に伝える。それでも、財務省は国民に情報開示したと言い張れる。

今回の菅総理は、この操作された説明を受け、消化不十分なまま選挙戦に臨んだことになる。民主党の中で十分に検討した挙句、民主党内内言語を国民向けに外言語化したものではないし、菅総理の内言語を外言語化したものではなかった。このことが、総理としての見識、力量が問われたという事である。

官僚の脳力にはるかに及ばない脳力であることが明らかになった以上、政治のトップリーダーとしての資質に欠陥があるという事である。つまり、菅総理は総理の器ではない。元の「反対屋」が指定席である。市民運動家に戻った方がよかろう。
.21 2010 未分類 comment0 trackback0

お笑い番組の政治家

「政治家の言葉が軽い」とは近頃よく言われている事である。恐らく、我々日本人の言葉自体が軽くなっているのであろう。あるいは、軽い表現しか遣わなくなったと言った方が適切かもしれない。

ことさら政治家の言葉が軽いという事は、政治家には、あるいは責任ある立場の人には「重い、内容のある言葉」を遣って欲しいという願望が込められているということである。

久し振りに「民放」の政治家出演番組を幾つかみてみた。相変わらずの顔ぶれで、「幼児化」しているのか「未成熟」なまま政治家になったのか判然としない出演者に悪寒が走った。

NHKの政治討論番組は「民放」に比較すれば落ち着いて聴く事が出来る。司会者が「民放」との格差を明確にする為に出演者に「行儀よく」話をさせるべく細かな配慮をしている所為である。出演者も、この番組ならば安心して話せるという確信があるのか、「民放」に比べて比較的「大物」が出ている。
「民放」でも日曜日早朝の番組には、「じゃじゃ馬馴らし」さながらとでも言うか、野牛の群れを鞭で矯正しながらなんとか時間内に一応の容をつけるべく、懸命の努力をしながら大汗をかいている司会者の居る番組がある。学級崩壊教室の教師のようである。

問題なのは、「芸能人」が司会する「政治家出演番組」である。これらに共通しているのは、各党、特に自民党と民主党の議員を角突き合わせて、政治家の「喜劇的、悲劇的」場面作り出すことにある。パンとサーカスの広場の「生贄」である。

国民に「政治家の浅ましい姿」を見せることによって政治家の権威を失墜させ、国民が政治への期待を抱かないように仕向けているとしか考えられない。「笑いをとる」ことを生業とする「お笑い芸人」等に「いいようにあしらわれている政治家」の言動を視聴させることによって、本来権威があってしかるべき存在を「水に堕ちた犬」のごとく凌辱し侮辱して見せることで「ショー」を構成し、国民の溜飲を下げさせるのが主眼になっている。

出演する政治家もその辺のところをよく理解しているのか、番組が要求するとおりに実に忠実に演戯をしている。「お笑い芸人」も顔負けといった趣がある。ストリートのチンピラよろしく、肩をいからせ目を吊り上げて相手を罵倒するだけ、言説を吐き捨てるだけのバトルを展開して見せる。

本人の思考を「内言語」とするならば、党の方針に従って吐き捨てる言葉は「外言語」といえる。政策によっては党の方針とは微妙な違いがあっても当然である。しかるに、番組が求めて要る役割を演じようとするあまり、機関銃のように言葉を発しているものだから自分の言説の論理矛盾にも気が付いていない。

何故、国会議員が「芸能人の嬲り」に唯々諾々と従っているのか理解が出来ない。
・顔が売れて選挙に有利なのか。
・国会で重用されていないことへの憂さ晴らしなのか。
・出演料が魅力なのか。
・ただただ「目立ちたがり屋」にしかすぎないのか。

各党はこのような「政治家を娯楽の対象とする番組」への出演要請を拒否すべきであろう。個々の政治家との交渉が主体ならば出演を禁止すべきである。

どうしても、このような番組にも協力しなければならないならば(?)、出演者の選出に慎重な配慮がいるし、番組に一定の要求をすべきであろう。特に目につくのは自民党の議員で、東大法卒農水官僚上がりのK氏については、自民党の評価を著しく低下させ、党の品格を貶めこときわめて著しい。このような代議士を選んだ選挙区の「民意」には何ら言及するつもりはないが、党のためには一考を要すると言わざるを得ない。議員全体の品格の保全のためにも必要である。

