舛添氏のような政治家

 山本一太氏や中京出身の騒がしいだけの秀才氏らとビートたけし氏を顧問にして「タックル新党」でも立ち上げるのかと思っていたら、さに非ず。すでに死に体の既存政党に潜り込んでの新党立ち上げ。さすがに、舛添氏!この差し迫った時期に、実に効率のよい手法を選んだ。共同代表とかの歯切れの悪い人事もしなくてよいし、なにより少額とはいえ「政党助成金」も確保できた。

「将来の総理夫人になりたくないかい?」と、女性を口説いて回ったと言われている、フランスかぶれのキザで自信たっぷりな舛添氏のことは以前から注目していた。

東大卒後間もなくヨーロッパに留学し、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ高等国際政治研究所客員研究員などを経て1979年に東京大学教養学部助教授(政治学)。フランスの政治・外交を専門とし、国際関係論などを講じていた。(ウイキペディア)

自ら総理になることを宣言し人生設計をたてる。このような人物は他にも多数いるはずだが、刻下の「政治バラエティーブーム」を手玉にとり、マスコミの風に乗せて日本中に「自分の名前と出来る印象」を散布した、厚顔にして積極的そして計画的な手腕を筆者はそれなりに高く評価していた。

地盤もない金もない、恃むは自らの「才覚と頭脳」しかない舛添氏にとって、TV局の要請に応じ各種番組に出まくることこそ、「選挙運動」であり「国民的人気の醸成」に格好の機会であった。

同僚各氏の嫉妬を一身に浴びながら、なおかつ自民党先輩諸氏を批判する度胸には並々ならぬ強かさを感じさせた。それだけに、党内長老の反発を買い同僚議員の嫉妬のマグマはフツフツと滾り続けた。

総理の椅子が転がり込んでくるのを画策しながらじっと待つ。ライバルの足を引っ張り、スキャンダルをでっちあげ、無理無理小さな傷を探し出しては大袈裟なものに仕立て上げて群れから引っ剥がしては谷底へ突き落とす。これらを政局と称する。そして、実力者の威光を上手く利用しながら自らの「政治力と称する集金力」を高めていき、次の首班指名に自分の名前が取り上げられるような型を作り上げる。陰湿な密室の取引の繰り返しで公明正大さのカケラもない「従来型総理誕生劇」には辟易したものだ。

このような内部の駆け引きに明け暮れた「総理」に、政治家としての本来の」手腕を求めることは、それこそ「八百屋で魚を求める」がごときもの。また、このような「総理」が次の「総理」に望むのは、国よりも国民よりも「自分を尊重する者」であり、そのような者を推挙するのは理の当然。まさにその典型的総理総裁誕生のドラマを賑々しく見せつけられた記憶も生々しい。

60年以上も続いた自民党政治の流れは、企業と同じく代表者が年々劣化していく傾向から脱却できない。代表者も社長も教授もよほどの偶然が重ならなければ概ね「より小粒化」し「より小物化」することは避けられないことは歴史が明らかにしている。

東京大学法学部政治学科を出て、「総理大臣になりたい欲望」をここまで強烈に意思表示した人物は近年稀であろう。その強烈な個性は先輩長老議員からは「生意気な若造」として排除され、同僚議員からはうとまれたことは想像に難くない。また、その溢れるエネルギーは多くの艶聞を生み、マスコミの格好の餌食となりかねない。

筆者は舛添氏を好きになれない。しかし、好悪だけで「日本の将来」を託す訳にはいかない。ここはひとつ、ギラギラした欲望を剥き出しにして「総理」に向かって驀進する舛添氏に期待してみたい。

軍資金もない兵もない男が、数人の兵がいて多少の軍資金を有しながらどこを攻めていいのか皆目分からず放心状態の「兵の群れ」を糾合し、なにはともあれ新党を立ち上げた。氏を取り巻く刻下の情勢からみればなかなかの政治力だとみている。

このような人物の「これから」に期待してみたい。好きにはなれない人物だが、その「意思と欲望」を高く評価してみたい。出来ることなら、与党第一党が舛添氏をトップとして要請するくらいの英断をのぞみたい。

ヒラメのように、じっと上目づかいで待ち望んだ結果「総理」になった男よりはるかに相応しい。はからずもこの度「総理を拝命」したという「はからずも総理」のようないい加減な男を許してきたのだから、この際このような「傲岸にして不遜極まりない精力的な男」に託してみたいと思う。

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.29 2010 雑感 comment0 trackback0

実相の隠蔽・・・言葉の言い換え

毎日のように起きる「人身事故」に閉口している。自分が利用する路線でも多発といっていい位であるし、首都圏ではほぼ連日起きていることは周知の事実である。自転車に引っ掛けられても「人身事故」だし、電車に向かって飛び込んでも「人身事故」。「人身事故」にはあらゆるケースが存在する。しかし電車のケースではいわゆる「飛び込み自殺」ということになるだろうが、その恐ろしい凄惨な事実認識が次第に薄れてしまってきていることは否めない。「人身事故があり電車が遅れ・・・まことに申し訳ありません」という車内アナウンスにもすっかり」慣れてしまった自分を嫌悪することがある。

「援助交際」という言葉も不思議なもので「援助」という人道的な意味合いが色濃く表現されている言葉と「交際」という負のイメージよりは程遠い明るいイメージの言葉が結びついて「少女売春」という「あってはならない」事態を表す言葉とはとても思えない。これは、言葉だけからのイメージでは「やってはならない」というよりはむしろ積極的に「後押し」をし「使嗾している」としか思えない皮肉な響きを含んでいる。

このような言葉による現実の隠蔽ということは至る所に見受けられるようになって久しい。公共料金の値上げを「料金改定」、小手先の制度いじりや利権隠しを「構造改革」と言ってみたり、海外派兵は「人道援助」と言う。さらに蛇足ながら列挙してみると「スルメ」をあたりめ」、「すり鉢」を「あたり鉢」「梨」を「ありの実」などということは古くからある。

