喫茶店で寛ぎたい!

戦後の昭和20年代から昭和40年代にかけて、住宅事情がまだまだ劣悪であった時代は喫茶店が庶民の憩いの場であり、若い男女の逢い引きの(おっと、デートの)場でした。クラシックの名曲喫茶から、ジャズ喫茶にシャンソン喫茶などが盛り場はもとより静かな住宅地にも点在していました。それぞれの趣味と目的に応じて喫茶店を使い分けていたわけですが、地方からの上京組の若者にとっては実に有難い場所でした。なにしろソファーつき応接間を安く手軽に使えるわけですから!

恋人との待ち合わせ、友人との討論の場、各種打ち合わせの場、読書の場などとして重宝この上ないものであり、ゲルピン(金欠病)の若者は、恋人に一杯の珈琲を奢るのにも四苦八苦したものです。冷めた珈琲をちびりちびりと飲みながら、あるいはガッと一息に飲んであとは水を舐めながら延々数時間ねばる者も多かった。相手をする女性たちも当時は忍耐強く優しかった。たとえ腹の中では「バッカみたい」と思ってもおくびにも出さず、どのテーブルの女性たちも可憐で一途であった・・ような気がします。

粘る以上は、その間の話題、しかも恋しい相手が飽きない興味を示す話題を提供し続けなければならなかった。それゆえに、恋人のいる若者はよく読書をし勉強をしたものです。なにしろ世はフランス被れの「教養主義」の時代でしたから。

どちらかと言えば、もてない方であった筆者は、クラシック喫茶では古典音楽の解説(コンサートに誘う金はない)を、モダンジャズ喫茶では一人前に首を振ったりしながら調子をとってみせたり、シャンソン喫茶ではシャンソンについて前の晩に仕入れた知識を、記憶違いをなんとか辻褄を合わせながら額に汗して披歴したものです。原稿を読み違える政治家みたいなものでした。

60年安保や70年安保の頃の喫茶店は哲学や思想そして政治論争が闘わされ、大きな声で口角泡を飛ばした光景が懐かしい。まあ、喫茶店なんかで大声をあげている輩は、前線からはるか後方にいる輩で「挫折感を漂わす風情」が何ともいえず愛嬌があって時代を表徴していた。福田恒存氏のいう「気分左翼」ってやつですね。

往時の名残りの喫茶店が神田神保町辺りには数軒残っている。三省堂に本を買いに行った帰りに何軒かハシゴをすることがあります。さすがに古めかしく黴臭いが、懐かしさはこの上ない。「本」と「静かな喫茶店」はセットでなければならない。しかも数時間(とはいっても2時間位だが)いても「追い立てる」ような仕草に及ばない店がよい。喫茶店で「逢い引き」なんてことに縁が無くなった最近は、静かに本を読ませて欲しいだけである。

ところが、最近の喫茶店はアメリカ資本の大型点が多く、なにやら中身が良く解らない怪しげなメニューから選ばせられるのが厄介だし苛立たしい。しかも、本を読む雰囲気ではない。椅子が堅い。隣席と接近し過ぎる。夏は冷房が効きすぎるし、チンドン屋みたいな若者に取り囲まれる。「早いとこ飲み終わってさっさと出て行ってくれ!」と言わんばかりである。「こんなところで寛いだり語らったりするなよ!」といった刺々しさを感じる。

想い出すのは18歳のころの京都である。北九州の親元を離れ下宿をしていた頃のある冬の日のこと。底冷えのする京都の安下宿は隙間風が吹き通る上に、満足にメシも食えない貧乏学生には耐えがたい寒さであった。人と会う予定とてないある日、読書をするにもガタガタ震えながらでは長続きはしないとばかりに、開店早々の河原町三条蛸薬師に在った「名曲喫茶田園」に5冊の本を抱えて飛び込んだ。一杯の珈琲と2枚のトーストで粘れるだけ粘ろうという算段である。なにしろ喫茶店は暖かかったし、京都は学生に優しかった。

読書と居眠りを繰り返すことかれこれ12時間以上、何杯の水を飲んだかわからないが、追い立てられることもなく・・これ見よがしの水のサービスではなく眠っているときは静かにコップに水を注ぐ・・半日をごく僅かの予算で過ごしたことになる。持ち込んだ5冊の本は1冊目の半分くらいしか読んでいなかった。さすがに申し訳なくて早々に店を出たところ外は朝とは一転、一面の雪景色でした。ウトウトしている間に30センチ近い雪が積もっていたということです。すきっ腹をかかえて夜道をトボトボと、滑ったり転んだりしながら下宿に戻って再び寒さに震えたことを思い出します。惨めでした。

ことほど左様に昔の喫茶店は鷹揚であり、静かな格好の憩いの場でした。クラシック音楽に浸る人、シャンソンを聴きながらサルトルやボーボワールをお菓子と間違えて語っている人(?)、逢う瀬を愉しむ人、ひとときの安らぎを求める人に優しい存在でした。

昨日、35年ぶりに愛妻(上野千鶴子氏一派に阿って)と「自由が丘」の散策を楽しんだ。昔ながらの喫茶店を探して「お茶」してみました。新旧が織りなす佇まいのこのような街はホッとします。郊外に開発されたアメリカンサイズの新興都市では「身の丈」をはるかに超えた大型店舗が立ち並び、建物に圧倒されて「寛ぎ」を感じるどころか、巨大な倉庫の中を這いずり回っているようで落ち着かない。

「恵比寿」とか「自由が丘」とか、ある程度伝統があり「身の丈」の街造りが基本に在り、新しいものと旧いものが適度に調和する街の魅力にハマっている今日この頃。必ず探すのは、「雰囲気のよい落ち着いた小ぶりの喫茶店」です。本を抱えて「居眠り」くらいさせて欲しいだけなのですが。
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.28 2010 未分類 comment0 trackback0

駐米大使にも民間人?