民主党始め他党も「他山の石」としてはならない。
なぜならこのような「民放」の影響は軽視できないからである。議員を身近に感ずるという事と、議員が「軽い、権威のない者」であるということが同じであってはならない。

マッカーサーが米国議会で「日本人は12歳くらいだ」と報告したことはよく知られている。TV出現後、大宅壮一氏は「一億総白痴化」と形容したが、あれから数十年、我々日本人は果たして成熟したのであろうか、あるいは「白痴」の方が進行したのであろうか。

現在のような選挙制度では国民のレベル以上の政治家の選出は難しいと言われるが、もしかしたら、「お笑いショー」に出演して嬉々として役割を演じている国会議員は、演戯ではなく「地のまま」なのかもしれない。

「かくして誰もいなくなった永田町」が、諧謔を弄しているのではなく事実なのかもしれない。「総理」といって恥ずかしくない国会議員を想定できない最大の不幸に見舞われている「おかしくなった日本」なのではあるまいか。国会のねじれはそれなりの効果はあるが、「党のねじれ」はなんとか解消してもらいたいものだ。無駄にエネルギーを消耗するだけである。
.20 2010 雑感 comment0 trackback0

外交官は「偉丈夫」「美丈夫」たれ!

旧聞に属するが、旧大蔵省を退官した知人から自虐的に聴いた話だが、「公表しない」「責任を認めない」「直さない」「謝らない」、これを役人の「四無主義」という。その他に、「会して議せず、議して決せず、決して行わず、行って責任を問わず」、これも同じく四無主義という。後半のものは「四せず主義」といった方が適切かもしれない。

このような役人が、例えば医療界には、「患者に十分に説明するように」とか「情報公開」等を指導している。また、あらゆる事業者に対して「公表し」「責任を持ち」「直し」「謝る」こと、さらに「会して議せよ」「議して決せよ」「決して行え」「行って責任を取れ」と指導している。

さらに、「霞が関文学」と称される「曖昧な表現で」いかようにも言い逃れができたり、相手の気付かないところで「法案の趣旨」を変えてしまうという必殺技を駆使する。

成績優秀にして青雲の志を抱いた若者が、希望がかなって入省すると、このような空気が充満する部屋で「高級官僚としての教育」を受けることになる。つまり、洗脳され、省益優先の原理を叩きこまれ、国民よりは「省」の組織の論理に隷属させられる。

外務省では憂慮すべき風潮が蔓延しているという。「海外勤務を拒否」する若手官僚が増加しているという事である。
「老親の介護」「子供の教育」「過重な責任を負いたくない」等が原因である。外務省を志した時に、親はいたであろうし結婚もする予定であったろう。子供もつくるつもりであったろうし、おやこで「白いブランコ」も思い描いたであろう。また、「海外勤務」に備えて国費で「語学研修」も受けたであろう。

外務省のキャリア官僚が、「海外勤務」を拒否するという信じがたい事態をいったい誰が予想できたであろうか。

最近、日本の若者が内向きになってきたとはよく耳にする。韓国や中国、その他のアジア諸国の若者が積極的に欧米に留学していることと全く対極の様相を示している。
まさか、外務省の若い官僚ですらこのような傾向の中にあるとは・・。

海外で苦労するよりは、本省勤務で「官房長」や「局長」として役人生活を、先に記した「四無主義」で過ごしてほうが幸せだと思っているのであろう。

「国際戦闘能力」を身につけさせ、日本の顔として海外でおおいに活躍してもらいたいどころか、「語学や生活の苦労はしたくない」「海外で不安な毎日を過ごすのはイヤだ。安全で暮らしやすい日本で生活したい」ということだそうな。

海外勤務のジャーナリストや商社マンからは「とにかく、この頃は『海外における日本の影が薄くなって来た』し、ますますその傾向が強まっている」という危機感に満ちた話がよく聴かれるようになった。