「飛び込み自殺」という言葉は不吉極まりない「忌み言葉」だから、「少女売春」も語感が悲惨で陰惨極まりないからという「言霊思想」が根底にあるからなのか・・。このような言葉の存在が次なる事態を誘発する恐れがあるので「言い換え」をしたのだろうか。筆者は逆にこのような「言い換え」こそが、事の真実の姿を覆い隠し、恐怖も罪悪感も感じなくなり、「援助交際」にいたっては少女たちに何か真逆のイメージを与えているのではないかと危惧する。なにか「格好よさげ」な、ファッショナブルなとらえ方をするのではないかとすら思える。

このような「耳触りのよい言い換え」に慣らされた国民は、言葉の本質に迫る思考の習慣が甘くなってしまい、事の本質や真実が隠蔽偽装され、その言葉が意味する結果を追及する執念は湧いてこないであろう。現在注目されている「政権交代」にともなう「各種の政治改革」というものにも、言葉のもつ本質は軽視され言葉の持つ「なんとなく良さそう」という漠然としたイメージを抱いているだけではなかろうか。

「郵政改革」「構造改革」「自民党をぶっ潰す」と大袈裟な身振りで絶叫されただけで、なんとなく良さそうに思う。叫ぶ方は、具体的に論理的に説明の必要はないし実効を約束する必要もない。「言葉のイメージ」を注入し酔わせればよい。その「言霊」に瞬時に酔いしれてしまう国民の性向を熟知した戦略の完全な勝利となる。

かくのごとく、真実から実相から出来るだけ距離を置くべくように言葉を「言い換え」られてしまった結果、西洋諸国家のみならず近隣諸国とも明らかに違う「曖昧な現実認識」に生きる国民になってしまったのではないのだろうか。

まったく読めもしない文字が美しく配された「掛け軸」をかけて悦にいったり、ちゃんと読んでいるのかどうかもわからない意味不明の僧侶の「読経」に忘我的に「ありがたみ」を感じてしまう国民は政治をする者にとっては「扱いやすい」ことこの上ない。

ありがたそうな言葉、実相は上手く隠蔽した耳触りのいい高級な言葉、空手形でも構わないという確信犯的将来の希望あふれる言葉をちりばめた演説をすればもうほぼ完璧に選挙民を籠絡出来るという手法が定着してしまっている。

そこで大事なことは、「地元の利益に直結しているかの如き言い回しと、さらに大切なことは「偉そうな態度」で喋らないこと。「気さくな人」「庶民的な人」という印象を演出する事であろう。善良で正しいことを他人には要求して憚らない選挙民には、自分たちを大切して「くれそうな人」が望ましいのであり、「日米関係」「日欧関係」とか「日中関係」や「日韓関係」などの訳のわからない「偉そうなこと」を言う人を「気取った、高みからものをいう」嫌な奴と、殆ど感情的にしか評価しない。

このような選挙民を相手にしている国会議員に多くを求めることは所詮無理というものである。随喜の涙と共にわが世の春を謳歌出来るのは「官僚・役人筋」のみとなる。この人たちの「幸せの宛て名」は自分自身である。使命感あふれる官僚や国会議員も当然存在しているが、いつの間にか「皆で渡ろう赤信号」の一員になってしまう。そうでなければ「村ハ分」の憂き目にあい元も子もなくすということになってしまう。

これらの、日本国民を真実から遠ざける「言葉いじり」はその効果を完璧に達成しつつあるが、いつのころから誰がやり始めたのか教えて戴きたいと切実に思う。「陰謀論」に与するつもりはないが、「陰謀臭」がしないわけではない。
.27 2010 雑感 comment0 trackback0

高齢者たちはみている

戦後65年経った。終戦当時20歳だった人は今85歳。相当数の人達が生存している。
当時15歳や10歳だった人たちはそれぞれ80歳と75歳。もっとおおぜいが元気で生きている。筆者は当時3歳でいま68歳。つまり、政治家・国会議員の「正体」をしっかり見据えてきた人々が沢山いるということである。

老人医療費や社会保障費さらに年金の問題もさることながら、国会議員にとって最大にして喫緊の課題は、今までの「遣り口」が全て見透かされているということであろう。さんざん騙され虚仮にされた「歴史の生き証人の数」が彼らにとってボディーブローのように効いてきていることであろう。

守る気もない、守る必要のない「公約」。国会議員の最大の仕事は「国会議員であり続ける」ということ。行政はすべて官僚に丸投げし、立法能力すらない国会議員の正体はすでに見破られている。彼らが磨いたスキルは税金から如何に巧妙に掠め取るかということではなかったか。

表舞台では派手な国会論戦を演じ、裏舞台では与野党が「国会対策費の授受」でしっかり取引をしてきた。マスコミが現在よりはマシな時代に散発的に報じて来た諸事実と符合する事が現政権の諸政策で白日の下にさらされ始めた。今までの漫然とした疑わしいことが具体的な姿となって結像されてきた。

この「歴史の生き証人たち」が政権交代を境に、官僚や議員たちの「税金の着服の実態」が明らかにされつつある現況にあたり「やっぱりなー」と、もやもやしていた霧が晴れるような確信に至っていることは事実である。こうなれば、これまでの彼らの「遣り口」の謎が一挙に暴かれ、その手の打ちの大方が見えてしまった。

民主党の今までの短い期間の功績はこのあたりにあるといえよう。既存政党が新しい政策として掲げようとしていることはすでに過去何度も掲げてきたことばかり。自分たちが、やる気も力量も無いくせに、「どうせ選挙というお祭りが終われば馬鹿な国民どもは忘れてしまう」からと繰り返し掲げて来た「猫だまし」のようなあるいは陳腐化した「懐メロ」のようなもの。

国会議員の仕事は「国会議員であり続ける」ことしか能のない議員たちが考えることはただ一つ。それは、やれもしなかった事を国民に約束するためには「新党方式」しかない。何のことはない、化粧法と衣装を替えて、ついでに源氏名も変えて偽装するしかない。つまり、デザインの真髄「表面を変える」手法が採用されることになる。モノやひとの表面が変わることで、それを見る人の気分が変わり、取り扱いが変わる。つまり、関係がころっと変わってしまうことがある。