伊藤忠商事相談役の丹羽宇一郎氏が中国大使に就任するのに続き、戸田博史氏(元野村ホールディングス副社長)がギリシア大使に就任する。これだけでは民主党の政治主導としては不十分だと思っていたが、駐米大使にも民間人起用の可能性が出てきたことで興味ある展開になって来た。

先の「拙稿」で紹介した次のような外務官僚の驚愕の談話がある。
外国大使まで歴任した元外務官僚の二人が、「生まれ変わったらまた外交官になりたいですか」と問われて、「勿論また外交官になりたい」それも「日本の外交官を相手にする外交官になりたい」と答えたそうだ。自分たちの無能ぶりを十分自覚している官僚たちも存在していることは確かである。深刻な実話である。

キャリアの外務官僚としての矜持など微塵も感じられないあまりにも愚劣な話である。

漏れ伝わる外務官僚たちの浅ましい仕事ぶりは、話半分としても信じがたい狂態としか言えない。外務事務官として事務に携わる役人としてだけならば、多少は「何処の世界にもある悲しい人間の性」として許容出来なくもないが、賤しい駆け引きに明け暮れた出世競争を勝ち抜いた者が、各国大使や公使として国際場裏に出て行って「国益を賭けた熾烈な外交交渉」が出来るとは到底期待できない。

時折政治家やキャリア官僚などに「東大中退」という学歴がある。在学中に上級公務員試験や外交官試験を受かった者が大学でさらに学問をするよりもいち早く官僚になって出世競争を少しでも有利に運ぼうと計算した者たちである。

大学で「法学」をとおして深遠な学問に青春時代を過ごそうとはせず、目先の目標に向かって打算的に功利的に目標を達成したら「大学なんかに用はない」とばかりに中途退学したものが優秀な官僚として歓迎されるという事が理解できない。まともに大学を卒業しなかった中途半端な者たちである。

これでは、15歳で相撲界に弟子入りし、そこで見る物は「金と女と賭博」という新弟子たちの世界とあまり変わりがないのではないか。このような力士たちが覚えることと言えば「相撲技」と「遊び」以外にないではないか。「国技」をする者の矜持とか「誇り」など身につく道理がない。

秀才と褒められ、前途洋洋たる外務官僚と期待された前途有望なる若者が先輩官僚たちから「君も家畜の群れから離れ、高級な人間の世界の仲間入りが叶った」とばかりに歓迎される。まともな官僚としての厳しい研修もあるだろう。しかし、間もなくおぞましい出世競争の坩堝に引きずり込まれ失意のどん底にあえぐ者も続出するという。しかし、殆どの者は「同僚先輩の足の引っ張り合いのスキル」や「税金の上手な着服の仕方」などの「裏技」に嬉々として専心することになる。

「国益をいかに守るか」などと言う難しい事よりも、元来が「効率的な出世願望が強い」性向の者にとっては「国を思う」より「自分の将来を思う」方がより重要なこととなる。

このような者たちが「大使・公使」として海外に赴任しても、内地がつまり省内の動向の方が気になって仕方がない。同期の何某の方が経済的に有利なのではないか、何某の方が退官後に有利なポストを得ているのではないかと言う事が常に頭の中を支配している状態である。「外交?」「外交って何をするんだ?」とまでひどくはないと思うが、自分にとってより有利なポストの獲得が主たる仕事になってしまっている。

民間人なら適任であるとは言えない。「霞が関村」で水争いに明け暮れた者たちより「歴戦の強者たち」であることは確かである故に、人選を間違えた時の「国家の被害」は甚大なものとなる。

しかし、各国大使等の道が開かれたとなると、民間人的自由奔放さ(管理が行き届き官僚の統制がきつい現状ではそれもたかが知れてはいるが)から多少は抑制のきいた優秀な人材が多数輩出するという希望が持てる。

外交なんてものは、勉強秀才では所詮歯が立たない代物である。ましてや、身内間陰湿な駆け引きがつうじる代物でもない。喧嘩も強くなくてはならない。迫力も必要なら、賤しからざる染み出るような人品も大切な要素である。

日本の外交官育成の上でも大いなる刺激となればさらにすばらしい。15歳で相撲の世界に入った若者のような可哀想な育成のされ方では「秀才」の名が泣こうというものである。聞けば、外国語の力さえ疑わしいというではないか。

駐米大使が民間人から任命されることに期待する。これが外務官僚の世界に良い刺激となればよいが、陰湿な根回しが開始され決定が覆されないことを祈るし、岡田外務大臣のかたい決意に期待する。
.24 2010 未分類 comment0 trackback0

英会話エレジー 発音哀話

英語の発音のレッスンで,おかしな外国人にこれ以上貢ぐのはもうやめにしよう。

1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合軍に降伏した。8月28日には占領軍の先遣隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には日本占領軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木に到着した。ところがなんと9月15日(マッカーサー到着の2週間しか経っていないのに)に「小川菊松」という出版人が『日米会話手帳』サブタイトルに『Anglo-Japanese Conversation Manual』と書かれた32頁の小冊子を出版した。