「ホウホウの福田氏」「アーウーの大平氏」「いいですか皆さん!の田中氏」「英語だけの宮澤氏」「清潔で無策な村山氏」など、海外ではほとんど「居ただけ」の総理たちが続き、これからも似たり寄ったりの「惨状」が予測される日本の外交場裏で期待される若手外務官僚にしてこの「悲惨な状況」では、海外における日本の存在感などは「限りなくゼロ」に近付くということになりそうだ。

中国の元駐日本特命全権大使であった「王毅氏」の如く、国によっては、海外に派遣する外交官は「偉丈夫」「美丈夫」を選んでいる。フランスなどはその典型である。さらに、王毅氏は日本語で講演を行うことも多かった。

筆者は、外交官は赴任地においては「日本の顔」であり「日本のメッセージ」であるから、入省年度だけではなく「どのような外交官」を派遣するかについての基準レベルをアップしてもらいたいとの希望をかねてより持っていたが、外務省の現在の状況では「赴任してくれるなら誰でも」という想定外のことになりそうだ。

総理を始め政治家といい官僚といい、「外交ベタ」と「引き籠り」、「語学音痴」に「洒落音痴」がこれからも続くようなら「国際戦闘能力」など及びもつかない。

鳩山由紀夫元総理には、語学力と本格的な科学者として、これまでとは違った存在感を海外で示してくれることを期待したが「話に中身」がなかった。
菅直人総理には、はなから何も期待できない。

総理になりたかっただけの人物には、「国際舞台」どころか「国内舞台」においてすら受け容れられないのではないか。
早く退陣して市民運動家に戻った方がよさそうだ。

菅氏に唯一残された道は、政界再編成か大連立の捨て石になり、日本の政界の大掃除かもしれない。さすれば、歴史に残る「大宰相」として認められる可能性はある。
.16 2010 未分類 comment0 trackback0

大連立を!!

心ある政治家は今回の参院選の結果を「奇貨」として「大連立」に向かって戴きたい。

公務員改革? 
・十分な備蓄をして一族が堅く結束して「籠城」する官僚軍に、城外からスピーカーで呼び掛けるようなやりかたでは100年待っても実現するはずがない。

消費税? 
・10%に確たる根拠もなく自民党が提起した10%に便乗するような政治センスには論評のしようもない。
・税による増収が実行されれば必ず「中抜き・着服」の悪行の清算をしないままでは国民は納得しないという事がわかっていない。
・景気対策、景気浮揚策としての言説にまるで信用がないという事がわかっていない。
・私的利得に走る輩が輩出した過去の清算が必要である。

無駄の削減? 
・これも「一族籠城戦」のまえにあえなく敗退の構図が見えてしまった以上、多くの成果を期待できないことは明らかである。
・こんなものは「公開のショー」で実施すべきものではなく、やるべきことはきちんとやるのが「大人の政治」である。「子供会」の行事と何ら変わりがない。

喫緊の課題は、「経済の長期短期の展望」を」示すことであり、「国防に対する不安の解消」であり、「一人前の国家として諸外国と並び立つ」ことである。

「日本としての経済対策」「日本国家の自主憲法の制定」「自国の防衛は自国で行う」の三点を軸に「大連立」を行い、国家の基盤を、盤石な基盤の構築を早急に成し遂げて欲しい。

無論、時間はかかるだろう。その大連立政権には4年ないしは6年間の時間を与えたい。

年々政界の人材が小粒化し劣化している事は国民全部が周知のことであるが、それにしても何人かの人材は残っているはずである。
「命をかける」とか「身体を張って」とかの言辞を何にもの政治家が口にしてきたが、小さなコップの中の「小さな争い」、それも「政治家個人の欲望」の達成にその全エネルギーが注がれてきたとしか評価できない。

敗戦後65年、「日本国とはこういう国である」という事を内外に示してもらいたい。
民主主義国家の国民に選ばれた者としての権力を与えられているのだから、この際「国と国民」の為に身命を賭して実行してもらいたい。

「官僚」は、そのような国家が出来上がれば、その国家の官僚として生きなければならないのだから、「部屋の模様替え」のよな「改革ゴッコ」で「勝ったの負けたの」の愚を100年繰り返す必要もない。