既存政党に残った人たちは「売れない芝居を売れない俳優」で興行するしかない状況に焦燥と不安を隠せない。しかし硬直してしまっているので、かっての「栄華よもう一度」にかけてみるしかない。もう、自分たちの芝居が当たる自信はないが、役者を総入れ替えすれば「クサイ台詞も演技」もまだ受けるかもしれないという、落ち目の劇団特有の淡い儚い期待をもつしかない。

散々スキャンダルに塗れた、見捨てられたような劇団を飛び出し、新劇団を結成した人たちのウリは「劇団の名前が新しい」、「主役脇役が新しい」にすぎない。「なにかいい芝居をやってないかな~」、「今までとは一味も二味も違った役者がでる芝居はないかな~」とさがしている「浮動票」のような浮気な、それでいて「ほんものの芝居」を求めている客が、新劇団のターゲットであろう。しかし、最近の若者もしたたかであることをお忘れなく!

だが、この客たちのまわりには「芝居の嘘を語り伝える歴史の語り部」がたくさんいることは確かである。新劇団の偽装や嘘は瞬時に見抜かれ、客を舐めたつもりが逆に舐められている現実に気付いた時はすでに手遅れとなろう。

これからは、小さな政府や大きな政府などと「世迷いごと」を言うよりも、「国会議員の関ヶ原」という真剣な芝居を見せてほしい。議員の定数を減らして欲しい。議員になった途端に無能化したひと、国会議員であることに血道上げるしか能のないひと、本当は国会議員に相応しくない人、TVなどでバラエティータレント並みかそれ以下の狂態をさらす国会議員、「金儲け」にいそしみ国会議員であることの自覚のないひと、などなどの退場を同じ「国会議員の闘い」で始末して戴きたい。

さすれば、おおっぴらに不正を働く議員の数はなくなりはしないが、少しは減るであろうし、一見しっかり国政を担当する者としての上手な演技が出来るであろう。国民は心底政治家を信用するほど愚かではないし、そんな能力を期待もしないが、国民の負託をえた議員らしさが「いまより」少しでもマシになってくれることは期待していると思う。

新党という新劇団の旗揚げをした「先生方」は、上手に偽装しうまく国民をだますのはいいが、せめて従来の芝居よりは「まともな芝居」をして欲しいし「もっと演技の勉強」をしていただきたい。優れた才能をもった人もいるようだから。騙され続けてきた「歴史の語り部」をさらに騙せるほどの「見事な芝居」を見せてほしい。老人を舐めてはいけない。
.24 2010 雑感 comment0 trackback0

お訴え させていただく

国会議員の「国民の皆様に、お訴えさせて戴きます」には、聞いているこちらが困惑したものである。これは、東海地方選出の衆議院議員で総理大臣になった赤胴鈴之介に似た目がクリクリした人物(回りくどい!)が突如言い出したと記憶している。

国会議員が、ましてや総理大臣が国民に訴えてどうする。自分の「訴え」に「お」をつけてどうする。涙目になってどうする。当時は無性に腹が立ったものだ。さらに驚いたことに全国会議員がうち揃って国民に「お訴え」を始めてしまった。毎日のTVでは「お訴え」のオンパレードで、この国の国会議員は気でも狂ったかと落胆した。その後、「そりゃおかしいよ」とさすがに誰かが注意したと見えて急速に鎮静化した。ところが、最近になって一部の議員が再び「お訴え」と「訴え」始めたようだ。

ちょうどこの「お訴え総理」あたりから、日本の総理大臣の「軽さ」が目立つようになった気がしている。爾来今日までますます軽くなって、もはや立ち直れないままのようである。

「いかがなものか?」にも何ともいい難い怒りを覚える。自分は気が付いているが、当事者でないからか、あるいは責任ある発言はしたくないからか、誰かがそれについて発言して「火中の栗」を拾えばいいとばかりに「ほの暗い含み笑い」を浮かべた表情を見ると全身に悪寒を覚える。陰湿極まりない汚物まみれの愚劣さである。これを、戦後60年続いた自民党的レジームの中で、汚染度と湿度の高い密室の中で自己利益の追求に明け暮れたタコツボ似非紳士たちが口にするTV映像を目にすると怒りが頂点に達する。

「遺憾」という言葉も気になる。コンビニかファストフードのアルバイトの若者のごとく、「謝罪時のマニュアル」にそって「心底反省していないが国民に謝罪する時、なんとなく威厳を堅持しながら『偉い人が自分たちに誤ってくれていると国民に思わせる』最適な言葉である」というマニュアルに従っているのであろう。
謝罪会見の際、太刀持ちと露払いを両脇に横綱の土俵入り宜しく立ち並んだ3人(これがまた申し合せたように3人)が揃って頭を下げる前の謝罪の言辞が「まことに遺憾に存じます」である。自分はこんなところで謝る責任はないのだが、たまたまその地位にあるから頭を下げるのだから、せめて偉そうに聞こえる「遺憾」を使い、自尊心を「遺憾なく発揮」したいとでも思いながらの儀式なのだろう。

あとひとつ。日本語に深く通じているわけではない筆者が不快感を禁じえない言葉がある。それは、「・・・させて戴く」という表現である。独断専行の批判をかわす為の「水割り表現」だと思う。慇懃にして無礼極まりない表現とまでは決めつけないが、いかにも責任逃れをしている感は否めないのではないかと思う。上目づかいに、「この私を責めないでくれ」「だって、これだけ丁寧に言っているのだから」と、卑屈な態度をあえて演じているのが物悲しい。「・・いたします」なり「・・します」という有責性のある表現をする総理や責任者が望ましい。

諸外国にもこのあたりの事情はよく調査ができているのだろう。決して日本の主権が舐められているのではなく、日本の国家諸機関が軽く見られている訳ではない。担当者諸賢の無責任体質が見透かされているのだろう。入省以来、「当座をいかにやり過ごすか」を骨の髓まで叩き込まれ、「責任からの逃れ方のスキル」を身につける。佐藤優氏や鈴木宗男氏の暴露本の中身が本当なら相当な破廉恥漢であっても汚職紛いの事をしても、エリート高官の救済機能はかなり成熟しているようだ。国家レベルの交渉に臨んでも、まず私益、次に省益。これをクリアーした後の国益なのだろう。