日常の挨拶から始まって、道を聞かれた際の教え方、数の数え方など極めて簡単な会話79例を載せていた。敗戦後わずか1カ月でこのような本が売り出されたこと自体が驚きなのに、その年の年末までの3カ月半の間に360万部も売れるという大ベストセラーになった。当時の日本の人口は約7200万人。老人と子供を差し引くと成人大人の10~15人に一人は買い求めたことになり(以上鈴木敏明著作より引用)、男が中心だとすると5人に一人となる。

直近まで、「鬼畜米英」「一億玉砕」「本土決戦竹やり部隊」などと叫んでいた日本人と同じ日本人とは到底認定し難い所業と言える。マッカーサー来日からわずか12日目に出されたこの本を買いまくり、占領軍司令官マッカーサーに媚びることから敗戦後の日本は始まった。ただ、この「変わり身の早い日本人」のことは今回の論点ではないので措いておく。

さ~ここから日本の「英会話熱」が高まり「狂乱英会話の時代」が開幕した。さながら「徐福の不老長寿薬」の如く、「若返りサプリメント」や「健康サプリメント」のごとき「英会話上達サプリメント」が競って販売されるようになった。

「家庭用健康機器」と「英会話上達機器と教材」は深く広く全国の家庭に侵入することになった。しかし、健康機器は「物干し」と化し英会話教材と器機は「燃えないゴミ」と化してしまった。

時代の変化と共に、レコードからカセットテープへそしてCDからDVDへと教材は進化し、器機もカセットレコーダー・やウオークマンからパソコンへと進化した。進化しないのは「その中身」である。

販売員の誘惑的セールストークは無論、店頭で「教材器材のセット」を手にしただけですっかり若返り・・否・・流暢な英会話をする自分をイメージし、ハリウッドの俳優のような白人と親しげに交流する自分の幻影に酔いしれてしまう。ここで何回目かの「英会話への投資」という愚かな行為に走る。「愚行権」というものがあるのでこの行為自体を批判し揶揄するつもりはない。なにしろ筆者も人後に落ちない「英会話難民の一人」だから。

このようなことは日本人の宿痾のようなものだからまだよしとして、いささか疑問に感じるのは「駅前・・」とかを始めとする「英会話スクール」でのレッスンである。発音を中心にし過ぎる。こればかりはネイティブには永久に敵わないし、「no no チッチ」などと指を横に振られると日本人はすっかり委縮してしまう。

何処の馬の骨はわからない白人から「ダメ」だと言われれば抵抗のしようがない。その白人がどこの地方の出身でどのような訛りがあろうともである。

言語による占領政策は会話を中心にして「発音で絶対的優位」を確保することにある。英文法や英作文では被占領民の優秀な者がたちまち上達して、白人教師を上回る能力を発揮しかねない。従って、発音という被占領民が劣等意識から立ち上がれないことに重点を置く。そうすれば、米国の歌舞伎町やセンター街のいい加減な「アンチャン・ネーチャン」でも優位に立てるからである。

近年、小学校から英語教育を行うという。全国に外国人を教師として雇い入れるとの事。「米軍基地の想いやり予算」の英語版ではないのか。

将来英語をそれほど必要としない者、短期の海外旅行しかしない程度の者にすべからく小学校からの英語教育は必要ではない。多数の英語教育要員として雇った外国人に支払う経費はかなりの部分無駄であろう。外国の雇用に協力しているのなら止めるべきだし、形を変えた「思いやり予算」ではないのかと疑念がわく。

子供達には、英文法と英作文をしっかりと身につけさせ、発音は「日本人訛り」でよい。多くの者はこの程度でも十分すぎるほどである。将来、政治家・官僚・世界的企業などで働く意思があり「高度な会話能力」が要求される者たちは特別な「会話教育」をうければよいし、英語・仏蘭西語・ロシア語など諸外国の言語を特別に教育する機会を与えることは重要である。

効くか効かないか判然としない「不老長寿薬」や「美しくなるサプリメント」にも似たような、「ネイティブ並みの発音を身につけよう」なんて誑かしに、もう騙されるのは止そうではないか。
筆者も「英会話神社と神主」に幾ら貢いだかわからない。やっと冷静になったのは還暦を過ぎてからと言う体たらくである。あー、恥ずかしい!情けない!
.22 2010 未分類 comment0 trackback0

超絶技巧にご用心!

満員電車に乗ることが多いのだが、最近車内の臭気から日本人の朝の食生活の変化が感じられる。「ネギとミソ」の臭気が減少していることから、「ご飯とみそ汁とタクアン」を朝食に摂る人はほとんどいなくなったのではないか。

かって羽田空港に到着した白人や日本に滞在する外国人を悩ませた日本独特の臭気の消失はとりもなおさず朝食の洋風化が隅々まで浸透したことによるのであろう。胃が不調の乗客のゲップを隣でされてもさほど嫌な臭いはしなくなった。

その代わりでもなかろうが、前夜食したと思われる「焼き肉」に由来する「ニンニク臭」には閉口する。フケだらけの頭と汗でヨレヨレのスーツ姿で強烈な「ニンニク臭」を振り撒かれると、申し訳ないが乗った車両を換えることがある。

「ネギとミソの臭み」の代わりに増えたのが女性たちの「香水や消臭液」の混合臭である。朝の電車では我慢もできる(感度の閾値が上がり感じなくなる)が、帰路の満員電車となると、「汗と体臭と怪しげな香水」で眩暈を感じることがある。

最近の若い女性のみならず若くもない女性たちの「胸の谷間の露出嗜好」と相まって、さながら「込み合うキャバレー」の様相である。本来なら「眼福!眼福!」とばかりにやにさがるところであるが、いまや人生を地獄に誘う「危険物」と化したそのような「贈り物の罠」にはまる訳にはいかない。