「雲隠れ」が得意技といわれる刻下一番の実力者がいるらしい。その人以外は話にならない小役人のような政治家ばかりだとも聞く。

その実力者に「外国人参政権」とか「夫婦別姓」等より、「国の根幹にかかわる政治」をやって見せて戴きたい。そのようなことより、「教育」や「雇用」など、将来の日本国にとって最重要な課題はいくらでもある。

政治家の皆さんは「最重要課題」には「知らんぷり」して、「埒もない政局」とやらで走り回り、「仕事をしている振り」をしても、もはや通用しない。こんなことばかりに血道をあげているから「愚劣きわまる政治家」が実力者と言われたり、大物などといわれるのである。
国家の危機的状況にしっかりと目を向けるべきではないか。

日本の叡智の総本山、諸賢人の総卸元である東京大学法学部には「日本国憲法」の草案が複数準備されているであろう。敗戦後の数十年間、諸外国の憲法の翻訳や解釈、「現在の憲法の解釈」に明け暮れしていたわけではなかろう。

あとは政治家の覚悟が問われるばかりである。

「菅総理がどう国会運営を考えている」とか、「小沢氏は何を考えているのだろうか」とかいう「推量ゴッコ」をしている場合ではないのではないか。このようなことは、ワイドショーのコメンテーターとか「座付き政治評論家」に任せておけばいいし、政治家はこのレベルに左右される必要もない。

日本の優秀な若者が「政治家」を目指すような「骨のある政治家」の姿を見せてやって欲しい。「国家」と「国民」の為に貴い汗を流していただきたい。

官僚の言う「無知蒙昧」な国民の一員にして、愚昧な筆者としてのささやかな希望を述べた。浅学非才・多謝。
.13 2010 未分類 comment0 trackback0

政界再編を期待する

民主党敗北を歓迎する。大規模な「政界再編」を期待したい。
今回の選挙は民主党にとっては米国の中間選挙のごとき性格を帯びていた。民主党が政権を獲得して以来今日までの政策実行能力が問われた選挙であった。市民運動家出身にして総理になりたいだけだった菅総理は、短い時間だったが退陣すべきであろう。

国民の強い関心は日々の生活であることは当然のことであり、国民の生活をどのように持っていくかについて明確なヴィジョンを提起することは重要なことであることは論をまたない。国民生活を重点政策におかない政党が政権を取れるはずもないし存在しえないことは当然である。

しかし、目先の国民生活だけが政党間の論争であっていいのだろうか。困難な論点から目をそらし、国内問題だけに焦点を絞って政治を行っている場合ではないし、「逃げてばかりはいられない政治課題」があるはずである。

日本の政治は国内問題に対処するだけでは事足りるはずはない。民意に沿うことは揺るぎない「大義」であるが、国際的な立場で日本をどのように位置づけていくのかという事も政治が示す重要な「キモ」であろう。

民主党も自民党も、過去の歴史をたどれば、「とにかく多数」が目的であって、政策論議は二の次三の次であったことは否定できない。その結果、言うところの「右と左」の混成部隊となっているのが両党の現実である。

政治家たる者は誰でも、自らの属する政党が政権をとり、その中で自らが公約した政策を実行したいのは当然であり、いつかは大臣になり、あわよくば総理大臣として一国の宰相となり全ての権力を手にしたいと思っているであろう。

そのような我が国政治家たちに共通の「欠陥」がある。「日米間問題に取り組む姿勢」がないことである。「平身低頭米つきバッタ式外交」しかみられない。
日米関係は敗戦以来65年有余、「米国に従属する関係」であることは多くの国民が認識している事である。

自前の軍事力を有しない我が国が軍事的には米国に完全に依存している。当然であろう。日本の再軍備を米国は許さず、このまま日本の首根っこを押さえたままの方が米国の国益に有利であるからである。米国が自国の都合で「駐留基地を全廃」するまで現在の両国の関係を変化させることは困難であろう。