これなら交渉相手は少年少女を相手に外交交渉しているようなもので、時間をかけて嬲りながら弄べばいいようなものだ。時間がなければ「恫喝」すればいい。予想どおりのリアクションを示してくれる。さらには、予期しなかったボ-ナスまで付けてくれる。「ユーはタフ・ネゴシェ-タ-だ」と評価してやればもう欣喜雀躍。その「評価」だけを過剰包装して鞄に詰めて帰国する。ともあれ役目は滞りなく遂行されたことを省内で言祝ぐ。国益・・・そうだった。まーいいや!とりあえず、省益は守られた。誰も責任を追及されそうもない。

まさかと思いながらキーボード上を指が踊ってしまったが、悲観的見方が過ぎるのかもしれない。そうであって欲しいという願いを「お訴えさせて戴く」次第だが、このような願いは遺憾ながら「いかがなものか?」と謂われそう。
.21 2010 雑感 comment0 trackback0

テープカットと強権小沢

最近アメリカ映画をよく観るが、エンドロールがやたらと長い。人権の国・アメリカでは「映画製作」に関わった人々の全てを紹介しなければならないのであろう。例えば。監督や女優にピザを出前したアンチャンまであの長ったらしいリストにのせているのかもしれない。NHKの大河ドラマを観ることがあるが、こちらはオープニングの制作陣の紹介が冗長で我慢がならないときがある。

脚本家と演出家の2名で十分だし、出演者の紹介も格付けを鮮明にした過剰な演出に辟易としている。俳優名の羅列で良いのではないかと思うのは業界の権威を重んずる規範をあまりにも軽んじ過ぎる視聴者の我儘だろうか。「この俳優が今をときめく大俳優であり、この俳優は一流の俳優だが今回お忙しいのに『特別友情出演』をしてくれた」ことに視聴者まで感謝しながら「観なさい」、と指導的・教育的に誘導してくれているのかもしれない。

映画の本編が終わっても立とうとしないワイフを急かせると「皆さんがご覧になっているしご迷惑だから」とジット席にしがみ付いて離れない。仕方なく、一度だけ終わりまで付き合ったことがある。いつまでもこのままで居たいと余韻に浸る若い(とは限らないが)カップル。腰が抜けた老人たちが揃ってウットリと眺めている。

あんなものは、「あっ、娘の名前があった」とか「孫の名前を見つけた」とかで欣喜する関係者満足に応えるのと、ファッションや音楽、舞台美術業界の人々の参考のためかライバルに対する嫉妬や羨望さらには手厳しい批判のための資料にしか過ぎない。爾来、夫婦で映画に行くときは、最後列の一番端に座り誰に遠慮することなく終了後ただちに席を離れるようにしている。

他者の人権を慮り、各界の人権擁護的配慮という儀式に付き合うのも大変である。自分の人権を犠牲にしなければ他者の人権を擁護出来ない側面も多々ある。

一方、近時の我が国における記念行事の際の「テープカット」に立ち並ぶ紳士諸君や賢人諸氏の光景が滑稽で仕方がない。3人から多いときはなんと10人近くが鋏をもって一斉にテープをズタズタに寸断する様は異様としか言えない。最近は、美しくズタズタに出来るように支柱まで添えているようだ。

所詮先進諸外国・・多分アメリカ・・でそのようにやっているのを、日本の誰かが何処かで真似をしたのが始まりであろう。否、このあまりにも日本的な儀式は珍しく日本がオリジナルなのかもしれない。
大統領制の国とか専制君主国家では誰か一人が「おまえやれ!」と命じてすむような気がする。いかにも日本的無駄とバカバカしさを象徴している。

戦後日本的民主主義国家・「日の本」に典型的にみられる光景である。一つの記念行事や、箱物の完成までには多くの「大ボス・小ボス」が関わっている。たった一人の代表者がテープを切る晴れがましい役を独占すると、陰湿な嫉妬が渦巻き「俺出ないよ」なんて不貞腐れる輩が多数出始めたことに苦慮した「竹下さん的担当者」が考え付いた「名案」なのかもしれない。

あちらを立てればこちらも立てて名誉欲(!?)を満足させ、全員でシャンシャン祝いをやらせる。写真を撮って「額縁」に入れ、「貴家の欄間」か「御社の社長室」にどうぞとくれてやる。並び順に例によって多少トラブルがあったが主催者が側は大過なく終わったことを言祝ぐ。メデタシメデタシ!!

皆でゴールインの小学校の運動会と全く同じ原理が、紳士諸君と賢人諸君の世界にまで浸透しているようだ。「満足気」な彼らの表情を見るにつけ、「これでは日本の政治は効率が悪く、ますます我が国は劣化していく」と憂えざるを得ない。

民主党政権発足の記念碑の除幕式とテープカットがあったと推量すると面白い。現在の連立各党の党首はもとより、それぞれの党の功労者。旧社会党右派・左派に旧民社の大ボス小ボス。現在の民主党内の各派閥の大ボス・小ボスに過去の功労者・・考えただけでも長い長いテープと幾本もの支柱が必要になる。数十人が壇上を埋め、押し合いへしあい。挙句の果てに、「隣のスウイッチならぬ隣人の指を『ついウッカリ』切り落とした」なんて事故も起きかねない。

このとき「お前やれ!」と小沢氏が命じた一人がその名誉を独占したら、「小沢強権・小沢独裁」の怨嗟の声が湧きあがり、解党的混乱に陥るのだろうか!あるいは「鳩山首相の指導力不足」とマスコミに糾弾されるのだろうか?「小沢さんは、決定の仕方について〝説明責任〞を果たす必要がありますね~」といったコメントをする評論家諸氏の口に糊を供することになるのだろうか?そして支持率の世論調査!あー!・・これはまたの機会に。