超絶技巧を凝らした「男性への贈り物」を享受し堪能出来ないこの矛盾に、朝から怒りがこみ上げてくることを否定できない。何も感じないほどにはまだ枯れ切ってはいない。

朝から香水をふりかける必要があるのだろうか?朝から胸の谷間を露出必要があるのだろうか。朝からスリットの入ったチャイナドレス風の服を着る必要があるのだろうか?恐らく仕事に行く人が大部分であり、朝から男性をたぶらかすためにラッシュの電車に乗っているとは考えられない。

すると、真昼間から男性の気を引きながら仕事をしている振りをして、夕方からの時間に命をかけているのであろう。そのために、朝から香水をふりかけ汗をかきかき仕事をやり過ごし、いやます体臭を消す為に再再度と香水をふりかける。

肝心の夕方には異臭が漂う「観目麗しき魅惑的女性」とあいなり、本日の本当の仕事にとりかかるということになるのか!

男性の夏期の背広着用に関しても侃侃諤々の議論が何度もなされたが、毎度立ち消えになってしまう。クールビズとかいう訳の分からぬカタカナ語で、高湿度の日本にあった服装をしようではないかと言うのではなく「省エネ」の立場からノーネクタイが推奨された。

ある首相が半袖のスーツ風上着を着用して得意満面で登場していたが、彼の風貌と相まって「蝉取り坊や」か「探検好きの少年」にしか見えなくて大笑いしたことがある。ギンギンに効いた冷房の中でネクタイをぴっちり締めて「エコの経済効果」を論ずる矛盾も問題だが、ノーネクタイの中高年の風姿があまりにもみすぼらしい。

ノーネクタイで登場する国会議員が単なる街場のおやじにしか見えないという宿命的な問題がある。ビジネスマンもなんとかぴっちり着こなしたスーツのお蔭でかろうじて様になっているのに、ノーネクタイで現れるとたんなる農村のおやじか街のチンピラにしか見えないという悲しい現実がある。これでは、一流の会社ゴッコも根本からずっこけてしまいかねない。「何億のお取引」や「最先端の技術協力」などのセリフがまったく似合わず、いかがわしい会話と化してしまう。

欧米ゴッコも程ほどにしたいところだが、現代の士農工商の格差社会で、官僚やビジネスマンが武士を気取り、その証として背広を武士の衣装と思っているふしもあり、「脱げ」というのも簡単なことではなさそうだ。脱いだ途端に「三下奴」になってしまうことを自他ともに知っているだけに厄介である。

この暑くてジトジトの日本で、もっと快適な無理のない身体に楽な服装はないものであろうか?朝っぱらから、夜に生きる特殊な女性のような格好で出社しないように出来ないものであろうか?

なんでも個人の自由が蔓延る、なんでもありのこの国では何事も行くところまで行くしかないのだろう。至るところで、こんなことばっかりで、どこから誰が手をつければいいのか皆目見当がつかない。

とにかく、何かがおかしい。そして暑苦しい!
.20 2010 未分類 comment0 trackback0

無知蒙昧のエキス

 「官僚は大馬鹿者だ」と吐き捨てた菅総理が、官僚は優秀な専門家であり官僚の協力を得て国政を行っていきたいと大きく方針を転換したと批判されている。それは違うだろう。恐らく、政権を担当して現実路線を歩み始めたということであろうし、大人の見解を述べたのだろうと推察する。時間がかかる難事業だと解ったということであろう。

明治憲法体制下からの連続性の強い「霞が関官僚による政府」には時間の蓄積があり、その権力には惰力がついてしまっている。雪の球なら恐ろしく巨大な塊になっている。政権交代をして10カ月足らずの新政権がどう足掻こうとも敵う相手ではない。この課題は時間をかけて徐々に施行していくほかはないだろう。

佐藤優氏の言説によれば、「官僚は国民を無知蒙昧な有象無象」とみなしている。普通の国民を「お前たちは手足だ。我々が頭脳なのだから、手足は余計なことを考えずに、一生懸命に働いて税金を差し出せ」と考えている。そして、有象無象の国民から選ばれた国会議員は、「無知蒙昧のエキス」のようなもので、こんな連中の言うことをまともに聞く必要はないと思っている、ということらしい。

このような定義づけをして、表面では「全体の奉仕者」として狡猾に振る舞う官僚の意識を覆すのは容易なことではあるまい。何しろ、「無知蒙昧のエキス」が官僚から政治の実権を取り上げようというのだから、官僚たちは片腹痛くてしょうがないというのが本音であろう。

あるいは、心底「有象無象のエキス」である国会議員に政治主導などされては、「手足である国民が可哀想」だと本気で思いこんでいるかもしれない。「危なくてとても渡せたものではない」と。

明治以来今日に至るまで、否、敗戦から今日まで、「無知蒙昧で、官僚の手足」である我々は、我々の中から「馬鹿のエキス」を選出する「選挙」を繰り返してきていたことになる。しかも、官僚たちにせせら笑われながらである。

次に「どんなエキス」が登ってくるのか楽しみにされていただけのことだったのか!