自主憲法の制定と日米関係の改善こそ、国民生活と並んでの重要政治課題である。
独立国家として名実を獲得することが戦後の総決算であり、国際的に「一人前の国家」として振る舞える資格を得ることになる。

アジアにおける「工場」とされた日本は、朝鮮戦争・ヴェトナム戦争など他国の不幸のなかで図らずも経済の発展を遂げて来た。G7やG8に有色民族として初めての仲間入りを許され、白人間の外交習慣になじめない日本が「孤独な外交」をなんとか行ってきた。

国内的には、国際舞台で脚光を浴びる程に成長した日本を演出してきたが、出席した日本政府首脳らは、米国に従属する「貢ぎ屋国家」の悲哀は痛いほど感じて来たはずである。

米国の従属国家であることは否定できない。60数年の間、その恩恵を享受してきたことも否定できない。しかし、米国が日本を有効活用できると認定している間の危うい関係であることも否定できない。

東西冷戦が終結して既に長い時間が経過した。しかるに、我が国には次代の国際社会に果敢に対処していく体制に転換できているとは言えない。

役目を終わった政治理念の政党がジリ貧になりながらもいまだに余命を保ち国の活力を阻害している。万年野党の政党もその理念を刷新して出直す時期であろうし、それが出来ないならば退場すべきであろう。

超大国アメリカは今もその立場は堅持しているかに見える。しかし、「ローマ帝国の終焉」の様相が表面化してきたことも事実である。いつまでも米国に全面的に依存していけるはずもない。このままでは、ますます膨大な「ミカジメ料」を巻き上げられることになるであろう。

自主憲法制定、自前の軍事力を持つ「本当の独立国家」になり、米国との政治的経済的盟友関係にシフトすることは避けて通れない「政治課題」であろう。この課題から逃げないでこの国の舵取りを表明し政治を行うことを明らかにする政党が出て来なければならない。

政界再編が、「総理になりたいだけの男」の野心を満たすだけであってはならない。国内政治のみならず、日本の国際的立場をも争点とする本格的政治家たちの出現を心から期待したい。そのうえで、喫緊の課題である「国内経済」や「教育問題」、さらには「社会福祉」などの政治課題に取り組まなければ、日本は「国際的再編成」の際の「落ちこぼれ」になってしまう。
.12 2010 未分類 comment0 trackback0

無知蒙昧は知っている

参議院選挙は明後日。
各党の候補者の街頭演説を聴いてみたが、「国政選挙」にしてはあまりにも貧困な内容に今回も失望している。消費税・政治とカネ・公務員改革など聴きあきたと言えば失礼かもしれないが、消費税の問題は上げる理由と還元の仕方に虚偽の匂いが漂う。

政治とカネの問題は、新人・現職を問わず「あなた方にそのようなきれいなことが言えますか?」という質問を返したくなる。「公務員改革」は自民党政権時代からもう何年間叫び続けているのかとウンザリしてしまう。何をどうしたいのかが判然としない。

日本国国家公務員の本当のボスは日本国国会議員でもなければ内閣でもない。日本国国民の公僕たる国家公務員の指示待ちベクトルがどこを向いているのか国民は既に知っている。

「憲法九条」と「安全保障条約」と「地位協定」に吉田茂元総理が署名させられて以来、日本国は「牙も抜かれ爪をはがされた」ことを日本の国民は知っている。爾来60数年すべては米国の命令に従わざるを得ない「日本国」であることを知っている。

「社会党」も「共産党」も中国の指示やソ連(当時)の指導で出来たのではなく、米国の意図で創られたことも知っている。自民党が暴走しないように社会党が足を引っ張るように、共産党が「正義」を国民に訴えるように「構造的に構成された」事を知っている。

「自民党と社会党」が連立政権を立ち上げた時も、従来「国会対策」という裏技で駆け引きしてきたことを知っている国民は、国対のベテラン「村山総理」の誕生にもさして違和感を持たなかった。大騒ぎをしてみせたのはマスコミだけで、表と裏が止むにやまれず一体化しただけのことだという事を冷めた眼差しで見ていた。

