「思う」に思う

「言葉が軽い」と言われる鳩山総理・・前の麻生総理を含め歴代総理も同じ・・について少々観察してみると、いくつか気がつく事がある。

ぶら下がり会見で、「総理・・についてどうお思いですか?」「小沢幹事長の留任についてどうお思いですか?」という若い記者の質問に対して、「・・・と思います」とか「幹事長として頑張って戴きたいと思います」などという応え方をしている。

この「・・思います」という言葉がなかなか厄介な性質をもっている。通常論理的討論の場であれば「何故?そう思うのかその理由をお聞きしたい」とさらに畳みこまれるのが普通である。ところが、以心伝心の我が国では、そのように問いただすことを行わない。

桜井邦朋氏によれば、普通の和英辞典で「思う」の項を引いてその用例をみると、①「考えるという表現(「think」)とつながる ②懸念に関わる表現 ③みなす ④信じる ⑤予期(思った通り)⑥回想(往時を思えば)⑦感じる ⑧希望(wishとwant) ⑨誤認(・・と思っていた) ⑩つもり(・・しようと思っている) ⑪怪しむ(wonder suspect) ⑫想像(suppose imagine) ⑬念願 など、これだけ異なった使い方が「思う」にはある。

筆者もそうだが、断定し難い場合・断定しない方がよい場合・相手が目上の人の場合に謙譲のつもりで・自信がない場合・少し逃げを打ちたい場合等のときに「・・と思います」とか「・・と思う」と表現する事がある。

相手がそのように応えた場合には「勝手にそう思っていろ!」とか「そう思う根拠を聞いているのになんだ、その答え方は!」と心の中で嘯いていることが多い。

さて、総理のぶら下がり会見で「・・お思いですか」「・・と思っています」のやり取りでは、質問も曖昧なら答も曖昧。このまま新人記者が社に持ち帰っても記事にならないことは当然である。そこで「何故そのように総理が思っているのか」についての根拠が詮索されることになる。

この段階になると、その新聞社の報道の方針通りに、いか様にも書きたい放題になる。好きなように恣意を駆使できる。それはそうであろう。総理は「そう思う根拠」を何も話をしていないのだから。その記事に対して「真意が伝わっていない」と言い訳をしても始まらない。肝心な「根拠」を相手方に投げ出しているのだから。

TV報道番組ではコメンテーターに向かって司会者が「・・さん、総理の昨日のぶら下がり会見での発言についてどう思いますか?」に答えて曰く、「・・だと思います」であるとか、少し気のきいたコメンテーターなら「・・という理由からあのような発言であったと思います」となっている。

科学者の国際学会では、日本人の科学者の発表の中に I think ・・. という言葉が頻出し、質問に答える際にも I think・・.が多用され、とくに英語圏の学者から不思議がられているときく。「それほど大袈裟なことでもないのに」とか「あなたが思うという根拠を知りたいのに」と。

鳩山氏が総理に就任したとき、筆者が期待したことの一つに、東大の工学部出身でなおかつ米国の大学で数学の研究をして学位を取得した人物であるから、従来の総理と違って「言葉遣い」がまるで違って、「誤解を生まない明確な日本語を駆使して国民に分かりやすく政治を語ってくれるのではないか」というものであったが、全く失望した。

一方、霞が関では「霞が関文学」なる文字通り「霞がかかった」曖昧表現を駆使して省益の確保に勤しんでいるという。どこもここも曖昧だらけのようだ。

「質問になっていない質問」と「答になっていない答」を千年一日のごとくくり返し、それに対して「曖昧な論評」を飽きずに下している。これでは何も変わらない。

日本の各種学会では、「だから、あなたがそう思うという根拠を知りたいのですよ」という発言をすると、長老から嫌われ憎まれ恨まれるという最悪の事態になってしまう。多少疑問があってもお互い厳しいことは言わずに「そこそこのところでよし」とする風潮がある。そんなに厳密にやると学会(ごっこ?)が成り立たなくなるので波風を立てないようにという暗黙のルールのもとでおこなわれている。どこもここも「いい加減」のようだ。

政治家の発言が曖昧なら、マスコミの発言も曖昧。霞が関は曖昧な表現こそ真骨頂にしている。このような状況下で全てが執り行われているということであれば、「ブレて当然」「よくわからなくて当然」となる。これでよくやれているものだと不思議である。
諸外国から見たら、「良く解らない国家と国民」であり、これから「日本はどうしようとするのか、どうしたいのか」の判断をしにくい奇妙な相手ということになる。

英仏独露そのほかどの国の言葉も完璧に論理的に完成した言語は存在しない。論理的であることを求められる発言には注意深くそのように発言をしている。日本語も「井戸端会議」や「小田原評定」にしたくなければ、十分に論理的に「話し、記述」出来る言語なのだから、総理をはじめ、しかるべき立場にありしかるべき発言を求められている人たちは注意深くあって欲しい。言葉の乱れの見本にならないように!国語がこれ以上劣化しないように!
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.28 2010 未分類 comment0 trackback0

総理大臣の指導力とは?