我々国民の間でも似たような現象は多々あることは確かだ。
教育者は学童の親を馬鹿だと言い、医者は患者を馬鹿だと言い、商人は客を馬鹿だという。また、マスコミは読者や視聴者を馬鹿だと言い、小役人は市民を馬鹿だという。相手を見下し愚弄することで思考停止に陥り、なんとか自分たちの立ち位置を死守しているかのような現象は日常的であることも事実である。

しかし、官僚の場合はこのような悲壮感はない。なぜなら、彼らは心底そのように思い込んでいるし、それが真実だと確信しているからである。となると治療はかなり難儀なことになる。この病理を把握し、適切な処置を施せる医者は果たしているのだろうか。

財務省を頂点とする官僚のヒエラルキーの中で、下位と定義づけられている省の官僚を馬鹿にし合っているという。「馬鹿につける薬はない」と嘆く資格が果たしてあるのか無いのか。なにしろ、筆者らは「無知蒙昧な国民」なのだから。

鳩山前総理は「学べば学ぶほど米軍の抑止力が解った」と言う言説で、アメリカや日本の官僚及び財界やマスコミの強烈な圧力のことを表現したようだ。鳩山氏の稚拙な政治力は否定できないが、効果を焦りすぎる国民もまた我慢が足りない。

参議院とはいえ軽視することなかれ。今回の選挙で少しはまともな、否、優秀な「エキス」を選出して、民主主義国家らしく国民が選んだ国会議員が政治の主導権を確保してもらいたい。その国会議員たちが、本当に国と国民の為に奉仕したいという「まともな官僚(必ず居るはず)」を駆使して「まっとうな政治の容」を構築してほしいものである。

追記
外国大使まで歴任した元外務官僚の二人が、「生まれ変わったらまた外交官になりたいですか」と問われて、「勿論また外交官になりたい」それも「日本の外交官を相手にする外交官になりたい」と答えたそうだ。自分たちの無能ぶりを十分自覚している官僚たちも存在していることは確かである。深刻な実話である。
.18 2010 雑感 comment0 trackback0

どうすりゃいいのだ 女の幸せ

自分の娘に「理想的な男性と結婚して沢山の子供を生んで幸せな家庭を築きなさい」と言う。その同じ口で「男性に伍して仕事をし、自分の能力を発揮し社会に貢献しなさい」と言う。前者は「少子化対策」であり後者は「男女共同参画」である。言われた娘は一体どうなるのであろう。

結婚相談所にとって、「この世には、貴女にとって最も相応しい理想の男性がいますよ」という文句は結婚希望者から諦めがつくまでいくらでも金を引っ張りだせる騙しのテクニックであり、散々金を絞り取られた挙句、娘はいつの間にか婚期を逸して冷静な判断が出来る頃には相手がいない。

子沢山では、「自分の一生は繁殖のための犠牲なのか」と欲求不満に陥る。一人や二人でも子育ては大変に違いないが、ある時、仕事を持ってバリバリ活躍している同性に嫉妬し、自分の人生に懐疑的になり自信が無くなる。

男性に伍して仕事をするうちに、婚期を逸したり、結婚生活が破綻したりで「お一人様の老後」の本を密かに読みあさる。あるいは、さまざまな理由で挫折を味わい、頼りになる伴侶や心の会話が出来る相手の不在に人生の希望を失ってしまう。

一人の親として娘の将来を考えた時、果たしてどのようにアドヴァイスしたものか途方に暮れるような話だが、この二つを同時に進行させている日本の政府の頭の構造が知りたいし、そのような施策が日本の将来にどのような影響があるのかが見えてこない。

だいぶ前の話になるが、「カリスマ・シングル・マザー」として「生きかたの見本」として20代の読者たちから憧れの対象になった桐嶋洋子氏らに「ハシゴを外された女性たち」が話題になったことがある。

こんどは政府が女性たちを唆し、挙句の果てに「ハシゴを外す」ことにならなければ良いが、今のままだと「一体どうすればよいのか」迷ってしまう女性たちが大勢いると推測される。お得いの必殺技「自己責任」で片付けるつもりなのか。

平凡に生き、平凡な結婚をして幸せを感じて生きていく方が似合っている女性たちの心を波打たせ、中途半端な生き方を強いるとすればそれこそ看過できない国の施策と言えよう。

少子化対策には「移民法」、あるいは「外国人参政権」など、すでにドイツやフランスやデンマーク等の国々で二進も三進も行かなくなっている事例があるにも拘わらず軽々に進められようとしている事に、深刻な危険性を感じている。

日本より数倍現実的でシビアな諸外国が失敗に苦しみ打つ手がなくなり、しかも後戻りできなくなり立ち往生している。その諸外国より数倍「お人好し」で「外交に弱い日本」が「移民」や「外国人参政権」で国家が成り立たなくなる事態の到来は明らかではないか。

1000人の移民がその数に止まる訳がないし、「ヒト」は繁殖するものであり、移民たちは積極的に繁殖するであろう。そして、そのような事態に暖かい手を差し伸べさせられる「人権保護法」まで用意しているということである。

少子化対策は、もっと冷静になって取り組めば違った展望も見えてきそうな問題であるし、日本国の将来にとって禍根を残さないで戴きたい。

国連が言ったから、外国がやっているから日本もやらなければならないではなく、日本独自の取り組みをしてもらいたい。素晴らしい頭脳の集まりである「有識者会議」とか、有能な「政治家や官僚」が今こそその叡智を結集して取り組むときではないか。
.15 2010 未分類 comment0 trackback0

信じがたいはなし

間もなく永田町は選挙モードに突入、いや、すでに中盤なのかもしれない。公示時はすでに終盤ということになる。投票には必ず行くが、選挙のたびに悩みが多い。

ソ連・中共に対する防波堤である事が保守であり、日本国土を不沈空母とまで表現して米国に尻尾を振った宰相が大物政治家ぶっている自民党に与したくない。生活保守レベルとまでは云わないが体制保守にしか過ぎない。