今日も何処かで居並ぶおっさんたちの満面に笑みをたたえた「無駄なテープカット」が挙行され、そのたびに「日本本来の佳きもの・佳き事柄」が消滅していく!不安と焦燥を覚える筆者は、「テープカット」に参加させてもらえないことに嫉妬しているのだろうか?
.17 2010 雑感 comment0 trackback0

断定するバカ ひるむバカ

「ビールは何になさいます?」と訊かれた時、「冷蔵庫をあけた君の手に最初に触れたヤツ」と応えることにしている。私には、「エビスも大黒も」、「キリンもライオンも」、「アサヒも夕陽も」その違いが分からないし、キーンと冷えたビールの一口目だけに快感を覚えるのであり、乾ききった喉を通過させればあとは飲みたくもないからである。

ところが若い頃、「サッポロ」とか「サントリー」などと妙に自信ありげに、しかも断定的に「それしか飲まないぞ」と力強く発する友人に気後れしたものだ。その頃は、「ビールは何を」と訊かれるたびに何故か心が落ち着かず「なんでもいいよ」と応えるのが精々だった。

我が父は下戸であったが故に、我が家で酒・ビールが話題にあがることはなかった。したがって、ビールはビール、酒は酒としか認識していなかった。このような私にとって、自信ありげに断定的に注文する友人には、何か伺い知れない「高度な定見」があるのかと密かに畏怖の念すら持ったものだ。

人間というのは「どういう基準で判断しているかわからないことについて、キッパリと断言する人間」に対しては「必ず気後れがする」という心理的な構造に生まれついているということを聞いたことがある。

ビールに関してはその後サラリーマン諸兄と飲むようになってから、S商事やS銀行系はアサヒをM商事やM銀行系はキリンを選ぶということがわかり、会社人間として嗜好品まで拘束されていることに同情しながら選択法の一端を知り、何故か腑に落ちた気がしたものだ。

一方、情報誌にはファッション・グルメ・音楽などについて、「いまは・・・でなければならない」とか、一流店とはこういう店のことで「ここで・・を食べるときはこうしなければならない」とか、「このミュージックはこのようなシチュエーションでこのような聴き方をすべきである」という断定的な言説が満載されている。かくして、事に臨んだ際に自信を持って断定的にふるまえることが出来る「迷わない仔羊」が誕生する。

「あの権威ある情報誌にあの社会的に認知された有名な評論家が教えてくれたこと」であるから「間違っているはずがない」とばかりに、その断定的言説を繰り出して相手を気後れさせようとする人達で溢れかえることになる。

私はある時結婚式のスピーチで「オリジナルの祝辞」を述べたことがある。最悪の結果で、今想い出しても赤面するくらいだ。自分の考えを自分の言葉で他人の前で論じる場合、「立て板に水」とか「淀みなく言葉が口をついて出てくる」ということは難しい。話は行ったり来たり同じところをグルグル回り、論旨は乱れて曖昧になってしまう。主語も述語も不明確になり、奈落の底に引きずり込まれそうになり、立っていることがやっとという状態だった。会場を逃げ出したい恐怖すら感じた。何とか気を取りなおし、最後は決まり切ったよくある定型的言説を語り始めた途端に「脳の風通しが良くなり」、リズミカルにしかも立派な感じで終わることが出来た。

政治家の言説をみてみるとそれがよくわかるし、新聞の解説記事などにも同じような事が言えるのではないか。

小泉元首相のあの自信に満ちた「断定的な言説」に多くの国民は気後れと共に「信頼と力強さ」を感じたようだった。中味の吟味より「淀みない流暢な断定的語り口」に酔いしれたのではないだろうか。

最近の「ひらがな新党」のある代表がこの手法を駆使しているのが妙に気になる。「一点強調主義」というか「ワンフレーズ主義」というか、小泉的手法をパクっているのが気になる。

遂行的であるかないかより魅力的で時流にそったスローガンを、定型句を並べて繰り返し述べることで国民を「酔わせ」「判断を狂わせて」いるのが透けて見えている。

民主党の公約も全く軌を一にしている。これまで実現不可能と思われた政策を遂行する事を「断定的」に国民に提示し、メディアで「断定的」に語り続けた。その結果の政権交代だった。

しかし、定型句の羅列と「霞が関文学」がちりばめられたそれはそれは見事な「答弁書」を読まずに、「自分の言葉で話す」ことを試みている民主党閣僚や国会議員諸氏の言説に、力強さも安心も信頼も感じられないのもむべなるかな!である。

我々民草は、彼らの言葉が「断定的に流暢になり、分かりやすくなり、妙に安心感を覚え、信頼出来そうになった時が実は危険水域に入っている」ことを知る必要がある。

「断定的な言説」に要注意。出来もしないことを他者が断定的に言ったことを寸借して政治的に優位に立とうとするイカサマ野郎の出現に要注意。断定できないことを「断定的に答えろと政治家に詰めよるマスコミ」にも要注意。
.15 2010 雑感 comment0 trackback0

圏外孤独

創作「四字熟語」で2000年度賞を獲得したこの言葉は、携帯時代を風刺したものです。
なにしろ「お守り」のように握りしめ、メールが来るのを待ちメールで発信し続ける人達にとって、「圏外」の表示は「神も仏も無い」非情さを感じるものかもしれない。なにか世間から一人取り残され疎外された強烈な孤独感に襲われ、血の気が引く恐怖さえ感じるのかもしれない。

この言葉の元である「天涯孤独」は無論のこと「四字熟語」は、人の・人生の・世の中の機微を見事に凝集しているが故に長くその命を保っている。たったの四文字で広範な意味を表徴しえるが故に、冗長とならずに的確に表現できる言葉として日常頻用される。

さて、家庭において、地域において、職場において、業界において、あるいは世界の国家間においてこの「圏外孤独」感は蔓延しているのではないだろうか。しかし、多くの場合、携帯と同じく少しでも早く電波圏内に入るべく行動するのと同じく、「他者と同じ圏内」に入るべく自己を捨てて、あるいは自分で考えることは放棄して一目散に多数の人の群れに逃げ込んでいるのではなかろうか。