日本の宰相に指導力が求められている。八方美人で指導力がない。決断力がない。かといって、強い指導的発言を行うと「強権である」とか「ファッショ的体質である」と言われる。今の日本で求められている「指導力」とは一体どのようなものなのか。

一企業の社長が、「このままわが社の利益を追求していくことはある意味では簡単な問題である」として利益の追求に邁進するする姿を「頼りになる社長」「指導力のある社長」と全社員が賞賛することになるのだろうか。

・この製品はよく売れるが、自然破壊の観点からは疑問である
・この製品を売りに出せば、我が国の子供の教育上悪影響がある
・この製品の商品化は、我が国の家庭崩壊や道徳心の低下が予想される
・この製品の商品化は社会悪の元凶になりかねない
などの思考回路をもつ社長にたいして多くの社員は戸惑いを覚えるであろう。
このような経営者は、利益追求の観点からは「指導力のない不適格者」であるとしてその座から追われるのは明白であろう。

しかし一方では、企業活動は社会的な「善」を追求し、あわせて「まっとうな利益」をあげていくことこそ企業の社会的使命だと考える社員も多勢存在している。そのような企業の社員であることに誇りを感じる勢力も看過できない。

一企業の経営者に問われる「指導力」もその判断には多角的な視点が求められる。いまや、経営者のあるべき姿は複雑にして高度な力量が問われている。

「ファッショナブル」「最先端」「超絶」などの言葉に従属し、身体中にコードを巻きつけ、両耳を塞いだだけではおさまらず、片手にi-phone 膝に携帯パソコンを置いてなにやら作業に勤しみ、顔には「男性用化粧品」を塗りたくり頭髪といえば電気ショックを受けたように天井に向かって突き上がり、大きなバッグには各種情報誌と称する「商品のカタログ雑誌」を詰め込んでいる。このような若者を生みだしたのも、「便利」「格好いい」「絶対欠かせぬ一品」などのプロパガンダが四六時中垂れ流される企業活動の一端の成果なのだろう。商業マスコミと商業媒体の勝利なのであろう!

幼児の為の化粧品が喧伝されたことがあった。消費者の開拓とはこのようなことなのかと慨嘆したことを思い出す。自分の子供には買わせたくないが他人の子供には化粧をさせて利益を上げたいという「さもしさ」がありありとした情けない商品であった。このような商品の販売にゴーサインを出す経営者が、指導力があり安心して経営を任せられる水準にあると言ってよいのか。
いまこの国を任せられる政治家の指導力とはどのようなものなのか。マスコミがこぞって合唱する「指導力の欠如」とは何が欠けているのかを知りたい。そして、「強権とは何か」「剛腕とは何か」、さらにマスコミの言う「ファッショ」とは何かをあらためて問いたい。

「言葉が軽い」とはマスコミも同様であろう。一事象に対してさながらパソコンの漢字変換よろしくありったけの表現をぶつけて、「これでよいのでしょうか??!!」で終わられては読者・視聴者は急に梯子を外され取り残された思いがするであろう。

企業と一体になって消費者を「神様・仏様」と崇め奉り、「TVを観ろ、モノを買え!」と唆し続けたマスコミのいう「政治家の指導力」とは一体どのようなものなのかが知りたい。
モグラ叩きのモグラの頭のように乱立した各種の利益団体、自己主張ばかりが肥大化した個人の育成に励んだ結果の利害の衝突の混乱の先頭に立って旗を振るマスコミのいう理想的指導者像を示してもらいたい。

管理が行き届き規格化された人間ばかりになった現在の日本では、人間の取り換えは簡単なことになってしまった。官僚であれ、企業の社員であれ、末端の組織に至るまで不要な人間はすぐに排除され余人に取り換えられてしまう。個々の人間が消耗品化されて久しい。この傾向がトップ指導者にまで及んできたのであろうか。

たいした差異はない。大きな差異は異物として摘出排除。残った指導者のいずれにもごく僅かな差異しかない。さすれば、僅かな瑕疵をつつき不適格の烙印を押して「みんなで排除」の繰り返しでは、指導的立場に推挙されても「指導者としてどのようにすればいいのかが分からない」という事態になっているのではないか。

この次に来るのは、「アメリカが推挙する指導者」「中国が推挙する指導者」「ロシアがあるいはEUが推挙する指導者」ということになるのかもしれない。残念なことに、これが日本のお家芸とも言えるあり方なのかもしれない。

ますます、本人の力量は問われない。宗主国(?)のお墨付きを後生大事にし、国民は裏切っても宗主国(?)の命令どおりに従う政治家。このような恐るべき事態が到来したときも日本のマスコミは「指導力が欠如した売国奴」とワイドショーで大騒ぎをし、街頭でアンケート調査をし、電話による怪しげな支持率調査をするのだろうか。評論家たちもまた、何処かの国のアメをしゃぶりながら、賢しらなコメントを垂れ流すのだろうか。

一愚民として、このような疑問と不安から解放されないのはなんともやりきれない。
それにしても鳩山氏をみていると「やはり、総理ではないな!」としか思えない。
.26 2010 未分類 comment0 trackback0

パンとサーカス

パンとサーカス 
米国からの指示を受けた霞が関官僚が日本の政治の方針を決定し、政権与党に総理大臣を始め各閣僚の人事を依頼する。政権与党は内閣総理大臣には毒にも薬にもならない人物を選定し、各大臣には当選回数と派閥の事情でその選定を行う。

与党の実力者という怪しげな人物が暗躍し(かけずり回り)、利権という甘い汁を啜り合う疾しさを国民の目から隠蔽しながら、いかにも国家百年の体系に立っての決定であるかのごとくに粉飾したシナリオを書き上げる。かくして、外交には不向きな外務大臣や経済・金融なんかまるで不案内の財務大臣が出来上がる。

官僚たちは、大いなる事務の停滞を嘆きながらも、無知蒙昧にして護岸不遜な大臣の「箸の上げ下ろしから言葉の使い方」を隠微な冷笑を隠しながら面倒をみる。その間隙をぬって各省庁が省益と属人的利得を推進し、米国から忠実な属国の部下としての高い評価を付与され「出来る奴」との内外の地位を盤石のものとする。

その中でも、あの!今太閤のような人物が自力で権力の座をもぎ取った場合は、他国の力を仰いで徹底的に打ち砕いてしまう。さらに、今後このような人物の輩出の芽を根こそぎ刈り取りその土壌を塩で固める。その暴挙が齎す恐ろしさを政治家の身に染みこませる。