かって「ダメなものはダメ!」と絶叫した女性党首がいたが、直近では、「ゼ~ッタイ承認しない!」と二匹目のドジョウを狙った小学校の学級委員のような党首がいる政党にも与したくない。政権党として日本の政治を担当する筈もない故に無責任極まりない幼児的政党に与することが出来るわけもない。

大局観もなく、各論を幾つか掲げて得意然としている新党各党に国家の舵取りを託すことは当然ながら出来ない。

「生活が一番」だから何をするのかがよく見えてこない現在の政権政党。寄り合い所帯が故に右か左かも定かでない。対米・対中・対ロ・対EUをどうするのかを明らかに出来ない政権政党が存在する不思議。多少勉強が出来るらしい若手が多数居るようだが、どの人の話を聞いても反射神経は素晴らしく良いが、思索的な内言語を語るというよりは、薄っぺらな外言語をチャラチャラ披歴するばかりのこの政党にも託しきれない。

人物本位で選ぶほかはないが、どの候補者も情けないほど小粒になってしまった。芝居じみた小手先の技術を駆使した演説をするばかりで、しかも女性票狙いの媚を売る姿勢に失望している。

衝撃的な話を聞いたことがある。二人の自民党若手代議士(2代目・3代目)と話をしていたところ、二人とも日本がアメリカと戦争をした事を知らなかったという。現職の代議士がこの体たらくである事実に筆者は意気消沈する気力も落胆するエネルギーもなかった事を思い出す。先の大戦を知らないとは・・!

「歴史認識」を云々する前に「歴史そのもの」を知らない。小中高と何も学ばず、大学では遊び呆けていても親の地盤を継いで国家の枢要な地位を獲得できるこの国の惨状を象徴する事実といえよう。このような代議士が実在しているということの恐るべき実態にたいしてどのような気構えで対処していいのかその術をしらない。

鈴木敏明氏による「逆境に生きた日本人」の中で次のように記されている。「日本人は猿に支配されたら、団結して抵抗するより国民こぞって木登りの練習を始める民族である」と。

国民主権の国家の選挙民は、かくの如き無知蒙昧なアホでも「俺が先生様」として何にも考えずにイソイソと投票するのであろう。

次の次の総理と持ちあげられ、本人もその気になっている自民党や民主党の若手で有望な国会議員の頭の中身に不安を抱かざるを得なくなってしまう。小泉チルドレンとか小沢ガールズだけが問題なのではなく、既に当選回数を重ねている中堅すら怪しくなってしまう。

選挙民の意識レベルが絶望的で、選挙の土壌が痩せている事の速やかな改善が望めないならば何か方法を考えなくてはならない。
国会附属議員学園の小学部・中等部・高等部を作り徹底的なスパルタ教育を施し、国民に向かっても、海外に向かっても恥ずかしくない話が出来る知識教養を身につけさせるしかないのではないか。

あるいは、立候補者に一律に資格を問う試験を実施するなどの事が必要ではないか。すべての国会議員がそのような悲惨なレベルではないことは当然であるが、そのようなアホが同僚であるという悲哀と屈折から救済することも必要である。

人をみて選びたいが、今度の選挙も誰に投票したら良いのか難しい。
.11 2010 雑感 comment0 trackback0

「思う」に思う Ⅱnd

「・・と思う」等の表現が持つ曖昧さや責任回避について先に述べたが、興味深い文章を桜井邦朋氏の著書にみたので引用する。以下引用。
「思う」という表現で、私が最も驚いたのは、我が国の国家としての存立の為の基本法ともいうべき「日本国憲法」の前文の中に出てくるものである。前文の終わり近くに、英文の表現で次のような文が出てくる。
“We desire to occupy an honored place in an international society・・・”
これが、日本国憲法の前文の日本語による表現では次のようになっている。
「・・・名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは・・・」
英文の”desire to occupy”の部分が、「占めたいと思ふ」と翻訳されている」のである。我が国の憲法の草案は元々、当時の連合国最高司令官総司令部(GHQ)で作成され、それを骨子に現行憲法が成文化されたのだから、先のような日本文に翻訳したのは、この成文化に当時尽くした個人か、その任に当たった数人であると推測される。件の個所は、英文の表現では、占めたいと“望む”、あるいは“希望する(desire)”となっており、“思ふ”という単語は何処にもない。ここに用いられている“思ふ”は、願望を表現していると解してよいので、“望む”あるいは“希求する”といった表現を和らげるために“占めたいと思ふ”という表現にしたのではないか、というのが私の見方である。・・以上、引用終わり。

筆者の手もとにある「研究社のカレッジ英英辞典」によれば、”desire”は、動詞では
wish earnestly であり、express a wish である。また、名詞では an earnest or powerful
wish である。”think” という語はみつからない。
つまり、「思ふ」というどことなく自信無げな曖昧な表現にはならないはずである。おそらく翻訳に当たった当事者たちが当時敗戦国の国民として精神的に打ちのめされ自信喪失の状態にあったと惻隠される。

因みに「日本国憲法 前文」をみてみよう。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
以上の中で、この「思ふ」以外は断固たる結語で表現されているのに、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい・・」のくだりだけは“思ふ”とトーンダウンしている。

日本国民が自信と誇りを持ち得る「日本国憲法」を待ち望んでいる筆者としては、自主憲法論議は何処に行ったのか、どこを探せばよいのかを知りたい。

菅新内閣のもと、壮大な政治ショーが繰り広げられているが、所詮各論を論じ合っているにすぎない。日本人が自分の国を統治する気概を喪失してしまったのだろうか。今の日本には、外交主権がなく、軍事にも政治にも主体性はなく、金融主権さえも無くしている。さらに、教育レベルの低下は覆うべくもなく、人のモラルも軽視され、労働意欲さえ低下している。