「空気が読めない・KY」であるとか、「協調性がない」とか、いろいろなことで一部の人を疎外することで多数の纏まりの中に身を置く事を何よりも大事にする日本人は、「付和雷同」と「滅私協調」を行動基準に置くとはよく言われることである。

「実は本当は反対だったのだが」あの時のあの場の空気は「賛成せざるを得なかった」ということは日常的に耳にする。一国の総理であったあの麻生元総理でさえ「郵政民営化」は本心では反対だったとまで言っている。その立場の重さ、その発言の重ささえ僅かな時の経過の中で忘れ去られ許されたかの如き様相、つまり重大なこととはならずに看過されてしまう。日本人の骨に染みこんだ思考基準の証の一つである。

では、「圏外孤独」を恐れる人たちが逃げ込み仄々(ホノボノ)と過ごしたいときに多数の意見は誰が形成しているのか。マスコミである。「多くの人はこの考え方の場所にいるよ」とばかりに誘導しやすいマスコミにとって、これほど扱いやすい国民はないであろう。やりたい放題の特権に忘我の愉悦に浸っているであろう。

新聞・TV、それのご用評論家たちはやすやすとその目的を達成できる。政治であれば使用する言葉を教え、その言葉を発する時の表情を教える。TVでは、キャスターや評論家諸氏が繰り出す言葉も表情(演技?)も定型的そのもの。街頭インタビューにみる街の人々の言葉も表情も全く同じである。無名の役者を使った「ヤラセ」ではないかとさえ思ってしまう。

かくして、「大衆政治家」を任じる人は無論、あるいは訳も分からずそれに準じた政治家たちはマスコミ論調にただ乗りして、国民向けの「台詞と演技」を身にまとう。挙句の果てには、「あの!お笑いタレント」に、「あの芸能人」に小馬鹿にされながらもTV出演に嬉々としている。TV目線にも堪能になって、いっぱしの三文役者並み!

政治家としての矜持はもとより、品格も知性も教養もかなぐり捨てた(もともとあれば!の話だが)あの狂乱ぶり。民放が求めるままのキャラを演じきるあの体たらくに、亡国の危機を感じずに何を感じろというのか。オバサンたち(一部の方にはお詫びします)のあの無秩序な馬鹿話会と何処に違いがあるのだろうか。

まずは、国家百年のために、政治家にその矜持を保つことを切に願いたい。あなた・・実名を挙げたいが止めておく・・が国会議員であるかぎり、あなた自身と選挙区の支持者の恥を天下に晒していることに気付いていただきたい。
.12 2010 雑感 comment0 trackback0

親子丼の具争い


親子丼の「卵」と「鶏肉」と「ネギ」、そして「コメ」の争いを見るかの如き新党騒動。鳩山由紀夫板長が作った「親子丼」がどうもいま一つ味に冴えがない。かといって、かっての「自民板長」が作っていた親子丼の味には国民は辟易としている。思い切って「民主板長」に変えてみたが、これも何処か物足りない。

「自民板長」の時代には、具材の仕入れ先に長い間の「しがらみ」や「もたれあい」があり、中間で「まいない」等が介入し、国民というお客さんに出すときには当初の予算をはるかに下まわった材料代しか使えなかったのだから仕方がない。

なにしろ、計上した予算から直接つかみ取りで持ち去るのだから残った予算で美味しい「親子丼」が出来る筈がない。せめて、厳選した具材納入業者からの「寸志」「薄謝」で我慢すればいいものを、我も我もと寄ってたかって掠め取るのだから碌な料理が提供される筈もない。

そこで、お決まりの「喧々囂々」が始まった。我が党ならもっとましな「卵」を、いやいや我が新党はもっとましな「鶏肉」を、おいしい「コメ」ならやっと立ち上がった我が新党が、「ネギ」なら我々がと、更に新党が結成されようとしている。本当に充実した美味しい「親子丼」を出そうとはしていない。

「卵」だけが良くても、「鶏肉」だけが良くても美味しい「親子丼」は作れない。喧しい最近の新党ラッシュは、一つの一つ具材の提供を争っているようにしか思えない。我々国民は真に厳選された素材を信頼のおける業者から仕入れ、それらを駆使して本当においしい「親子丼」を作ってくれる「腕の冴えわたった板長」に任せたいのだ。つまり、我々は、真に国家のリーダーたるにふさわしい人物と、まともな国会議員と官僚が欲しいのである。

「袖の下」「まいない」はこの世から消える筈もない。でも、「薄謝・寸志」で我慢してほしい。どこか長閑で鷹揚な日本国民を、霞が関や永田町の住民たちは「愚民」とか「下々の輩」と呼んで憚らないようだが、その許容にも限界があることを、すでに遅すぎたとはいえ早いほどよいのだから、「手遅れ」にならないうちに従来の手法を手仕舞いすることをお薦めしたい。

われわれは、新たな「具材屋」を求めていないし、「具材屋」で国政は行えない。予算を数字通り(出来れば限りなく近く!)執行する正直な「親子丼屋」を求めている。賢しらに、うちの卵をあるいは鶏肉を使えばおいしい「親子丼」ができるよと喧伝する、国政から見ればパーツ屋の域を出ない新党の叫びは五月蠅いばかりだ。

あなた方の主張は誰もが考え誰もが希求している「事柄」である。過去何度も言い募って来た事柄でもある。いまさら持ち出されても「又かいな!」としか反応できない。我々は、その事柄を実行して見せてほしかったのだし、総理には総合コンダクターとしての「力量」を求めて来たのである。

「愚民」であり「下々の輩」である我々日本国民だからこそあなた方は同じ「嘘」をつきながらも安全に今日までこられたことを僥倖と思うか、この際危機と感じるか・・。そろそろ大根役者の「猿芝居」「田舎芝居」の幕は下ろす時期かと思う。

「いい時代だったんだなー」とか、「まだなんとなくいい時代だなー」と、いまだに思っている永田町と霞が関の住人の方々は、可能な限り早く覚醒してほしいと願うばかりである。その「覚醒」と「危機意識」を感じている方々に国政を委ねたい。
.12 2010 雑感 comment0 trackback0

政策通とは?