かくして残った権力亡者たちは、ますます日本の独自性を述べるような政治家を自分たちの中から排除し、それこそ総理大臣には「パーで軽い人物」を押したてるようになる。さらに、各大臣には、なまじ勉強した専門知識が豊富な人物は各省庁から「生意気な奴・扱いにくい奴・賢しらな奴」として忌み嫌われる人物以外の者が選ばれることになる。

各省の専門性に通じた人物はもともと各省の方針に逆らわず自分たちと仰ぐ太陽を同じくする者が歓迎され、「出来る大臣」とのレッテルを貼り賞賛する。大臣は選挙区で評価が高まり次期選挙で国会議員の席が確保されれば万々歳、ということになる。

そのような、政権与党と官僚の「合作映画」を裏の裏まで熟知するマスコミ界にとって、総理大臣叩き、閣僚叩きになんの遠慮は要らない。

壮烈な「叩きのドラマ」が始まる。あの「ローマ帝国」が執った「パンとサーカス」が壮大な規模で演じられるのである。視聴率と販売部数が最大の課題であるマスコミ界はあらゆる「劇場」に見せしめの人物を引きずり出し徹底的に貶める企画を練り上げる。

当然、その実施に当たっては所管の権力機構にお伺いを立て、自分たちの安全を確保していることは明らかである。裏取引も抜かりなく出来あがっているであろう。

「マスコミ対権力者」としての構図を鮮明にし、国の或いは日本社会の木鐸である衣装を身にまとい化粧を施した彼らを、多くの国民は「見える姿のとおり」受け止める。

日本の国家の方針とか世界における日本の立ち位置などはどうでもよい。ただただ「権力者叩き」という一見面白そうなショーに酔いしれ憂さ晴らしを行う。これからの国家に必要な貴重な人物であるにも拘らず、その人物が「金と女」のレベルで完膚なきまでにこきおろされ嘲笑われるショーにカタルシスを感じてしまう。

出演するキャスター・政治評論家・経済評論家・コメンテーターからはてはタレント・お笑い芸人に至るまで全員がシナリオを渡され、企画の方針に従って「口角泡を飛ばす芝居がかった」討論にもならない「我先お喋り」に視聴者が洗脳されてしまうというお寒い現状が我が国の日常性となってしまっている。

このような現状が「日本が発信する日本の今」になっていることの恐ろしさに鳥肌が立つ思いである。「世界の皆さん!日本の政治家はこんな破廉恥漢で無能なのですよ」「日本という国はこんないい加減な国なのですよ」と。

古代は「支那」から、近世は「西洋」から、そして敗戦後は「米国」から、学ぶ一方(しかも偏った情報や解釈)できた我が国は、日本のことは否定し、先進諸外国のことは「痘痕もえくぼ」式に盲信し、卑屈であったり謝罪を専らとしてきたことは周知である。

マスコミは或いは各界諸賢人は、諸外国から受信の一方、日本の素晴らしさを同じくらいに発信しなければならないと思うが、古代から今日に足るまで「盲目的に臣従する」か「ちょっと脅されるとすぐ謝罪」という日本のパターンから抜け出せていない。

日本のマスコミを見ていると、日本の権力者を身内レベルで打擲し続けることで「世界に何を発信」しようとしているのか。国力を減弱させ、世界からの信用を落としても各社の収入の方が優先なのであろうか。

新党が複数立ち上がり、次の参院選が天下分け目とは思えないが、もし少数ながらも「日本国家・国民」を真剣に考え使命感に燃える政治家がいるのなら、今までとは違った視点からの報道に取り組まなければならいと思うし、刻下の諸般の事情からTVなどの定番の出演者を総入れ替えする絶好のチャンスだと思うがいかがだろうか。
.24 2010 雑感 comment0 trackback0

啼くな小鳩よ・・

「啼くな~小鳩よ~心の妻よ~、 さらば~小鳩よ~心の妻よ~」。岡晴夫が歌った懐かしい歌謡曲である。もっとも今の場合は、「啼く」のは鳩山氏であり、小沢氏は泣いているのかもしれない。何しろ、極めて日本的な鳩山氏はマイクに向かうとついリップサービスをしてしまうタイプと見受ける。小沢氏はどちらかと言うと言葉数は少ない。

鳩山氏が自ら各種の考えを思いつくままに漏らすと見せかけて、「マスコミや対立野党」を攪乱し、国民に疑心暗鬼の気分が醸成されるのを覚悟の上で狙っていたのは、60年間の日米外交でアメリカ側に根付いている「対日政策のパターン化」に「揺さぶり」をかけ、「日米関係のパラダイムシフト」が主眼ではないかと思っていた。これが、「鳩山政権」と「民主党」の戦術ではないかと内心期待してきた。

小沢氏と鳩山氏の両者をみていると、狩猟民族タイプの小沢氏と農耕民族タイプの鳩山氏の組み合わせという解釈が出来そうである。ある意味では絶妙なコンビと言えよう。
「神輿は軽くてパーがいい」とは小沢氏がかつて言った言葉として知られているが、これは小沢氏の創作ではなく、古今東西共通の原則とは言わないが共通認識であろう。

「小沢支配」の「鳩山内閣」と批判され揶揄され続けているが、これは批判する方がおかしい。代表者に「後ろ盾」は必要だし、このような組織建てをすることは当然である。最前線の内閣に司令を与える「参謀本部」は後ろに控えているのが常識だし、これがマスコミの言うように一本化されていたら、まさに小中学生の陣立てになってしまう。

従軍記者、現下では相手国の従軍記者もいる中で最前線の総司令官が、ポロポロと漏らす次なる一手の発言は攪乱工作としかとらえられないのであるが、迷いが正直に口をついて出ているとしたら何をかいわんやとなる。