大事なことから逃げた政治をする限り「誰がやっても同じ状況」が続き、「カネとオンナ」の問題で列島が大騒ぎという「思考停止」と「閉そく感」から脱却できない。

親小沢VS反小沢などいう構図は全くナンセンス以外の何物でもない。小沢氏を乗り越えたところで日本の政治を行ってもらいたい。マスコミも早くこのような幼稚な事態を終息させて、政治に対する高度な批判をするようになってもらいたい。
.10 2010 未分類 comment0 trackback0

いつまでもつか

菅総理と決まり、一両日中に新内閣と党の新役員が選ばれ、「菅内閣」が発足する。
この難しい政治状況下で総理に手を挙げて就任するひとは、「余程、俺ならこうする」という確たるヴィジョンがあるか、国会議員になったのだから何が何でも「総理になりたい」という人のどちらかであろう。

馬鹿だの低能だの漢字が読めない無学な奴、挙句の果ては「ほんにお前は屁のようだ」とまで虚仮にされ侮辱的言辞を浴びせられても「ヘラヘラと笑っていられる」不思議な精神の持ち主しか総理は務まらないのが昨今の日本の総理なのだから。

どうであっても総理大臣にさえなれれば、総理の特権は享受できるし、短い期間であっても外国の会議に出席すれば国家元首の待遇を受け専用機の主になれる。辞めた後も死ぬまで総理と呼ばれるし、歴史に名も残せる。

誰がやっても上手くいかない総理の仕事だから「俺でもやれる」と全ての国会議員が錯覚しても仕方がないような国になってしまっているということであろう。

民主党政権発足時に、「小沢・鳩山・菅のトロイカ体制」か、と思われたが、菅氏が次第に中枢から遠ざけられた事実がある。菅氏としては今回のチャンスを逃せば終わりだと思ったか、人心定まらぬうちにいち早く手を挙げ、スタートのアドヴァンテージを確保しての総理就任。

民主党に国家感がなく、日本国をどうしようとするのかの方針が見えてこないのだから、菅氏にそれがあるとは考え難い。とにかく政権交代を声高に叫び、選挙と欲の配分に長けたその道の専門家で小沢氏の手腕が功を奏して「政権交代」が成し遂げられた。

「国民の生活が一番」というポピュリズムの典型のようなマニュフェストで大衆人気をとことん煽り、そして国民は失望。沖縄に「もしや」という予想外の希望を抱かせ、そして県民は失望。素人政治家集団の実態をすっかり晒してしまった。

「剛腕小沢」というのも、「政治は数だ」という田中角栄氏の教えを忠実に実行しているだけの「選挙の専門家」に過ぎないのではないか。肝心な時に不運な事態に見舞われる「悲劇の政治家・・可愛そう!」といった人情物語に与したくはない。今の、今までの小沢氏の政治家としての在り方に日本の将来を預ける気には到底なれない。所詮「傘の下」の政治家であり、金権・利権の権化であり、「数と金」を握れば「この国は俺のもの」という程度の政治家としか見えてこない。「力がありそう」と思わせ続けるためには、今までどおり裏に隠れ、「男は黙って どれでもいいビール」を呑んでいることだ。

敗戦後の日本は、日本統治の「会員制倶楽部」で運営されていると想像(!)している。その倶楽部のなかに更に「倶楽部in倶楽部」があるのではないか。「倶楽部の主催者」については筆者には推測の域を出ず定かではない。

敗戦後、この「倶楽部」の会員になれた者が国家枢要な地位に就きこの国を治めて来た。
高位の官僚、大手マスコミの役員が正会員として認められ、その会則に忠誠を誓った政治家がそのランクに応じて正会員・準会員として入会が許される。

さらに奥の院「倶楽部in倶楽部」への招待を受けた(そこの会員にはなれない。なぜならば政治家は消耗品だから。)者が首班指名を獲得したのならその政権の寿命は長い。「倶楽部の正会員」にもなれない者が何かの弾みで総理になっても短命な政権となる。それは何故か。統治の「会員制倶楽部」の会則も読まされていないし、慌てて読まされても理解が出来ていないからである。

民主党政権では誰もが「倶楽部」のお呼びがかかっていないし、準会員にすらなっていない。従って、なにを国民に約束しても、どんな風が吹いて政権獲得に至っても、政治の実行段階で「空振り・OB・ダフリ・トップにスリーパット」が出るようにコースの設定が行われてしまう。

街角のインタビューを受けた「平凡なオバサン、あるいは無名な役者の桜」が「誰がなっても同じじゃないの~?」とか「政権が代わっても結局同じじゃないの~?」などと一刀両断するような賢しらな応え方をする中に、現在の日本の政治の本質と病根がある。

国体を踏まえた自主憲法や自力防衛力など独立国家として困難な作業を放棄して、アンタッチャブルな聖域として封印してしまい、それには触れない国政を行うことで日本国の政治家としての無限責任を果たしているかのような茶番を演じているのなら、それこそ「誰にもなれる国会議員」「誰がなっても同じ総理大臣」と言われても仕方があるまい。

政治家の三代目でも、市民運動家上がりの地位に野心満々の者でも、国民が「樽なんとかWHO?」でも、なんでもありである。なにしろ、正会員中の正会員の高位官僚たちが全てを代行してくれるのだから、安心して「政局」なる「利権争い」に没頭できるではないか!