政策通と評価の高い、そして鳩山邦夫氏が「日本一頭がよい人」と定義した与謝野馨氏が自民党を離党し平沼氏らと新党を立ち上げました。それこそ「老骨が軋むような音」をたてて作り上げた「たちあがれ日本」という新党です。

「政策通」とは一体何か、しばらくその意味がよくわかりませんでした。政策に通じていない国会議員の存在と言うのが意味不明のままでした。政策に通じていない国会議員の存在に異議申し立てを・・片隅で・・しておりましたが、最近になってやっと腑に落ちる解釈に出会いました。

政界における「政策通」というのは、「役所の、つまり官僚の政策が理解できるという意味であり、自ら政策立案出来ることではない」というのが、元内閣参事官・高橋洋一氏の解説です。したがって、与謝野氏の経済政策は昔大蔵、いま財務省と同じものであるということを聞いて納得がいきました。

つまり、日本一頭が良いから財務省の出す政策がよく解り、他の殆どの国会議員はそれを読んでも聞いても理解が及ばないから「政策通」とは評価されなということなのでしょう。私はまた、政策通というのは日本国のこと、日本国民の幸せの為に政策立案能力が優れていて、国益を踏まえて諸外国との外交にも優れた能力を備えている並はずれた逸材かと思っていました。「日本一頭がよく」て「政策通」ともなれば、何故与謝野氏が「総理総裁」になれないのかと日本国の為にひそかに憂えていました。

このようなことならば、「脱官僚依存」なんて「公約」を掲げて官僚の権益を侵犯しようとする民主党の崩壊を目途する「大霞が関」の圧倒的支援を背景に自民党を飛び出し、民主党の足を引っ張る役目を果たすことが、つまりは官僚の意向に沿う「政策通」の面目躍如ということになります。

頭がよいと自認する人々の立案した政策を、頭がよいと自認する与謝野氏がよく理解し解説するその政治姿勢を、他の頭が悪いと思われている議員が支持をするとは思われない。とかく自らを優秀と自認する人は周囲から煙たがられ(実は馬鹿にされ)浮き上がります。

ましてや、政権交代で右往左往する自民党内若手からは守旧派の老害政治家として疎んじられることになるでしょう。そこで、飛び出すという選択しかなかったのかと憶測することになってしまいます。

与謝野氏や平沼氏のような一見日本の政治家の中でも良識派ではないかと思わせるような方々には、政権交代を機に自民党の過去の政治を反省すべきは反省し、民主党に対する保守政党としての再生のために残り少ない(失礼!)政治家生命を賭して戴きたかったと慚愧に堪えません。優秀な若手を育成し、正統保守の自民党を再生してほしかった。

このまま推移するなら、「官僚政治」の「通訳新党」あるいは官僚政治の国民への[説得新党」を立ち上げたとしか思えないのは筆者の短見でしょうか。
.09 2010 雑感 comment0 trackback0

永田町の専門家たち

平沼・与謝野新党が動き始めました。老政治家たちのあくなき権力欲には脱帽の体です。マックスウエーバーによると、「政治という語は、複数の国家のあいだで、あるいは国内の複数の人間集団の間あいだで、権力の分け前を求めて、あるいは権力の分配をめぐる影響力を求めて争われる営みであるという定義」が語られているが、刻下の事態はまさにその定義が我々の目に分かりやすく具現化されていると言えましょう。

さて、永田町にはかって大蔵族・文教族・郵政族。さらに、現今では農水族・国交族などの原始人の部族のごとき名称の人間集団が存在しています。国会議員の職域の出自に従い民間と官僚の間に生息する「族」と称する「専門家」集団です。

それぞれの管轄の縄張りの中で「他族」を侵食することなく「立法」や「根回し」をする特殊技能を駆使する専門家たちです。その専門的技能は、「陳情」等を受けた場合に瞬時に自らの取り分をはじき出し、またその取り分以下にならないように実に巧妙に「予算」をつける技能です。「金」にならない陳情には、しっかりと「恩」を売り「票」に直結させる技能もいかんなく発揮されます。

また、この専門家たちは「地元への利益誘導」という芸当もお手のもの。地元で「票になり金になる案件」を求めて、秘書という手足を走らせて地元民の欲望をわざわざ喚起させ、いつの間にか「無くてはならないもの」に作り上げます。それに予算をつけピンはねし、そればかりか過分に「恩着せ」をします。

この専門家集団にはもう一つ強大な権力を持つ「官僚機構」が惜しみない協力をすることになります。国会議員から回されて来る「案件」をなによりの「御馳走」とばかりに食らいつく強力特殊技能集団です。この集団は「国家公務員」ですから、国会議員や業界人からの接待などにより多少飲食においての余録はありますが(・・ノーパンしゃぶしゃぶなど目に余るあるいはキャリア高級官僚としては国民が等しく涙するような破廉恥なレベルはまた別ですが)はありますが表向きには直接的に「金」に換算し懐に入れることは稀(・・無いとは言えない悲しさ!!)ですが、こちらには伝統的な調理の仕方があります。

つまり、「民は無知蒙昧だから我々が監督指導しなければならない」という、頼みもしない歴史的使命を発揮するわけです。国と民間の間に「半官半民のような、7官3民のような、4官6民のような機構」を設置するのです。
勿論、あの実に巧妙な芸術作品のような「天下り団体」です。ここに退官後も末永く税金を吸い上げるシステムを作り上げるのです。このシステムの作者こそが功労者として出世しまた「天下り」の当事者としてその「果実」を我がものとできるのです。

この族議員・族官僚という「技能・芸能集団」に激変が襲ったのが「政権交代」です。道具は取り上げられ、舞台は破壊され、つい昨日までの「興業」がうてなくなりました。あまつさえ、「族議員・族官僚一座」の構成員にまで手を突っ込まれてしまいした。「許せない」と思うのは当然です。この族一座には「タニマチやファンクラブ」が多数ついています。これらが一体となって「復旧作業」に邁進しているのが「新政権叩き」なのでしょう。国民とは無関係の所で繰り広げられる「密をめぐる暗闘劇」を愉しんでばかりはいられない。
つまり、わが国には「密に群がり舐めたがる権力者」しかいないのではないかという不安をぬぐえないところに、わが国の悲劇があり、現在はそれが鮮明に顕在化されていると言えるのではないでしょうか。専門家しかいなくて、国を大局から考量し「国をこれかどうしていくのかの理念を語り哲学を語る」政治家は不在であるということです。国会における議員の審議は「密の分け方や奪い合い」の審議であり、「国家百年の体系」を考量する人間が存在しないと思われる事態が不思議で仕方がありません。