しかし、前線のトップの発言に軍略的な深慮を感じることはできず、各将軍たちは軍の常識に反して勝手なことを喋りかつ行動する。内閣は軍ではないし、戦後生まれの者や戦後教育を受けて育った者が殆どの内閣の陣容をみると、軍としての規矩を求めても無理な相談であろう。「俺が、俺が」のネオテニー(幼形成熟)の集まりなのであろう。永田町育ちでは大人になるのは無理なのかもしれない。

世界で稀に見る「軍」をもたない「独立国家?」の宿命であるとでもいうのか。今となっては殆どが「戦い」の経験のない「平和ボケ国家の国民」が選んだ「欲ボケ国会議員」が永田町の「日本商事ビル」の中で出来ることと言えば、「ビジネス戦略」と「次期選挙での当選戦術」の立案くらいなものなのか。

「支那」に憧れ「大化の改新」。「西洋列強」に驚愕して「明治維新」。そして完膚なきまでに叩きのめされた「敗戦」による「アメリカ化」に至る約1300年の歴史をたどった我が国のとどのつまりがこの体たらく。

いつの時代も、日本人としては「学ぶべきものがある」強大な力をもつ国が日本にとっては外国であり、お手本であった。「唐」であり「西洋列強」であり「アメリカ」であった。常にこれらの国との関係は完全2項的な、しかも相手が常に上でこちらが下という上下関係にあった。

現在の日本の国際的立場を考えてみると、アメリカ一国との上下関係というか属国関係だけでは立ちいかなくなっている。単純な日米関係という2項的な関係から、「あちらを立てればこちらが立たず」の、互いの利益が対立する大小様々な国との多角多項関係になっている。米国をはじめ西洋先進諸国との関係も上下関係ではなく水平の関係の段階に入っている。

このような現在の状況で、日米関係の見直しを「基地の問題」から取り組もうとの「意思を鮮明」にした民主党鳩山政権は、明らかに「政権交代」を果たした新政権の政策として高く評価し長い目で支援したいが、なにしろ「口の軽い大臣や副大臣」が多過ぎて、誰かが表現した「おこちゃま内閣」のごとき様相では、「国の大掃除」と「国の再建」、そして「独立国家らしい国際関係」の樹立を期待するにははなはだ心もとない気分に襲われる。

大人の振りをして国民を暴き、陰湿に税金を掠め盗るようなベテラン政治家も困るし、「僕優等生!」みたいな劣等性も困る。思ったことを何でも口にする「言論の自由の信奉者」も困れば、「正しいことしかしない」という単純馬鹿も困る。これらさまざまな人たちが集まって「学級崩壊のような内閣」を形成されては堪ったものじゃない。

この日本で、国家を託するに足る人材の教育育成を望むのは所詮無理なのか!ますます複雑にして高度な外交を要求される今日、そのような手腕を有する人材がいるとはとうてい
思えない。いままでにこのような有能な人材がいなかったとは思いたくないが、問題を分かりやすく矮小化して、ワイドショウで大騒ぎし視聴率競争に明け暮れるマスコミによって「潰された」か「退場を余儀なくされた」のではなかろうか。

仮に、そのような優れた才覚をもつ人材がいたとしても、芸能人に笑いものにされるような仕事にあえて就こうとはしないであろう。やはり、霞が関には優秀な若者に集まってもらいたいし、国会議員には国政を委ねるに足る「優秀な大人」に当選してもらいたい。
.17 2010 雑感 comment0 trackback0

分割評価

先の大東亜戦争の初期の頃、当時シンガポールを基地としていた大英帝国が誇る東洋艦隊の主力、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスという2大戦艦をマレー沖海戦で日本の攻撃機がいとも簡単に撃沈し、世界を驚愕させたことがある。

この報せをロンドンで受けたチャーチル首相・・ブルドック宰相ことチャーチルは大の日本人嫌いで、日本人を「黄色い猿」と言って憚らず、日本人を軽蔑しきっていた人物・・は卒倒するほど驚き悲しんだ。その時に言ったとされる言葉に「日本の爆撃機にはドイツ人が乗っていたに違いない、あの劣等人種がこんな高度な技術をもっている筈がない」というものであった。

ヨーロッパには傭兵という金で雇った外人部隊を使うのは長い伝統として常識であった。観光立国として有名になる前のスイスは山国の貧しい国で、この国の若者の唯一の仕事は傭兵として出稼ぎに出ていたくらいであるし、今でもバチカン王国の守備隊はスイス人の傭兵である。

チャーチルはそのようなヨーロッパの伝統を踏まえて漏らした言葉ではあるが、日本人には全く許し難い人物である。イギリス人の人種差別の酷さはよく知られるところであるにもかかわらず、この典型的な人物を、戦後の日本ではなぜか「偉人」として持ち上げ、尊敬する人としてチャーチルを挙げる日本人が結構いることが解せない。

このイギリスにも日本が参考にしてもよいと思われることが多々あることもまた事実である。そのひとつとして次のような事例がある。

英国の歴史上最大級の国家反逆の陰の首謀者がやっと判明したことがわかり大々的に報道され大騒ぎになった事件がある。英国が国家の威信をかけて開発した水素爆弾の機密事項をすっかりそのままソ連に売り渡した事件である。その首謀者が、ケンブリッジ大学の名誉教授で、英国王室の絵画顧問でもあるアンソニー・ブランド卿だったので国を挙げての騒動になった。

無論王室はただちに卿を罷免した。しかし、卿が当時所属していたトリティー・カレッジは次のような声明を発表した。「我々がブラント卿に名誉教授の称号を与えたのは、卿の類希なる西洋絵画に関する知識見識に対してであって、卿の国家に対する忠誠心の有無とは全く無関係であるから名誉教授の称号は剥奪しない」と。つまり、卿の西洋絵画史についての能力が否定された訳ではないから、処分する理由がないということであった。