それほどに、現在の国会議員たちは国民を蔑ろにし、自分たちの利己的野心だけで日本国の政治を行っているのであろう。国民を馬鹿だと決めつけている彼らの本音が年々高らかに聞こえてくるではないか!
.06 2010 未分類 comment0 trackback0

クリーンな鳩山さん


 クリーンな政治家というのが本当に存在しているのだろうか。
法の網をなんとか潜り抜けた金。世代的ロンダリングを行った金。前者は小沢氏ならずとも涼しい顔で永田町や霞が関周辺に生息し、後者は鳩山氏の他にも直近の元総理の顔が何人も浮かんでくる。

巷では「クリーン症候群」ともいえる「潔癖症」が異常に蔓延し、関連グッズと薬品が広く出回っている。それに比例して人間の抵抗力は著しく低下してきている事は否定できない。自分以外の他の人間は不潔きわまる生き物だと思い込み、通常の人間関係を作り上げることもできなくなっている若者の増加が懸念されている。これが男女関係に及べば、実際に生々しい関係には至らざるを得ない恋愛はおろか結婚なんて不潔な関係は論外という若者が存在することになる。「クリーン」も悪くはないが、日常生活でもホドホドにしておかないと、除菌スプレーやナプキンを大量に詰め込んだバッグを抱えてしか外出できなくなる。論点がズレてきたので軌道修正しなくてはならない。

クリーンではない要素が多分にあるマスコミがクリーンを喚き散らし、「あいつよりは俺の方がクリーン」と嘯く輩が跋扈し、クリーンではない「評論家諸氏」がぬけぬけと政治家のクリーン度に点をつけるという諧謔がまかり通る。

日本という辺境の国家を俯瞰してみると奇妙な国家であると言わざるを得ない。「親米で改憲の右翼」と「反米で護憲の左翼」というネジレもその一つである。敗戦後の60数年の間そのネジレ状態のままで保守だの革新だと主張している論理矛盾。この矛盾を互いに認めあい許しあえるのはひとえに辺境の国家であるが故であろう。国際的には良く言えば「気の毒な国家」であり、悪く言えば「勝手にやっていろ。しかし大人の国家としてまともに相手は出来ないよ」と言われても仕方がない。

経済大国と持て囃され世界を肩で風切りながら闊歩した人氏も多々あろう。経済援助で下にも置かない待遇を受けた人士も多々あろう。「金の儲け方」の教えを請われて一席ぶった勘違い人士も多々あろう。

この経済成長を遂げた日本が人間の養成を怠ってきた弊害がこれから先長く後遺症として国の身体を蝕んでいくであろう。議論の仕方も喧嘩の仕方も知らない「弱々しい小太りの小金持ち」の如く、諸外国に恫喝されたり唆されたりするたびに金をせびり取られる。金が必要な時にだけ呼び出され、それ以外は孤独な存在。外国語で丁々発止の渡り合いが出来ずに、意味も無く取り敢えず金を差し出すという行為の中で内向きな自己満足に浸っているうちに、経済的にも相対的に沈み始めている。

今回の永田町の、辺境の政治ゴッコにはもう辟易という言葉をつかうことにも辟易している。鳩山氏の「私にも政治資金規正法を犯した秘書を抱えていたという事実がある・・」のくだりには「いまだにこの程度の認識なのか」と、強烈な違和感を覚えた。普天間の問題は、自分は何を考えどうしようとしたが、いかなる要素が実現を阻んだのかをもっと具体的に述べるべきであったし、官僚の強力な厚い壁を壊そうとしたが何が原因で上手くいかなかったのかを国民に吐露出来る範囲はもう少し広かったのではないかと感じた。その他の論点にはあえて触れないが、「この人は本当に何も分かってはいなかった」ということを再認識したのは確かである。

アジアの平和と安定のための「抑止力」に関して鳩山氏が学べば学ぶほど理解したというのは、何かの存在を表だって表現できないが故のことだと許容しよう。しかし、基地提供のみならず「思いやり予算」というミカジメ料を払ってまで、米国に日本を占領されてしまっている実態、陸海空と海兵隊に上陸されて占領されてしまっているという実態に「僕一人でちょっとだけ挑んでみた」というだけのことだったのか。「抑止力」とは、日本が軍事的に台頭する事を「抑止」するというこでもある。

米・中の関係次第では、米軍の矛先がいつ日本に向くか分かったものではないし、中国軍の日本侵略の際に「道を開ける」ことだってあり得ない話ではない。どの国も自国の「国益」が第一選択肢なのだから。

内向きの小狡い秀才ばかりでは困るし、隣村との「水争い」のレベルの「政局」とやらに現を抜かす「小役人のような国会議員」でも困る。このような人たちが握っている法的権力が恐ろしい。

真のエリート教育を放擲してきた日本も本気でその転轍機を切り替えないと、これからさらに国力は低下し、世界からは取り残され(相手にされず)、悲惨な将来を子孫に引き継ぐ最悪の愚を犯すことになってしまう。

不貞腐れた言い草になるが、どうせならもう少しの間「無能な政治家による不毛な政治」を続けてもらって、政治家や高級官僚たちが自ら「俺たち政治家の無能さに呆れた」とか「俺たちが国の高級官僚であってはならない」とかを言い出すまで待つしかないのか。とことん地獄を見るまでは懲りない面々だから。我々愚民もまた、「もう愛想が尽きるほど愚かナリ」と慨嘆するまで待つしかないのか。無理にして無駄なことは自明の理である事は分かってはいるが・・。

これからまた、観あきた三文芝居が新装開店した舞台で演じられる。この芝居に群がる全てが全く同じパターンの言動を繰り返し、再び、虚しく日が暮れるのを眺めることになるのか。
.05 2010 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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