多分、戦後政治は「どこかの国」の指示に従うことを強制され「指示待ち政治家」しか育ってこなかったことに起因するのかもしれません。これでは、国家のことを語る政治家は排除されるのですから「それでも政治家でいたい」というどこか違った使命感と言いますか、ねじれた欲望に翻弄されることに快感を覚える「奇妙な人々」しかいないとまで言い切ることが出来そうな危機感から脱しえない焦燥を覚える次第です。

そろそろ「大統領制」を考えたいと思います。「まっとうなエリート教育」も遂行的に考えたいものです。これでうまくいくとは言えないことは諸外国が示してくれていますが、自らの金銭欲を「馬鹿な国民」なら騙せるとばかりにオブラートする政治家以外に「国家」を語る人が出てくるかもしれない楽しみがあります。さすれば我々愚民にも「国家の本当の立ち位置」が少しは分かるかもしれません。

なにしろ、専門家しかいない国家なのですから。その専門家どおしで互いを「専門バカ」と誹りあっているのですから「満天下のお笑い劇団」みたいではありませんか!
.06 2010 雑感 comment0 trackback0

まえのめりの挙手 党首討論

あえて贅言を弄したくなったのが、先の「党首討論」
自民党党首谷垣氏の、学校の先生の前でハイハイっハイっと挙手をする優等生さながらの写真を新聞でみたことであります。一国の「総理」と最大野党の「総裁」が火花を散らす「党首討論」にしては、「総理」の自信無げな立ち姿と、総理の答弁を中途で遮りながら前のめりに挙手をするシーンを写した写真(読売新聞)を見ると、あまりにも情けなくなったからです。
そもそも「討論」とは、「特定の問題について、集まった人が意見を述べ合って議論をすること」(明解国語辞典)と認識していましたが、あれは討論ではなく「質疑応答」ではないでしょうか。あるいは「全共闘的吊るしあげ」のような構図です。
貴公子谷垣氏としてはあれで十分だったのではないでしょうか。どす黒い権謀渦巻く自民党で担ぎあげられたピエロ的総裁役としてはギリギリのところでしょう。あのレベルの追及をあれ以上行えば、谷垣氏自身が自己崩壊しかねないと思います。いくら唆されてもあれ以上のことをやればかえって自民党の品格が損なわれ、谷垣氏個人の破綻につながったでしょう。
本で例えるならば、本文には至らずに目次の羅列に終始したようです。自民党が国民のレベルを相当低く見ていることが良く分かるものでした。「女と金」の問題を追及すれば国民によく分かり、民主党離れを引き起こすから徹底的に「女と金」に絞り込んで攻め立てるというのが、自民党の首脳や同党の「頭脳」である方たちの戦法であり戦術だったのでしょう。相変わらずの優秀すぎる「頭脳」だなと申し上げるほかはありません。
総裁谷垣氏がどんなに恥をかこうが構わない。国民の中の知性派がどんなに嫌悪感をもとうが構わない。国民の大多数(彼らが人間以下だと認定している)に「民主党ってイヤーね」と思わせればいいということが透けて見えます。
時間の経過と言うのは実にありがたい。「時間切れ」というのは説得力のある、未達成に対する言い逃れになります。そのために予め両者承知の上で「短めの時間設定」で執り行う。つまり、攻められる方は「もう少し耐えていれば時間が来る」。攻める方は「もう少し時間があれば陥せたのに」と言い逃れることが出来る。
「党首討論」は毎回かくのごとく「不完全燃焼のうちに終了する」ように設定されるのでしょう。
さて、かくのごとく見え透いた設定で行われる「党首討論」についての新聞・TVの論評です。討論ではないこの「党首討論」を「党首討論」として論評している事が理解できません。更に、「不十分」「迫力不足」だの「突っ込みが足りない」などの論評に納得がいきません。
千年一日がごとき「決まり切ったストックフレーズ」を並べ立てて、眉をひそめて嘆息し、「遠くを見るまなざし」をする評論家諸兄のギャラを意識した演技にも辟易としています。
「党首討論」でしょ?しかも政権与党と最大野党の党首でしょ?時間はせめて4~5時間。「国の将来」「国民への要望」「防衛・教育・経済政策」などを「国家機密」については曖昧で結構ですよ。「党首らしい本当の討論」をして戴きたいものです。
昔の小学校・中学校あたりには、世の中は「正しいことと悪いことしかない」と堅く信じている女子生徒が先生に「悪いことをしている男の子」のことを言挙し、それに対して必死で釈明する少年のレベルで国家の指導者として許されているのだと思い込んでいるような体たらくでは近隣諸国が言祝ぐだけでしょう。
これでもなんとか国が動いているのはなぜでしょうか。それはどうあれ「官僚諸氏」が仕事をしているからでしょう。皆で「許しあい・傷を舐めあい・責任は広く分散させ誰一人として有責性を感じない」仕事の仕方を熟知した優秀な官僚諸氏のお蔭なのかもしれませんね。近隣諸国より前に「官僚たちの高笑い」が聞こえてくるようです。
「脱官僚」を掲げながら、その「官僚」のお蔭で「埒もない討論風の質疑応答」に明け暮れすることが出来る日本の指導者。これなら「誰にでもできる」と思える国民を増やしてくれているであろうことがその成果なのかもしれません。
.02 2010 雑感 comment0 trackback0
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プロフィール

Author:須藤文弘




歯科医師(1942年2月生まれ)
医事評論家
歯科医療コンサルタント
NPO法人日本歯科保健機構 理事長
東京医科歯科大学 昭和43年卒

 

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