この60数年間の日本の政治は、米国の「筋書きどおり」に行われてきただけである。

池井優・慶応大学名誉教授のマイケル・ブレーカー著『根まわしかきまわしあとまわし――日本の国際交渉態度の研究』(サイマル出版会, 1976年)を借りて言うならば、「沖縄基地問題」における鳩山由紀夫元総理の言動は、その祖父・鳩山一郎元総理の「日ソ国交回復」の動きと全く同じ轍を踏んだのではないか。「根回し」は何ら行われず「かきまわし」た揚句「あとまわし」なのか「ヤーメタ」なのか定かではないが、軽率な功名心しか透けて見えない。一国の総理大臣としての政治的センスのかけらもない、そこいらの三下議員のレベルと変わらない。

凡庸な筆者は難しい政治的なことは分かりにくいから、芝居に例えて「政治ドラマ」として鑑賞している。決して政治に無関心な訳ではなく凡庸な国民としてのレベルは維持しているつもりだ。

原作は米国、脚本も米国、演出は「霞が関官僚」。出演は「各党という各劇団」の合同公演。原作と脚本の翻訳に四苦八苦の末、数か所の誤訳もあるので、芝居がスムースに行くはずもない。オーディションは通過したが「研修中」の高額給与所得者を除きせいぜい100人ほどの役者が舞台に上がる。

さながら劇団四季の「サルまねミュージカル」を観るがごとき大根役者の芝居ぶりに原作者のお叱りを一身に受ける演出者も気の毒だが、脚本に「異議申し立て」を一切できない役者も気の毒。それでも、「俺こそが2枚目」とばかりに勘違いの張り切りボーイの取り扱いが難しい。

演劇には批評がつきもの。しかし、この批評も原作と脚本には触れられないという暗黙の制約がある。従って、政治評論家や学者・・否・・芸術を解する専門家や劇評家たちは、瑣末なことを評論の俎上にあげるしかない。

「あの二人が仲違い」とか「演出にこっぴどくやられたらしい」とか「あの役者とこの役者が出来ちゃったらしい」などである。恐ろしくて、「原作」や「脚本」の芸術性なんかに論を及ぼすことは金輪際出来ない。

このような鑑賞の仕方をしてみると、所詮「営業力はあるが」、原作から創造して「芝居」をすることが出来ないローカルな劇団であるとの悲哀から抜けることはできない。原作者も居て、脚本家と演出を自前で持っている他国の劇団からは「一人前」の評価は受けられない。「衣装がいいね」「舞台装置に金をかけているね」くらいなものであろう。

「六カ国協議」で、「拉致被害国」でもあり、何よりも「独立国」を標榜する日本が出席を拒否されるという不名誉極まりない事態にも、穏やかな反応を示す我々凡庸な国民であるからこそ「演出家」だの「スター」だのと威張っておれるという事を知らなければならない。

マスコミに登場する学者・評論家にたいしても「それぞれの立場」について寛容なるというか凡庸なる反応をする「術」を心得ている国民あっての存在であることを知らなければならない。

もう一日、本芝居の「幕開き」までの選挙というオーディションを愉しもう!
.09 2010 雑感 comment0 trackback0

欲望という名の満員電車

「欲望産業」という言葉を耳にしたのは男の下半身の欲望を商売にする産業(?)の意味合いであったと記憶していたが、高杉良氏の小説「欲望産業」は消費者金融の経営者を主人公として、そのあくなき欲望を活写して以来この言葉が違った意味で世の中に定着したようだ。

あらゆる産業における商品の開発は「人間の欲望をいかに満たすか」が共通のテーマであろう。「利便性」とか「省エネ」。あるいは「他者との差別化」であったり「所有することの誇り」などの言説で消費者の購買意欲を煽り欲望を使嗾する。これが、産業界の「生き残り戦略」であり「有望企業の能力」ということになるのであろう。

大先輩に対して僭越ではあるが、戦時中の生まれである筆者は戦後の経済復興期には、日毎に便利になる生活、質が向上する生活、医療の進歩、清潔さを増す生活などワクワクするような喜びと希望を感じたことは確かである。が、もうこれくらいの便利さで一般庶民は十分なのではないかと感じている。