プロヒューモという大物政治家が、ソ連に通じていたキーラーという高級娼婦と関係があったということで職を解かれたことがあった。この場合も、彼が議会で女性との関係を否定した後でそれが偽証であったことが判明したからであった。議会で「嘘をつく人物」は政治家の資格なしと判断されたからであって、いかがわしい女性と男女の関係があったことそれ自体が問題になったのではない。現在でも、フランスの大物政治家は夫婦でスキャンダルをばら撒いているが解任の話は聞かない。

ある人が政治家である場合、その人が政治家として適格か不適格はその人の「政治家としての能力だけが問題」とされ、女性関係が乱れているなどというその他の資質は問題とされない。

日本の場合はどうだろうか。「こんなひどい人物が名誉教授でいて良いのでしょうか!学生が可哀そうではありませんか!」とか、「こんな、女性関係が乱脈な人物が政治家であってよいのでしょうか!永田町の倫理観は一体どうなっているのでしょうか!」とワイドショウでタレント司会者などが大騒ぎをし、TV・新聞は街角でアンケート調査を行う。「止めるべき85%、どうでもよい12%、止めなくてもよい3%」などという結果を得る。さー、このあとは全マスコミがあげて「止めろ、止めろ」の大合唱となる。

「百日の説法屁一つ」で、どんなに立派なことをしてきても、どれだけ社会に貢献してきても全てが否定され社会的に葬られる。

また一方で、オリンピックで金メダルを獲得したりすると、一気にその人があらゆる点で優れた人物であるかの評価を簡単に下してしまう。「一芸に秀でた者」は、簡単に「諸芸百般につうじた者」となってしまう摩訶不思議。このような日本では、すっかり錯覚した人物がマスコミを中心に跳梁跋扈し、国民も「あの有名人が言っていることだから」と簡単に影響されてしまう。

中井国家公安委員長のように女性問題をスキャンダルとして賑々しく報道されても「辞任」もしなければ「解任」もされない。小沢氏も鳩山氏もこれほど「止めろ、止めろ」の大合唱にもかかわらず、現在のところ「辞任」の意向はなさそうである。

ともあれ、この国は政権交代後少しずつ「変化」しているのであろうか?
筆者は、刻下のようなマスコミの政治家に対する打擲ぶりをみていると、本当にこの国は人材に払底するのではないかと、密かにそして強く懸念している。
注:鈴木孝夫著「日本人はなぜ日本を愛せないのか」新潮社を参考にしました。
.14 2010 雑感 comment0 trackback0

狂った生活

ギリシャの経済破綻に端を発し、世界経済の危機が懸念されている。直近のリーマンショック以来の激震が予測されているわりには永田町・霞が関の方々の表情は無邪気にしてかつ明るい。不思議の国「日本」とはよくいったものだ。

子供手当を等しく支給すると、「パチンコ代と化してしまう」「貯金されてしまう」「ちゃんと消費してくれて市場が活性される」などの議論が一時期、印刷メディアや電波メディアを賑わせていた。「教育目的の子供手当」は市場を活性化させることが真の狙いなのか。

国民の消費意欲を刺激する事が資本主義経済の要と主張する事が「正しい論理」となって久しい。国防婦人会の「贅沢は敵だ!」が「贅沢は素敵だ」というコピーになってからも久しい。「欲しがりません、勝つまでは」が、「負けても欲しがってばかりの国民」になってからも久しい。もっとも、「敗戦」ではなく「終戦」だったのだから構わないのか。

資本主義経済下の日本国民としては、PIGSや予測される米国経済破綻を回避するために、或いは膨張した国家予算を賄うために、「積極的に消費し納税」する国民であることが求められているのであろう。「経済大国」とやらの国民の荷は重く道は険しい。

持たなくてよい物をもちたがり、行かなくてもよいところに行きたがり、着なくてもよい服を着たがり、しなくてもよい通信をしたがり、食べなくてもよいものを食べたがり、乗らなくてもよい車に乗りたがり、しなくてよい借金をさせたがりしたがる。さらには、自衛のために「保険に加入しろ、老後資金を貯め込んでおけ」「金を貸すから家を建てろ」と数え上げたらきりのないほど「消費生活」と「借金塗れ生活」が奨励される。

これではいくら金があっても足りなくなるのは当たり前である。

息切れする暇も与えず、連日のごとく「呪文」を注入する各種メディアに包囲されてしまった国民。「安心社会」とか「人に優しい社会」とは一体どんな社会なのだろうか。
「金をくれ」「節約しろ」という「国」と「地方」の関係がある一方、「金を使え」「無ければローンを組め」「預金しろ」という論理矛盾のなかでの相克に苦しむ国民。

「旺盛な消費をしてさらなる贅沢」を追求し続ける事が、「買えなければ借金をしてでも買い求める」ことが資本主義経済社会の一員として求められる模範的姿なのならば、しかもこの実態にいささかも病識がないならば、国家も企業も個人もすでに狂人のレベルにあると言っても過言ではない。

既成政党は無論各新党の政治家たちは、「豊かな生活」「ゆとりある国民生活」などを掲げて選挙戦に入るのだろう。またメディアのお祭りもはじまる。一番病識がなく狂ってしまっているのはこの辺りの方々ではなかろうか。筆者は狂人と化してすでに久しい!
.09 2010 未分類 comment0 trackback0

市中引き回し

沖縄基地移転問題が喧しい。当然のことである。戦後長い間沖縄が払った犠牲は看過できないことは国民の等しく思うところである。
新政権は、基地を県外に移転し沖縄にこれ以上の負担をかけたくない、さらには国外に移転してもらって日本における米軍の基地を段階的に減らしていきたいという意思を明らかにした。と同時に新しい日米関係を構築したいとの意志も表明している。

鳩山総理の言う「5月末までの決着」は、アメリカの経済破綻を視野に入れての発言だとの説もあるようだ。しかし、これははなはだ危険な賭けでありすぎるだろう。

世界800か所に軍事基地を擁し、派遣されている軍人の数はざっと20万人。NATO軍として欧州に駐留する10万人を筆頭に韓国に4万人弱、日本にもほぼ同数が駐留している。

我々が知る範囲においても、GDPに占める米軍の予算は4%強、約6千億ドル(90兆円)に達する。アメリカ経済はすでに壊滅的な破たん状態にあることは筆者のような素人も認識していることである。

軍事予算を如何に切り詰めるかはアメリカにとって喫緊の重要な課題であろうことは論をまたない。アメリカ自体も本当のところは全ての日本の基地をグアムに移転したいのだという。ペンタゴンの要人の考えには「アメリカは戦略的には日本を守る理由はない」と考えているようだ。そのことも概ね政府も国民も承知している。

基地移転に反対しているのは、「日本の外務省北米局」を中心としたアメリカの手先と化している利益享受者ではないか、という米国内の意見も強い。永田町の先生方や霞が関の日本の選良の方々が定義づけている愚民の一人である筆者など「日米関係利得」の「甘い巣窟」にいない者からすれば、「何故?」という疑問・不可解から解放されがたい事態があまりにも多過ぎる。沖縄県民の純粋な気持ち、日々苦悩する人々が反対するのはまた別である。

アメリカの陸・海・空の三軍は日本の予算で維持され続ける「沖縄海兵隊」については、自分たちの予算を侵食しないのだからなんら関心を持っていない。アメリカ国家においても目下のところ「社会保障費」を削って沖縄の海兵隊の駐留を維持しないで済むのだから重要案件にはならない。日本を脅したりすかしたりしながら米軍としての世界的プレゼンスの一環が維持されるのなら好都合というものなのだろう。

アメリカ軍の今後の方針につてはアメリカ国内にも各種の考え方があるようだ。「もはや世界800か所に基地を置く必要はない、極端な考え方では全世界から米軍は撤収すべき」というもの。「将来さらに戦争を拡大して軍需産業を核としてアメリカによる経済的支配を強化しよう」というもの。「規模や設置個所を勘案しながら対応を変化させよう」というものなど大きく3つのグループに分かれているということはよく聞くところである。陸海空の中もそれぞれ3つのグループがありCIAの中も様々な意見に割れているとも聞く。

加えて、日本国内における「基地利得享受者」があまりにも多く、「国内米軍基地利権」ということになれば筆者の想像をはるかに超える勢力が存在しているであろう。この「基地」のことに限った日米交渉は顕在するファクターと潜在するファクターに思い致せば、「もう3カ月を切った。さて、どーする」「あと1カ月になった、さあ、どーする」と矢継ぎ早に攻め立てるほど簡単な問題ではないはずである。それはあまりにも恣意的でありすぎるのではないだろうか

われわれ国民は、日本型民主主義とは言え選挙をとおして国会議員を選び首相を決めて来た。国家の民主党政権の首相が「新たな日米関係を構築したい」という所信を述べたことは勇気ある発言でないのだろうか。その日米関係に孕む膨大な問題を思えば、我々は十分な時間を与える必要があるのではなかろうか。

「首相の発言が軽い」という側面は否定できない。しかし、ここ数年、閣僚・議員・主要官僚たちの「口の軽さ」には驚きを通り越して「悲しさ」を感じてしまう。筆者の口癖に「殿方お口が軽い!」というのがあるが、これをまさに地でいっている思いである。

良きつけ悪しきにつけ「水面下の交渉」は政治にはつきものであろう。その水面の「水位が下がった」とは悲しいもので、当事者たちが得意げに情報としてペラペラ喋ってしまう。これをマスコミが恣意的な記事や報道として垂れ流してしまう。素人からみても「これじゃーどうにもならん」と慨嘆するほかはない局面が日常化してしまっている。

国会議員の村会議員化、国会議員の庶民化、政府高官の単なる公務員化が深刻なほどに進行してしまったのだろうか。教育者や神官僧侶さらに医療従事者たちの「商人(あきんど)化」が進行しているように!

国家の主要な地位にある人たちの「箍の狂い」、主要な機関の「箍の狂い」は誰が締め直せるのだろうか。暴走するマスコミの「箍」を誰が締め直せるのだろうか。絶望的としか思えない実情である。

誰がやっても上手くいかない国家。意欲を示した者が徹底的に虚仮にされ連日鞭うたれる。やせ馬に乗せられ市中を引き回され「無能だ」「馬鹿だ」「嘘つきだ」挙句の果てに「鳩山よ!ホンにお前は屁のようだ」と罵声を浴びせられる。小沢氏などに「謝罪しろ!」「止める止めろ」の大合唱。この国の政治を遅滞させ、世界に恥をさらし続けさせている勢力は、この国をいったいどういう国にしたいという意図があるのかが見えてこない。権力者を注視し批判するのはよい。しかし、「権力者叩き」に狂奔する姿に共感する事はし難い。

「そして誰もいなくなった」というどなたかの言説が皮膚を爛れさせる。戦後65年の日本の国家の再構築という大事業には多くの時間と血反吐を吐くような覚悟が求められる。もう少し、この政権に時間を与えるのみか、協力出来ないものだろうか。

自民党政権にも功罪は多々ある。官僚にも功罪は多々ある。民主党政権にもその功罪は早くもでている。戦後の日米関係下で「自己利得」の追求に走った者たち、「国民の税金」に群がったハイエナたちの排除がどれほど可能なのかを今少しウオッチ出来ないものだろうか。