ある段階から「これ以上便利な生活は不要ではないか」という声が頭の一部を占めるようになってきた。にも拘らず、普段使用しているツールの機能が更新されたものが発売されると、その進化した機能によってなんら利益が生み出されるわけでもないのに無意識に乗り換えてしまうこともまた事実である。

将来使用することで何らかの恩恵を受けるわけでもないのに、夢を追って「英会話」に貢ぐ者のように、これ以上の利便性は実際には不要であるのに、所有したいという「欲望」に打ち勝てない。

「情報社会」から取り残されるという恐怖から、必要もない情報を、情報とも言えない情報をいつでも取り出せるような生活が「現代人の必須条件」であるかのごとく「刷り込まれてしまった現代人」は、「情報通信料」とやらに一体どのくらいの額を支払っているのであろうか?収入総量の中で占める割合は相当なものであろう。

最先端情報機器に身を固め、最新の情報をゲットしていたいという欲望に生きる若者の勇姿(?)を目にすることが多くなった。他者と厳然たる差別化を欲望する若者は機器だけではおさまらない。手には情報誌、ファッションといえばハリウッド映画のデジタルヒーロー並みであり、大きなサングラスで覆われた顔から得意満面の表情はうかがわれない。

おそらく、「脳内デジタル畑には無数の蝶が舞っているのであろう」ことは想像に難くない。
まさに、「欲望」がフル装備で歩いているようである。このようなタイプの若者には生活の匂いがしない。異性と交流する生身の人間の「勁さや脆さ」を感じない。

かっての気分左翼の若者が平凡なオヤジ化したように、若い一時期にそのような存在に身を擬して「演戯」をしているのであり、いずれ普通の男になっていくのかもしれない。しかし、このような資本主義社会の「欲望開発型」のビジネスの忠実な下僕と化した若者が、他の価値観に生きがいを見出すとは思えない。

一方、消費者が「もう現状で十分に便利で快適な生活をしている」のでこれ以上は不要であると宣言するとどうなるのか。あらゆる産業が立ち行かなくなる。経済は停滞するどころか崩壊し、国家財政も破たんする。

「もっともっと便利で快適な生活をしたい!」と「欲望を呪文の如くとなえる」消費者であることを渇望する民の存在こそが、資本主義的消費者下僕化産業社会が持続し活性化されていく条件となっている。

いったん火がついた「人間の欲望」に水を差すことは難しい。政治レベルでいえば「社会保障」「社会福祉」を求める国民の欲望にどこまで応えていくのであろうか。
「社会福祉はもうここまで」といえる政治が可能なのであろうか?「国民の欲望をベースにした大衆迎合政治」は「遂行不可能」を承知の上で「国民の欲望」に応える政治を続行するつもりなのであろうか。

「植物化」しても架空とはいえ生きているようにし続けて欲しい、というのは「本人と周辺の者」の本当の願いなのだろうか。それとも、そうすることが利益につながるなにかの「産業の要請」なのであるのか。

このまま推移すれば、国家と国民生活の破たんは避けられまい。さすれば、国土と国民は名実ともに何処かの大国に呑みこまれ、日本国民が「ヤプー化」される事もあながち有り得ないことではない。究極の格差を強いられる悲惨な事態が想定される。

自由に制限と義務があるように、資本主義的欲望肥大化推進策にも何らかの歯止めをかけないと、全国民が「欲望の遺棄場」に押しやられ、そこですら「自分だけは生き残りたい欲望」が「悲しい戦い」を誘発し、全員が奈落の底という「遺棄場」に転落することになろう。

賢明なる政治を心から希求する。
.04 2010 未分類 comment0 trackback0

誰もが何でもやれる時代

どんな職業もよほどおかしくなければ誰もがやれる時代になった。
一世を風靡したTVcm「わたしにも写せます!・・エイト」以来「誰にでも写せるカメラ」という名称が世に定着した。以来、「誰にでもできる・・」が溢れ市場は活性化された。

取説と言われる「取扱説明書」に工夫が凝らされ、誰にでも使える様々なツールが巷にあふれ、手に入れさえできれば誰もが等しく同じ愉しさを享受できる時代になった。そのツールも進化して、いまや、パソコンや携帯電話を始めi-phoneや各種のゲーム機は老若男女が全く同じ土俵の上でエンジョイできる。マニュアルを読めなくても感性だけでほとんどの者がかなりのレベルの使いこなしが出来るようである。

かくして、いい大人と小学生が同じ機器で同じゲームを遊ぶ光景が電車の中などで見られるようになった。大人と子供が同じ漫画本に夢中になっている姿に異常さを感じたのはすでに過去のものとなり、大人と子供が同じツールを使って同じ遊戯や情報に接することの異常さにも慣れてしまった。

この現象は医療界にもみられる。ベテランと新人が同じパソコンに向かって、同じデータを読み、患者に同じ診断名を伝え同じ処方箋を発行する。患者の顔はほとんど見ない。マニュアルに従って同じ検査を行い、そのデータを読んでいる訳だから同じ結果しか出ない。
極論すれば、「誰にでもできる・・」で、診療科によっては、誰にでも医者が務まるということになる。将来、ロボットの活躍範囲によっては、外科領域まで「誰にでもできる・・」が務まることになる。

教育界には、昔から「指導要領」というのがあって、各科ごとに「解答と解説」が事細かに記載されており、この「虎の巻」さえあれば出来の悪い教師でも自信を持って教壇にたてた。想定外の質問が優秀な生徒から出た場合の「とっさの言い逃れ」にベテランと新人の力量の差が出た。

さて、選挙たけなわの政治家にもふれてみたい。
昨今の政治家の顔つきが平板になってきている。永田町株式会社のサラリーマンをみているようだ。個性豊かで独特の力感に溢れるタイプが消滅してきた。

菅総理をみているとどうみても一国の総理ではない。これは、最近のG8等の顔ぶれを見ても同じように見えるから日本だけの現象ではないように感じる。世界的に政治も「マニュアル化」してきたのではないか。

いまや、政治家までもが誰にでもできる職業になったようだ。多分、詳細な「取説」や「インストールするソフト」が充実してきたのであろう。それと、バック(霞が関)のシステムが強力になってきたのであろう。システムが求めるソフトをインストースさえすれば、指示どおりに作業する。まさか子供にやらせる訳にはいかないが。

新人議員もベテラン議員も同じ「・年度版取説」を読み、「バージョンアップされたソフト」を脳にインストールされれば、大体同じような言説を口にし、同じような思考パターンになってしまう。ベテランの存在の影は薄くなってしまった。

ソフトカンパニーが米国か中国かはてまたロシアなのか、霞が関という代理店を通してインストールされて、「FQA」が渡されるなら、それこそ「私にもヤレマス!・・」となる。

かくして、今回の「参院選」にも「??」という人物が立候補しているが、それだけ「誰にでもやれる職業」となってしまった証であるといえる。

いまやどの政党も(一部特殊なのを除いて)内部は「呉越同舟」の体。「イオンとイトーヨーカドー」程の違いしかない。どの政党も「各種思想や嗜好」の商品を取りそろえて消費者のあらゆるニーズにお応えします状態となった。

従って、どの政治家も個性のない平板な印象を呈している。
有り体にいえば、スーパーのような政党が何を言おうがたいした違いはない。乱立する「新党は」コンビニのようなもので、売り場面積が小さいので展示する商品の数に限界があるというところであろう。これでは全てを賄う訳にはいかない「不足」感が漂う。

政党が個性を取り戻し、政治家が力感あふれる個性を発揮するようにならなければ、同じ無個性的な顔ぶれには飽き飽きしてしまう。

昨今頻繁に耳にする二大政党制とは何を「対立軸」にするつもりなのか。「国益を追求する党」と「政治家の個人益(ただし周辺の人間にはおこぼれいっぱい!)」ではあるまい。二大政党制を確立したいなら、政治家自身の自己改造がまず問われる。

誰でもなれる「マニュアル政治家」「パソコンのような政治家」ではなく、「さすが政治家!!」と国民が頼もしく感じ、希望を託せる政治家に立ち戻って欲しい。
.01 2010 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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