政治家や官僚は資本主義的消費社会の「消費財」のごときであってはならない。気に入らなければ簡単に廃棄し、買い換えるものであってはならない。政治家や官僚への批判がショウアップされて「揶揄」されるものであってはならない。風刺はよいが、脚色され粉飾されて「お笑いネタ」にされるものではなかろう。

政治もどこから手をつけて良いのか「茫然自失」であるのが実態ではなかろうか。筆者自身も、戦後の資本主義的消費社会に生き、戦後教育を受け、消費者と納税者の増加策の下における核家族化の波の中を泳ぎ、多くのものを失い多くのものを得て来た。さて、自分の生活を仕分けしようと思い立ってもまさに「モグラ叩き状態」に翻弄されてしまい方向さえ定まらない。

ましてや1億超の国民が存在し、上から下まで「利益追求」に狂奔した現在の日本の立て直しを施政方針にし、それに命をかけようとする政治家の言が本当なら、もう少し協力的視座に立てないものだろうか。
われわれ日本国民が「救われない民」になってしまったとは思いたくない。
.08 2010 雑感 comment0 trackback0

小沢一郎氏のいう民主主義とは?

小沢氏が「日本に民主主義を定着させたい」と発言していることを何度か耳目にしたが、どのような民主主義なのかを問うてみたい。民主主義教育を受け民主主義的な日本で育ち、民主主義的な政治が遂行されている筈の日本だが、果たしてそうだろうか。

われわれは、自由民主党、民主党など如何にも「民主主義」以外は存在しないかのような幻想のなかで、民主主義について真剣に体を張って考察する機会を逸して来たのではなかろうかという不安がいつも付きまとって離れない。

会議の開催にあたって議長が「さあ皆さん、今日も民主主義に乗っ取って、みんなで仲良く話し合いながら議事を進行させたいと思います。次の間に酒肴が準備されていますので早く終わって、そちらの方で和気藹藹とすごしましょう」という挨拶の下に、一定時間の話し合いのあと、「それでは、多数決で決めたい」との号令のもと、粛々と議案が採決されていく。おそらく、永田町・霞が関界隈から全国隈なくこのような「民主主義的会議」が行われているのではないだろうか。

周知のごとく、「民主主義」とはギリシャにおけるデモスクラティアの昔から、意見の相反する人々の間で最終的な譲歩を獲得するために徹底的に話し合う精神から生まれたものであり、口角泡を飛ばし、つかみ合わんばかりになりながら、それでも最後の最後まで「他者」を理解しようとする行為である。そして、「多数決」とは、民主主義においては最後に行使されるべき「必要悪」であるはずである。

しかるに、「皆仲良く」とか「和気藹藹」なる言葉が必ず介在し、「和をもって貴しとなす」の精神が「自由な討議」を呪縛してしまっている。「皆で仲良く」が求められ強調されるのであり、「活発な討論や話し合い」は初手からうとまれ、「波風を立てるんじゃないぞ」という強制が重奏低音として参加者の意思を縛ってしまっている。

我々は「民主主義」という明治時代の新造語の前で思考停止を強いられたままの民主主義国家の一員であり、民主主義的手順を踏んだ選挙をとおして、民主主義的な国会議員を選び、民主主義的に日常生活を営んでいるという錯覚のままではなかろうか。

民主主義的な会議というものは厳密な意味では存在しないのではないかという現実の他、自由に意見を言うには、まず目上をたてる「言葉遣い」は勿論若い者としての「可愛げ」などの各種の「手続き」を踏まねばならない。女性なら、「女性的言葉は無論、立ち居振る舞い」などの「手順」を踏まなければ、「無礼な奴・失敬な奴・長幼の序を弁えぬ愚かな奴」として集団から排除される。社会的に上位にある者に対して反論でもしようものならそれこそ糧道を断たれかねないような仕打ちを受けてしまう。

情理を尽くして話せば話すほど「理」はかみ合わず、「情」で排斥されてしまうというのが大方の実情ではないだろうか。明治以来、我が国の言語表現を豊かにし、西洋の思想を可能な限り緻密にかつ精密にとりいれて来たけれども、我々一般国民は「一知半解」なままの理解できているのではないか。

加賀野井秀一氏によれば、たとえば、「哲学」「理性」「範疇」「概念」などいう言葉をはたして本当に理解しているのだろうか。フランス語で「概念」にあたる concept を考えてみれば、それはまず動詞 concevoir を連想させる。これは「思いつく」「着想する」という日常語であり、もとは「子を孕む」というところからきている。つまり「アイディアを孕む」というところから「着想する」ということにもなる。そして、それが名詞化すると conception となって「着想」「思いつき」「妊娠」をあらわし、さらに抽象的な意味も生じて「理解」『観念』等をもさすようになってくる。Concept もこの一連のヴァリエーションのなかにあって、も少し抽象度を増して、思考への傾きをもって「概念」「分別」といった意味をあらわしているのである。したがって、フランスの子供たちはこうした緩やかな意味連続のお蔭で、かなり早い時期からこの concept を使い、体内に血肉化しているという。(加賀野井秀一著 「日本語は進化する」NHK books 2002 より)

学者や専門家たちは「民主主義」や「哲学」「理念」などの言葉は原語で理解して使っているが、われわれ多くの国民は「一知半解」のままか「ムード」で使っているのではないか。
「哲学を持たねばならないとか、理論武装しなければならない」とかは日常的に発言されているきわめて理解不能な言説であろう。このような発言者が、団体や地域のレベルによっては長老格であり知者賢者として「民主主義的会議」の主導権を握っている場合が多い。

情理を尽くしても、情と理がバラバラにされるというのは、TVでのコメンテーターとかキャスターという人たちにもこのような傾向が強く、「情」の部分で視聴者を操る手法が、意識してか無意識か判然とはしないが顕著にみられる。政治家の発言もこのような水位から評論されると、政治に対して冷静な判断を国民が持つのは不可能であるし、「ジュンちゃん格好いい」とか「ハトの目がキョトキョトして不気味」とかのレベルになってしまう。

小沢氏がいう「我が国に本当の民主主義を定着させたい」は望むところであるが、本人の「民主主義的手法」に疑問がもたれていることと相まって、日本語の問題が根深く存在する国家の現実をいかようにするのか、その「強腕」に期待するが、はたして、小沢氏の「民主主義」で良いのかどうか心配なところである。
.04 2010 雑感 comment0 trackback0

手強い官僚・弱気な閣僚

「身体髪膚(しんたいはっぷ)之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」(孝経・開宗明義章)これを旧制高校の学生たちは得意の洒落っ気で「寝台白布之を父母に受く、敢えて起床せざるは孝の始めなり」と書き換え、その紙を枕元の壁に貼りつけて午前中の授業をサボったという話を聞いたが、この頃になってやっと春が訪れ「春眠暁を覚えず」の日々に、午前中はずっと寝ていたい心境である。

「官僚組織改革につき日本国は6ヶ月間の休業を致します。関係各国並びに日本国民の皆様には多大なご不自由をお掛け致しますが、窮状をご賢察賜り、なにとぞご理解とご協力をお願い申し上げます。内閣総理大臣鳩山由紀夫」という布告が地球上を駆け巡る様を想像してみた。無論、とても現実的ではない世迷い事である。

日本の官僚組織は鉄壁の組織であり、属人的ではない属省的な徹底した軍団であるといえよう。国家に忠誠をつくすより官僚組織に忠誠をつくし、省に殉ずる官僚がいても不思議ではない。

一方、国会議員はもとより、内閣の閣僚それぞれが内閣という一枚岩の鉄の軍団ではない。
きわめて「属人的」であり地域密着の「属地域的」存在であろう。したがって、考量する第一義は次回の選挙であり、そのための選挙区への利益誘導であることは看破されている。
この「属人的存在」の弱さを熟知する官僚にとって、閣僚はおろか国会議員なんて時折「威張らせておけば」喜ぶだけの「幼児」のようなもの。

どんな政権になろうとも、モ-ドの切り替えをすることない。党の公約も新たな内閣のスローガンも新政権の公約も「単なる一時的なファッション」のようなもの。自分たちのモードの切り替えは一切必要がない。

ニューファッションが流行ろうがアバンギャルド的なものが提唱されようが、それらを自前のモードの中にとり込み料理すればいいし、アンチモードが唱導されればアンチモードというモードにカテゴリー化をすればいいこと。流行りが廃るまでの時間の経過をじっと待つだけのことである。

長い間、自民党政権下において首班交代が起きるたびに「閣僚養育係」が虎視眈々と手ぐすね引いて待ち構えている。即座に霞ヶ関中華思想を吹き込み、霞ヶ関文化を叩き込んできた。多少抵抗する大臣は「蛮人」 としてランクし、ヒンヤリとした脅迫や恫喝を、あるいは軽蔑することでたちまち従順になることを経験知として蓄積している。 霞ヶ関流文化人にモ-ドの変換を強いることの診断法と施術法は確立している。

首班や内閣が変わり施政方針が多少変わっても、それは官僚にとっては国民大衆に対する肌触りのいいファッションみたいなもので、すぐ飽きられ、間もなく次のファッションにとって代わられだけの一時的なものにしか過ぎない。官僚がそのニューファッションに対応すべく準備をしている振りをしている間に強力な助っ人が機能する仕掛けになっている。

「売れる記事」を書く事が至上命題であるマスコミが協力を惜しまない。政策の不備を暴き、閣僚の属人的瑕疵を論い一大スキャンダル化してお祭り騒ぎをしてくれる。すると、お決まりの「政局」とやらが勃発し政治は機能不全となる。さて次は次はとの大騒ぎに明け暮れ、行政は「官僚に丸投げ状態」に陥る。

中華の歴史にみるごとく、宦官や官僚の排斥を試みた皇帝が廃されたり暗殺された例は枚挙にいとまがない。古代中華と中華圏の諸国における盤石の官僚体制はよく知られるところである。この岩盤にクサビを打ち込むことは殆ど不可能であった。

官僚組織とは本来そのようなものではなかろか。これ程強かであることは、ある意味で必要な体質であろう。頭が頭なりの論理で次々と代わる中で国家の運営を途絶えることなく遂行するには官僚組織は微動だにしない強固な体制であることが要求される。
それゆえに、国家の体制とは別個の、国家内国家のごとき一個の生命体としての論理が出来上がる。

官僚依存からの脱却、官僚制度改革とはいかに困難であるか。政党お得意の「シャドー霞が関」を予め作っておいて、政権交代あるいは首班交代のさいに一斉に取り替えることが出来ればまだしもだが。とはいえ、「シャドーキャビネット」もゴルフに例えれば所詮練習場シングル。実戦に及べば第一ホール目からのトラブルショットで、動転に次ぐ動転。「ここは何処?私は誰?」という地獄のような局面に立たされるのであろう。閣僚が霞が関の軍門にひれ伏すのも時間の問題となる。

官僚たちは、仕分けには恐らく本心では痛痒を感じてはいないであろう。官僚組織には官僚組織なりの旧体制が蔓延り改革が必要なはずである。新政権の意向だと言えばそれが実行可能になる。この際徹底的に「膿」を出せると、むしろ大歓迎かもしれない。
その意向に便乗して大掃除をすればそれだけ風通しのよい快適な環境が得られる。また時期が来れば肥大化すればいいし、そのための準備をするだけであろう。

「霞が関改革」とは、かくも困難にして命がけの大事業であろう。われわれ愚民としては、民主党の大英断に少々時間を与えたい。
.01 2010 未分類 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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